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  • キリスト教世界の暴虐は同世界にはね返るか
    ものみの塔 1972 | 10月1日
    • キリスト教世界の「攻囲」が始まる前に同世界を捨てなさい

      30 (イ)キリスト教世界の宗教指導者は,自分たちの歩みが聖書と調和するものでないことを知っていますか。(ロ)聖書はキリスト教世界がどんな裁きを受けることを示していますか。

      30 キリスト教世界の宗教指導者の持っている聖書は,彼らの行動を非とし,警告を発しています。彼らはエホバの証人が繰り返し述べてきた警告を知っています。ですから,「しばしば責られてもなほ強項なる者は救はるることなくして猝然に滅されん」という格言は彼らにあてはまります。(箴 29:1)イスラエルの王ダビデはその生涯を通じて神の裁きが働いているのを知って,「暴ぶるものはわざはひに追及れてたふさるべし」と祈りました。(詩 140:11)キリスト教世界の暴虐が同世界にはね返って荒廃をもたらすのは必至です。

      31 今起きていることを見ている人たちの取るべき正しい道とは何ですか。

      31 キリスト教世界の記録をお調べになりましたか。公正の神が存在することを信じておられますか。では,キリスト教世界の至る所で起きている暴虐を見ているあなたは,同世界が自らまいた種の結ぶ実として狂風を今やまさに刈り取ろうとしていることをご存じです。もしあなたが何らかの点でキリスト教世界の宗教制度と関係しておられるなら,今同世界を捨ててください!

  • 『エホバの名はかたき櫓のごとし』
    ものみの塔 1972 | 10月1日
    • 『エホバの名はかたき櫓のごとし』

      ハインリッヒ・ディックマン

      1937年,私はドイツ,ディンスラーケンのわが家でゲシュタポ(ナチドイツの秘密国家警察)に逮捕されました。ゲシュタポは,私がクリスチャンの兄弟たちを密告することによって彼らを裏切ることを望みました。もし「口を割る」ならそれほど苦しまなくてもすみ,もし口を割らないなら,ゲシュタポにも手がある,ということでした。私はゲシュタポがどんな手を使っても話さないことを決意しました。というのは私はエホバの名に信頼を置いていたからです。

      私は,69年の生涯の最後の40年にわたる経験から,「エホバの名はかたき櫓」であることを知るに至りました。―箴 18:10。

      私は若い時,ルーテル教会に属していましたが,そこでは安心感も希望も得られませんでした。ルーテル教会の賛美歌には,「われ,なんぢエホバにむかって歌う」という歌がありましたが,この名前は重要視されてはいませんでした。妻も私もまだ,エホバの名を知り,その真価を認識しなければならない状態にありました。

      1931年のこと,私たちはふたりのエホバの証人と数時間にわたって討論しました。証人たちは聖書を使ってエホバの名前を前面に押し出しました。その討論の結果,私たちは聖書に真剣な関心をいだくようになり,夜ふけまで勉強したものでした。まもなく私たちは証人の集会に出席するようになりました。私たちの生まれ故郷ディンスラーケンでは,その集会は私宅で開かれていました。数週間のうちに多くの聖書の知識を得た私たちは教会を去り,数か月のちには,エホバへの献身をバプテスマによって表わしました。

      私たちが教会をやめたことを家族がみな喜んだわけではありません。第一次世界大戦中軍隊に召集されたときに涙さえ流さなかった父親がこのたびは泣きました。それでも私たちは聖書の討論をつづけ,4人の兄弟のうちの二人,フリッツとアウグストが聖書の真理を受け入れました。私は自分の職場だったディンスラーケンのアウグスト-トイッセン鉄鋼会社で,いく人かの仕事仲間に,「黄金時代」(今の「目ざめよ!」)誌を定期的に,配布することができました。これは,ヒトラーが独裁者になった1933年までつづきました。箴言 18章10節は,1933年の年句として実に適切な聖句でした。「エホバの名はかたき櫓のごとし,義者はこれに走りいりて救を得」。

      エホバのみ名に信頼を置くことを学ぶ

      ナチ時代の開始期に,私は困難な状況のもとで再三再四,「エホバの名(が)かたき櫓」であることを学びました。ナチの反対にもかかわらず,わたしたちは「危機」という題の聖書を説明した小冊子を広く配布することができました。そして1933年6月,ヒトラーの政府は,集会や文書の配布を含む,エホバの証人の活動を全面的に禁止しました。

      1933年11月12日は,「第三帝国」において最初の選挙が行なわれた日でした。すべての政党は統合され,エホバのクリスチャン証人以外のドイツ人は投票に行きました。世の政治に関して中立を保ち,エホバの王国に対して忠実を守るよう彼らを助けたのは,その日の聖句,すなわち箴言 18章10節,「エホバの名はかたき櫓のごとし」でした。SS(シュツシュタッフェル,親衛隊)は私のところへ来て投票することを促しましたが,私はエホバの名に信頼を置き,SSの勧告に屈しませんでした。

      時は経過し,反対はしだいに強くなりました。1934年8月19日,再び選挙の日が訪れました。SSはまた私のところへ来て投票をするようにと言いました。彼らは3回やってきましたが,私はそのたびに神の王国について証言をすることができました。ついに10月7日,証人たちは一つの決議文をのせた書簡を政府に送りました。それと同時に,他の国々のクリスチャン兄弟たちも,ヒトラーがエホバの証人を禁止したことに対して2万通の抗議電報を送りました。

      私の職場でも事態は緊張の度を加えてきました。2,000人の従業員のうち,「ドイツ人のあいさつ」(ヒトラーへの敬礼)の拒否はおろか,政党やドイツ労働戦線にさえ属していなかったのは私ひとりでした。

      1935年の4月,国家社会主義ドイツ労働者党およびドイツ労働戦線から,「ドイツ人のあいさつ」をせず,投票を行なわず,ドイツ労働戦線に加わらぬ理由を述べよ,という手紙を受け取りました。それに対して私は,聖書に定められている原則をいくつか述べ,自分は国家の敵ではなく,一人のクリスチャンであることを説明しました。4月30日,私は逮捕されました。

      ゲシュタポは何時間も私を尋問したあげく,法廷に連れ出しました。検察官のひとりは私に,自分もクリスチャンだと言いました。それに対し私は,イエスの追随者は,仲間のクリスチャンを投獄することなど考えません,と答えました。10日後私は突然釈放されました。

      鉄鋼会社の職場にもどったとき,工場長は私に,「ディックマン,君を解雇しないもんだから,彼らはもう,私が祖国の発展を妨害している,などと言っているんだ。手をあげて『ドイツ人のあいさつ』をしたらどうだ。ドイツ労働戦線の会費は私が払ってやる。君の生活がおびやかされているんだぞ!」と言いました。私は工場長に十分証言することができ,これは単なる生計の問題ではなく,聖書の原則に従って生きるかどうかの問題であることを話しました。それで私は,ドイツ労働戦線からの命令で解雇されました。

      反対にもかかわらず神の真理を伝道

      私は,1935年7月7日に再び逮捕されるまで,聖書を持って戸別伝道をつづけました。翌月私は刑務所から,エムスラントの荒野にあるエシュテルウェーゲンの強制収容所に送られ,その後まもなく,私の会衆から4人のエホバの証人が送られてきました。そのうちの一人は私の肉身の兄弟フリッツでした。彼は何年かのちに,同収容所内で受けた傷がもとで死亡しましたが,死に至るまでエホバに忠節を保ちました。

      この悪名高い収容所に連れてこられた者は,朝から午後おそくまで尋問されました。ここではありとあらゆる手の虐待が試みられました。彼らはそれを「スポーツ」と呼びました。

      私は10月に裁判を受けるため,強制収容所からデュイスブルクの裁判所の刑務所に移されました。ここで私は神の真理について約1時間証言することができました。それである新聞は,「彼は判事をさえ改宗させようとした」と報じました。

      1936年の1月1日,私はこれという理由なしに突然釈放されました。生計の手段がなかったので,私たち夫婦と8歳の娘のために失業手当を受けました。そして1936年3月29日,また選挙の日がやってきました。ナチ党の演説者は,エホバの証人たちは回心したから投票に行くだろうと言いましたが,なんたる失望でしょう。エステルウェーゲンの収容所に入れられていたエホバの証人はみな,家族を連れて早朝森の中に集まりました。それは非常に楽しい1日の大会で,耐え抜くための霊的力づけをえました。

      私たちは地下にもぐって神の真理を伝道しつづけ

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