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箴言 ― わずかな言葉で言い表わされた豊かな知恵ものみの塔 1980 | 5月15日
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者は懲らしめをもって確かにそれを捜し求める人である」― 箴 13:24,新。
言うまでもなく,懲らしめを与える場合には,怒りを爆発させるような仕方ではなく,常に自制をもって与えるべきです。また,どんな場合にでも体罰を与える必要があるというわけではありません。賢明な助言を二言三言与えるだけで十分な場合も少なくないのです。「一度のけん責は愚鈍な者を百度打つよりも深く理解力のある者のうちに働く」― 箴 17:10,新。
性の不道徳を避ける
箴言は性の不道徳を非としています。例えば,次の警告の言葉を検討してみてください。
「おきてはともしび,そして律法は光,懲らしめのしっ責は命の道だからである。それはあなたを悪い女から,異国の女の滑らかな舌から守るためである。心の中で彼女の美しさを欲してはならない。その女が輝きのある目であなたを捕らえることがないように。なぜなら,売春婦のために人は丸いパン一つに落ちぶれるからである。しかし他の者の妻,それは貴重な魂をも狩り求める」。(箴 6:23-26,新)
性の不道徳にふける人は,多くの場合に貧しくなります。「売春婦」,あるいは別の所で淫行をならわしにしている者と性的な快楽にふけろうとする人は,苦痛をもたらし,体の自由を奪う性病にかかり,健康を損ねるという形でも代償を払わなければならないかもしれません。ほかの人の配偶者と親密な関係を持とうとする人は,もっと大きな危険に身をさらすことになります。姦婦は,その密通の相手の「貴重な魂」,つまり命までも危険にさらします。この点に関して,霊感を受けた聖書筆者はさらにこう述べています。
「人はその懐に火をかき入れてなお衣を焼かれないでいることができようか。また,炭火の上を歩いて足を焦がされないでいることができようか。仲間の人間の妻と関係を持つ者も同様で,それに触れる者はだれも罰を免れない。……女と姦淫を犯す者は心が欠けており,そうする者は自分の魂を破滅へ至らせている。彼は災厄と不名誉を見いだし,そのそしりがぬぐい去られることはない。壮健な男子の憤激はねたみだからであり,その人は[自分の妻と姦淫を犯した者に対する]復しゅうの日に同情を示すことがないからである。いかなる贖いも考慮せず,贈り物をどれほど大きくしようと応じない」。(箴 6:27-35,新)
不義は当事者とその家族に取り返しのつかない害をもたらしかねません。
『快適な生活』に用心する
歴史を通じてどの時期にも,数多くの人が人生の主要な目標としてきたのは快楽の追求でした。聖書は楽しい時を過ごすことを非としてはいませんが,快楽を求める活動に対してもっと平衡の取れた見方を持つ必要を強調し,こう述べています。「あなたの見いだしたのは,はちみつか。あなたにとって十分なだけ食べよ。多く取り過ぎて吐き出すことがないためである」。(箴 25:16,新)文字通りのはちみつを食べ過ぎると体の具合が悪くなるのと同じく,快楽指向の『快適な生活』にふけり過ぎれば,身体的また霊的な病気になりかねません。その上,快楽に重きを置きすぎれば,貧困という悲惨な状況に至ることが少なくありません。「歓楽を愛している人は窮乏する者となる。ぶどう酒と油を愛している人は富を得ない」― 箴 21:17,新。
では,富を蓄えようと心に決めることはどうですか。箴言は富が頼りにはならず,突然消え失せてしまう場合もあることを警告して,こう述べています。「富を得ようと労してはならない。自分の理解から離れよ。あなたは自分の目にそれ[富]を一べつさせたのか。それが何でもないというのに。それは自らのために必ず鷲のような翼を生じ,天へ飛び去って行く」。(箴 23:4,5,新)ばく大な財産も,つたない管理や予見できない情勢などによって瞬く間に失われてしまうので,聖書は富の追求よりも信頼の置けるものに努力を向けるよう強く勧めています。次の諭しを注意深く読んでみてください。
「あなたは羊の群れの有様をはっきり知っているべきである。あなたの家畜の群れに心を留めよ。宝は定めなく保つことなく,王冠もすべての世代にわたることがないからである。青草は去り,新しい草が現われ,山々の草木は集められた。若い雄羊はあなたの衣のためであり,雄やぎはあなたの畑の代価となる。また,やぎの乳もあなたの食物,あなたの家の者たちの食物のために十分あり,あなたの娘たちの命を養うものとなる」― 箴 27:23-27,新。
物質の富(「宝」)も,目立った地位(「王冠」)も,真の安全を保証するものにはなりません。商取引につぎ込まれた時間と労力とお金は,思わくが外れたために失われてしまうことがよくあります。予期しなかった出来事によって,富と,人々から尊ばれる地位とを同時に失うこともあります。他方,家畜を世話することに労力をつぎ込むなら,それは減収をもたらすことなく,普通,所有者に増収をもたらします。神は家畜を飼うための「草木」を十分に備えてくださいます。人類史上どの時期においても,勤勉に家畜の世話をすることは,衣食や収入を得る面で富や名声よりも常に信頼の置ける手段となってきました。ですから,「あなたは羊の群れの有様をはっきり知っているべきである」という言葉は賢明な諭しと言えるのです。この言葉に含まれる原則は,今日,雇用という信頼関係に基づくどんな分野においても,勤勉な労働を勧めるものと解することができます。
箴言は幾千年も前に書き記された書物ではありますが,今日生きている人々にとって比類のない導きを含んでいます。その霊感による言葉を定期的に読むようにしましょう。そこに含まれる教訓について黙想するのです。一つ一つの箴言はほんのわずかな言葉から成ってはいますが,その豊かな知恵はあなたの生活をいつまでも安全で幸福なものにするでしょう。
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「雪花石こうの容器」とはどんなもの?ものみの塔 1980 | 5月15日
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「雪花石こうの容器」とはどんなもの?
イエス・キリストは香油を塗ってもらったことが二度ありました。一度はガリラヤのあるパリサイ人の家で(ルカ 7:37,38),もう一度はベタニヤのらい病人シモンの家でそのことが起きました。(マタイ 26:6,7。マルコ 14:3)いずれの場合にも,高価な油が雪花石こうの容器から注ぎ出されました。
びんの形をしたこうした小さな香油入れは,元来,エジプトのアラバストロン付近にある石から作られました。その石そのものは炭酸カルシウムの一種です(現代の雪花石こうは水酸化硫酸カルシウムなので混同してはならない)。本来,雪花石こうは白色をしていますが,それは石筍として形成されるので,ほかの色が入って縞模様を成すことがあります。
上に描かれているのは,エジプトで出土した古代ヘレニズム時代のびんです。前述の出来事の際にイエスに油を塗った女性たちは各々,高価な香油の入った「雪花石こうの容器」を手にしていました。花びんにも似たそれらの容器は,上の絵の容器に似たものだったことでしょう。上の絵の容器には“シナモン”という文字が刻まれています。
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