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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1969
塔69 5/1 259–260ページ

真の愛は忠実である

苦難に落ち込み,あるいはなんらかの苦境に立たされたことがありますか。そしてそのような場合に,あなたのもとにかけつけ,あなたの側に立って,必要な精神的あるいは物質的な助けを差し伸べてくれた友人に慰められたことがありますか。

そのような経験をお持ちなら,あなたは大いに感謝しておられるでしょう。そしてあなたは,真の愛は忠実であるということを,実際に経験されたことになります。霊感によってしるされた神のことばは,この点を適切に表現し,「兄弟よりもかたくついて離れない友(が)いる」と述べています。そうです,「真の友は常に愛をもち,兄弟は悩みの時のために生まれている」のです。―箴言 18:24; 17:17,新。

聖書の中にはこのような美しい友情の例があります。つまり,およそ3000年前のダビデとヨナタンの場合です。このふたりの友情物語は考古学者アルブライトにより,「清水の中の宝玉」と巧みに評されています。聖書によると,「ヨナタンの心はダビデの心に結びつき,ヨナタンは自分の命のようにダビデを愛し」ました。(サムエル前 18:1,口語)もとよりこれはダビデのすぐれた資質を深く認めたために違いありません。

ヨナタンはどんな時にもダビデを愛し,忠実な真の友であることを示しました。ヨナタンは父親サウルに逆らっても,ダビデの側に立ったのです。サウルは年若いダビデに対して激しい憎悪をいだき,彼を殺そうとさえしていました。サウルがダビデを殺すことについて語った時,ヨナタンはダビデを救おうとして,「なぜ彼を殺さねばならないのですか。彼が何をしたのですか」と言いました。―サムエル前 20:32,新。

サウルはダビデが自分についでイスラエルの王となることについて語りました。ヨナタンは父親のそのことばが正しいことを知っていましたが,そのためにダビデをねたんだりしませんでした。ダビデの側に立ったため自分の命さえ危うくなりましたが,それでもヨナタンはダビデに対して忠実でした。父親サウルはヨナタンがダビデを弁護したことを怒り,彼に槍を投げつけたのです。ヨナタンのこうした忠実さによって,ダビデが慰められ,力づけられたことは言うまでもありません。―サムエル前 20:24-34。

少し考えればわかるとおり,わたしたちはこの忠実な愛という原則を,まず第一に聖書の神つまりわたしたちの創造者への愛にあてはめねばなりません。もとよりわたしたちは神を愛すべきであり,したがって神に対して忠実でなければなりません。だれかが神をけなす場合,真のクリスチャンは神の側に立って神への愛を実証します。今日,神をけなす人が多くいることは事実です。そのことは公務に携わる一アメリカ人つまりアメリカの上院議員フランク・カールソンがはっきり述べました。同議員は,「だれも信用せず,だれも信じず,何にも信仰を置かない」という今日の風潮を取りあげ,こう述べました。「それ自体が何かをあるいはだれかを批判する要素を含んでいない新聞や本や雑誌を見つけることはむずかしいであろう。批判されるものの中には全能の神さえ含まれている。事実,神を批判することは今日のあらゆる批判の中でほとんど筆頭となっている。より多くの人々が,より多くの仕方で,またより多くの機会に,神を疑い,神を攻撃し,神に対する非難のことばを投げつけている。この国において,こうした事態は全く初めてである」― 「U・S・ニューズ・アンド・ワールド・リポート」誌1968年7月1日号。

真のクリスチャンは,神がほんとうに存在されるだけでなく,至上のかたであり,人が愛し崇拝すべきかたであることを示せます。そして実際に示すでしょう。真のクリスチャンは,神が今日まで悪を許された理由,また神がまもなく悪の存在を終わらせることについて喜んで知らせます。―詩 83:18。

人間どうしについて言えば,自分の友人が悪く言われ,友人を守るべき場合は数多くあります。たとえばある時,見知らぬ人が,ものみの塔協会本部の受付係に近づき,あるクリスチャン証人について荒々しい非難のことばを並べはじめました。自らもクリスチャン証人である受付係は,その人のことばをさえぎり,「わたしはそのような話を聞きません。だれかに不満があるならイエス・キリストがマタイ伝 18章15-17節で命ずるとおり,その人の所に行って直接に話してください」と言いました。これは友人に対して忠実なことであり,また知恵の表われでもありました。

そうです,友人あるいは信仰の仲間に対する重大な非難を容易に信じてはなりません。受け入れる前に,それがすべての事実に基づいているかどうかを知りなさい。それは誤解かもしれず,十分な説明によって問題を解決できるかもしれません。しかし,重大な非難が確かな事実に基づいている場合,一般になされるごとく,虚言者,盗人あるいは背教者などの肩を持つのは誤った忠実さです。神と正しい原則に対する忠実さが人間的な友情に優先しなければなりません。そして友情そのものも原則に基づくべきものではありませんか。

自分の友人が,未熟さのため不注意に行動し,あるいは生まれ持つ弱さに屈し,または何かの点で欠けていたり,誤ったりしたという場合もあります。問題がそれほど重大な事柄でないなら,あなたはここでも友人を守る側に立って忠実な愛を示すことができます。あなたはその誤りを許し,問題を最小限度にし,不満をいだいている人やうわさをする人に,わたしたちすべてが不完全であり,「だれをもそし(る)」べきでないことを指摘できるでしょう。こうした場合に特に必要なこととして,友人のあやまちを他の人に言いふらしてはなりません。むしろ,昔の賢い王が箴言の中で述べたとおり,「愛(が)すべてのとがをおおう」ことを心にとめるべきでしょう。―テトス 3:2。箴言 10:12,口語。

友人が自分の側に立ってくれたことを知るのは,ほんとうに心暖まるものではありませんか。そのような場合にこそ,『愛は徳を高める』と言えるでしょう。(コリント前 8:1,新)それは助けられた人の徳をも高めるだけでなく,勇気と忠実さとを表わして友人を助ける人の徳をも高めることになるのです。「人を潤す者は自分も潤される」という原則がここにあてはまるでしょう。―箴言 11:25。

注意さえすれば,真の愛が忠実なものであることを示す機会は多くあります。たとえば献身したクリスチャンは職場で他の人と接する際に,自分の神を擁護すべき場合にいつも面するかもしれません。また家族の中では人が密接なつながりを持っていますから,互いを忠実にささえるべき場合が多くあるでしょう。

自分が苦境にある時,他の人々に忠実であってもらいたいと思いますか。それでは,「人にしてほしいと思うとおりに,他の人にもしなさい」というイエスのことばを忘れてはなりません。―ルカ 6:31,新

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