潔めを保ち守る
『実に,神の御意とされるものはあなた方が潔くあつて,……潔めと名誉のうちに,自分自身の器をどのように保ち持つべきか,あなた方各自は知らねばならぬことである。』― テサロニケ前 4:3,4,新世。
1 神の言葉は,どのよのように貴いですか?
ヱホバの言葉は,聖書と呼ばれる本を通して私たちのところにきます。聖書は,多くの小さな本からでき上つており,それらはみな大いなる著者によつて霊感されたものです。その方は,忠実な人間の筆者を用い,そして聖書の取り扱う問題について彼の心を表し示されました。神の言葉は,試験され,試みられたものであつて,清いものです。(シンゲン 30:5)幾世紀を通して,神の言葉は守り保たれ,堕落し腐敗した組織制度の中にあつていまや清いものであり,輝いているのです。その大いなる源は,完全で,義しく,そして聖いものですから,この言葉は十分であつて不足のものはありません。それですから,この言葉に,なにかを加えることも,またへらし取ることもなりません。(申命 4:2。黙示 22:18,19,新世)次のことについては,まつたく疑いはありません。すなわち,正義とその正義が含むすべてのものを愛する人々は,神のこの聖い言葉に依存しなければなりません。なぜならば,その神の言葉の中だけに,正しいことへの導きがあるからです。神の言葉は,そんなにも清く,聖なるもので,また貴いものであり,そして各部分はそんなにも美しいので,機に適つた言葉は,銀の据えつけの中の金のリンゴにたとえられています。『機に適つて語られた言葉は,銀の絵の中の金のリンゴのようである。』『彫刻した銀の据えつけの中の金のリンゴのようなものは,機に適つて語られる言葉である。』『描かれた銀の籠の中の金の果物は,適当な折に語られる言葉である。』― シンゲン 25:11,欽定訳,ア訳,ロザハム訳。
2 神の言葉の中に,どんな真理が見出されますか? しかし,人間はどんな態度をとつていますか?
2 貴重な尊い飾りまたは器が,清い金であつても,あるいは銀であつても,もし汚れた手か不注意な手でつかまれるならば,それは非常に間違つた風に用いられ,ひつくり返され,そしてその貴重な中味は空にされてしまうでしよう。神を認めない人々は,神の真理の言葉を誤り悪く取扱い,そのようなことをしてきています。聖書に書かれてある美しくて,大切なものの中に,潔めについての真理があります。しかし,潔めについて,今日の人々,そうですいわゆる『キリスト教』の世界の人々でも,どのような理解と認識を持つているでしようか? 彼らが知つているものは,その嫌な悪い意味で神聖ぶることというものです。神聖ぶること,すなわち偽善は,古い世のすべての構造の上に安つぽい虚飾板をかぶせるものです。そして,古い組織制度のあらゆる部分の下にある腐敗を隠そうと努めますが,それは無益な試みとなつています。公共の思想界の指導者たち,特にあらゆるキリスト教国の宗教指導者たちは,聖書を誤り悪く適用し,そして彼らの不敬虔な道を正しいものにしようという許すべからざる努力をしていますので,人々は,聖書に述べられている真の潔めという認識を取り去られて失つています。カトリック,新教徒<プロテスタント>,ユダヤ教,そして他の宗教の牧師たちは,一般に大衆のわがままにこびへつらい,大衆はまた神をないがしろにするような行いをしますので,その結果,人類の価値の意味は非常に歪じ曲げられてしまいました。それで神の憎まれるそれらのことを,心から残念に思う人は,全く例外の者たちみたいになりました。(エゼキエル 9:4)しかし,そのような例外の者たち,すなわち正義を愛する正直な心の人々は,多くおります。神の名にあつて行われる偽善の神聖ぶつたことではなく,真の潔めこそ,クリスチャンたちが常に守り行う賢明な道であると,彼らは確信をもつて知ります。そのような人々をして,その大いなる著者の聖さ,その真理の言葉の聖さ,そしてその朽ちない教理の神聖さを求めさせなさい。
3 テサロニケの会衆にたいする使徒パウロの関係を述べなさい。そして,潔めについて彼らとまた私たちに対する彼のはげましを述べなさい。
3 使徒パウロが第二の伝道旅行をしていて,クリスチャンの会衆をテサロニケに設立したのは,おそらく西暦49年か50年ごろでした。テサロニケのクリスチャンたちは,その信仰のために,最初からひどい宗教的な迫害をうけました。しかし彼らが耐え忍んだことは,古い兄弟であるパウロにとつてよろこびでありました。彼は彼らに手紙を書き,その信仰について,彼らをほめ,彼らの潔めを保ち守り,彼らが始めた正義の道を続けるようにと,強調してはげましました。テサロニケ前書にありますように,パウロが彼らに手紙を書き送つたことは良いことでした。そしてもし今日のクリスチャンがそれらの手紙をうけいれるならば,パウロの同じ言葉は,いまヱホバ神を愛する者たちを助けて,その潔めを保ち守らせることができます。
4 クリスチャンの潔めの起源は何ですか?
4 クリスチャン会衆の潔めは,使徒パウロから始まつたのではありませんでした。その著者と与え主は,ヱホバ神御自身です。その子キリスト・イエスを通して,神へのこの関係は開かれ,そして役立ち用いられるようになりました。イエス自身も,潔めについて話しをされました。キリストの体,すなわち油注がれたクリスチャン会衆の成員たちにとつて,潔めはヱホバの御意であるとパウロは示しています。テサロニケにいたクリスチャンたちは,その会衆の一部でした。
5 クリスチャンにたいする神の御意について,聖書からの証拠を述べなさい。
5 一番初めに引用されている聖句の中で,『神の御意とされるものは,あなた方が潔くあること』とパウロは示しています。(テサロニケ前 4:3,新世)ヘブル書 10章で,パウロは同様なことについて,自分の意見を発表しましたが,それは,潔めはクリスチャンたちにたいするヱホバの御意であると更に示すものです。その章で,キリスト・イエスの職務と,彼の体すなわち彼の霊的会衆のための彼の祭司の仕事について,パウロは論じています。キリスト・イエスについて,パウロは詩篇 40篇8節の予言を適用しています。その予言は,こうです。『わが神よ,われは御意にしたがうことを楽しむ。なんじの法は,わが心のうちにあり。』パウロはこのように書いています『それで,彼が世に来る時,彼はこう言う……「『みなさい! 神よ,あなたの御意をするために,私は(私について書かれている書の巻にあつて)来ました。』」「御意」と言われていることにより,キリスト・イエスの体をただ一度だけ献げられたことを通して,私たちは潔められたのである。』(ヘブル 10:5,7,10,新世)イエスが行い果されましたのは,間違いなく確かにヱホバ神の御意でありましたが,それとおなじく,潔めが何であろうと,クリスチャンが潔められるということはヱホバ神の御意です。
6 この記事の題には,何が含まれているかを述べなさい。そして,私たちにとつて助けとなる3つの事がらを,言いなさい。
6 潔めを保ち守ると言う時,潔めは自動的に保ち持たれるというものではなく,常に追い求めるべきものであるということを意味します。それは,全くその通りです。このことを考えてみる時に,テサロニケのクリスチャンたちがパウロの手紙をうけ取つたということは,なんというはげましであつたのでしよう。彼らは,神に忠実を保ち,その始めた道を続けて行こうと決心していましたが,次の文面を読んだ時,彼らのその決心は,強くなつたに違いありません。『終りに,兄弟たちよ,私たちは主イエスによつてあなた方に願い,すすめる。あなた方は,いかに歩き,いかに神をよろこばすかについて,私たちから学んだのであるから,その通りに実際に歩き,そしてもつともつと励みなさい……実に,神の御意とされるものは,あなた方が潔くあつて淫行から遠ざかり,潔めと名誉のうちに自分自身の器をどのように保ち持つべきかをあなた方各自は知らねばならぬことである。』(テサロニケ前 4:1-4,新世)私たちが,潔めを保ち守るためには潔めが何であり,それはどのように受けられ,そしてどのように保ち守られることができるかをもちろん知らねばなりません。
潔めとは何ですか?
7 『潔め』を定義し,それの正しいことと,それが強調する対照を示しなさい。
7 潔めとは,ヱホバ神と一致するということを意味します。ヱホバ神は,聖なることと正義から決して外れることはなく,また決して変化いたしません。ヱホバの正義は,全く完全ですから,ヱホバによつてつくられたものが彼に自らを献身することは正しいことです。実際に,潔めは,神の御意をするよう各自が献身することによつて先ずなされます。そして,各自のするこの行いは,それと一致して後にするその人の行動の道と共に,ヱホバ神を崇拝するためにされるのです。これはあらゆる面においてのヱホバの道徳と,そしてあらゆる面においての現代文明の不道徳とのあいだの非常な対照を,まつたく確かに強調するものです。神の行いは,彼のこの聖さに基きます。そして,彼に従い,彼を崇拝するつくられたものたちは,義しい行いを是非しなければなりません。それですから,ヱホバとすでに律法契約にあつたイスラエルにたいするヱホバの次の言葉は,適当であります。『われは,なんじらの神ヱホバなれば,なんじらその身を潔くせよ,さらばなんじら聖き者とならん。われ聖ければなり。なんじらは……その身を汚すことをせざれ。われは,なんじらの神とならんとてなんじらをエジプトの国より導きいだせしヱホバなり。われ聖ければ,なんじら聖くなるべし。』― レビ記 11:44,45。
8 クリスチャン会衆の者たちにたいして,レビ記 11章44,45節は,どのように適用されますか?
8 ヱホバは聖くあられるからという理由によるこの潔めは,イスラエルの国民と共に終りませんでした。むしろ,原則においてはこの潔めは,キリスト・イエスの油注がれた従う者たちからなり立つクリスチャン会衆にもあてはまり,行われたものでした。しかも以前よりは,一層の強い力がつけ加えられましたので,使徒ペテロは,潔めを実際に行いまた伝道しました。そうすることによつて,ペテロは,潔めを保ち守ることの必要を他のクリスチャンたちに表し示し,そしてこう言いました。『あなた方の心をひきしめて,働き,全く落ち着きをたもつて,そしてイエス・キリストの現われるときに,もたらされる恵みある御親切に,あなた方の希望を置きなさい。あなた方は,従順な子供たちとして,以前に無知のために持つていた慾望に従うのを止めなさい。そうではなく,あなた方を呼ばれた聖なる方に一致して,そのすべての行いにあつて,あなた方もまた聖くなりなさい。なぜならば,「私は聖いのであるから,あなた方は聖くならねばならない。」と書かれているからである。」』― ペテロ前 1:13-16,新世。
9 イスラエルの警告となる例を言いなさい。
9 国民として,イスラエルはその潔めを保ち守れませんでした。それで,神の認めと祝福を失いました。そのことから,クリスチャンは警告を学びとるべきです。―コリント前 10:6-11。
10 『潔め』の力のある定義を言いなさい。
10 『潔め』という言葉は,神聖にする,または聖なるものとする,そして神聖なる職務のために別に取り分けるという意味です。それは,『潔め』という英語の言葉についての,一般に認められている定義です。その言葉は,ラテン語からきており,そして罪から自由にし,道徳の腐敗から清めるという意義をも持つています。その言葉は,力のある表現であり,その意義に多くのことを含み持つているのです。
それは真ですか? 可能ですか?
11 潔めは真のものですか? そして,あなたはなぜそう答えますか?
11 私たちは何と言いますか? いま地上にいるクリスチャンの男や女にたいする潔めは,真のものですか? それともたんなる言葉に過ぎず,宗教制度が,現実的でもなく,また実際に適用されることのない教理とか教えの中に入れて用いるだけのものですか? ヱホバ神御自身が真であられ,そして聖くあられるように,潔めは真のものです。前に引用されている神の明白な言葉を信ずるならば,ヱホバの聖なることは真のものであつて,それについてはなにも仮装がないということを知ります。神の子であるキリスト・イエスは,死ぬ少し前に,天の父に次のように祈りましたが,その時に事柄を誤り偽つて示してはいませんでした。『あなたが世の中から私に与えられた人々に,私はあなたの名前を明らかに示しました。……彼らについて,私はお願いをします。この世についてではなく,あなたが私に与えて下さつた人々についてお願いをします。……聖なる父よ,あなたが私に与えられたあなた自身の御名を考えられて,彼らを見守つてください。それは,私たちが一つであるように,彼らも一つであるためです。……私は,彼らにあなたの言葉を与えました。しかし,世は彼らを憎んでいます。なぜならば,私が世の一部でないように,彼らは世の一部ではないからです。……真理によつて,彼らを潔めてください。あなたの言葉は,真理です。……彼らの為を考えて,私は自らを潔めています。それは,真理によつて,彼らもまた潔められるためです。』― ヨハネ 17:6-19。
12 ヨハネ伝 17章6-9節の聖句を語られた時のイエスの状態は,どんな対照を明白に表わしますか?
12 くるしみの杭の上にかかつて,死のうとする直前にあつて,主は心に充ち溢れて言葉を話されましたが,その健全な言葉とくらべる時,偽りの宗教の神聖ぶつた虚飾は,なんとみすぼらしいものなのでしよう! イエスが生存され,そしてヱホバを崇拝したために死なれたことは,全くたしかなように,彼がここで語られた彼自身の潔めも,またここで言い及ぼされている彼の仲間たち,すなわち体の成員たちの潔められることも必らずたしかなものであります。
13 パウロとペトロは,潔めは何であるかと述べましたか?
13 パウロによればテサロニケ人たちにとつてそれは真のものでした。なぜならば,彼らにたいしてパウロはこう言つているからです『あなた方は,その通りに実際に歩き,そしてもつともつと励みなさい。』(テサロニケ前 4:1,新世)ペテロは,聖くあることについて前述のようなすすめを私たちに与えていますが,彼は潔めの現実について,私たちを間違えて導いてはいませんでした。それで,ここでの問題はこうです。すなわち,潔めは真のものであつて,たんに語るだけの空しい言葉ではありません。またそれは,実際的なクリスチャンの生活の仕方であつて,その民にたいする神の御意であり,また現実でもあります。
14 不完全な人間と,それの持つ疑問に関係する事実を語りなさい。
14 しかし,全く真面目な心を持つある人は,次のように考えるかもしれません。私たちは弱い不完全なものたちであり,生まれつきに罪深さを相続している者です。それで,たとえ潔めがクリスチャンに対する神の御意であり,また神の見るところにあつて,潔めは真のものであるとしても,私たちは,どうして潔められ,聖なるものとされ,義に献身し,あるいは聖なる奉仕に聖別されることができますか? この疑問にたいして,私たちは,聖書から,潔めは達成することのできるものであると言います。
15,16 ヱホバ,キリスト・イエス,そしてローマ会衆の見地から,潔めは可能であるということを正しく論じなさい。
15 ヱホバ神御自身は,私たち人間の弱さを一番良く知つておられます。キリスト・イエスは,私たちの状態を,良く知つておられました。いまでも良く知つておられます。また私たち以上にその理由と救いを深く認識されています。しかも私たちを安心させ確信させる前述の言葉を言われているのです。また,使徒パウロは潔めについて別の会衆に手紙を書きました。この会衆は,ユダヤ人と異邦人たちとで構成されており,当時の地上で,おそらく最も腐敗していた都市にありました。すなわち,異教ローマ帝国の首府である異教ローマの都市でした。ローマは,巨大なローマ帝国のすべての腐敗が流れこんだ下水,またはドブであると説明されています。もちろん,悪くて古い組織制度は,ローマの当時より改良してはいません。それは当時より悪くなり,今日の偽りのキリスト教の虚飾のあるために,もつと腐敗しています。しかし,初期ローマ会衆の時代にあつて,その崇拝者に対する神の御準備は効果があるものでしたが,そのように現在でも全く効果のあるものです。それで,ローマにいる兄弟たちの無能力に対して,使徒パウロはどんな思いやりを持つたかに注意しなさい。そして,パウロがここで発表したのと同じ思いやりを,ヱホバは持たれているということを知りなきい。ヱホバは,現在の民の利益のために,キリスト・イエスを通してこの思いやりを持たれているのです。
16 『あなた方の死ぬべき体の中にあつて,罪を王として支配し続けさせてはならない,そしてその欲望に従つてはならない。あなた方の諸器官を,不義の武器として罪に捧げてはならない。しかし,あなた方自身を,死より生かされたものとして神にささげ,また諸器官を,正義の武器として神にささげなさい。あなた方は律法の下にはいないで,恵みある御親切の下にいるのであるから,罪があなた方の支配者となつてはならない。ではどういうことになるか? 私たちは律法の下にいないで,恵みある御親切の下にいるのであるから,罪を犯すのであろうか? そのようなことが決してあつてはならない! もしあなた方が奴隷として誰かに身をささげ,その者に従うならば,それが結局には死という罪のものであれ,または正義という従順のものであれ,その者に従うために,あなた方はその者の奴隷であるということを知らないか? しかし,神に感謝すべきは,あなた方はもと罪の奴隷であつたが,あなた方は受けたあの教えに心から従順になつたことである。そうです,あなた方は罪から自由にされたのであるから,あなた方は正義の奴隷となつた。あなた方の肉の弱さのために,私は人間の言葉で話す。以前に,あなた方は,あなた方の諸器官を奴隷として汚れたものと不法なものにささげ,不法なものとなつていたが,そのようにいま,あなた方の諸器官を奴隷として正義にささげ,聖くなりなさい。』― ロマ 6:12-20,新世。
17 『潔め』のうちに,各人の生涯にたいしてどんな変化が意味し含まれますか? そして,潔めは,クリスチャンと共に自動的に続いて行くものですか?
17 その時のローマのクリスチャンたちだけでなく,テサロニケにいたクリスチャンたちも,また1954年の今日の油注がれたクリスチャンたちにとつても,潔めは次のことを意味します。すなわち,彼らはその生涯を変え,彼らの各人は,大いなる法律の与え主であるヱホバ神の前にあつて,不法の道から離れて,適法の道に従うことです。クリスチャンは,この潔めを必らず追い求め,そして保ち守らねばなりません。潔めは,人について自動的に,続いてゆくものではありません。なぜならば,潔めは人の生涯にたいして変化を含み意味するからです。人は,最も高い方に自らを献身した後にその変化をするのであり,そして人は,その変化を続け,円熟しなければならないからです。人の生涯にこの変化をするということは,正義の神すなわち正義の大義への献身を守り行うことを意味します。地上にあつて,どんな大義が正義ですか? それは,国家的な大義ですか? 政治的な大義ですか? どんな大義は,腐敗の汚れを全くうけていませんか? 理智あるつくられたものが献身するのに,どんな論争は価値あるものですか? 神について,最高至上権について,清い崇拝について,一つの正義の大義について,そして聖なる企図についての論争を正しく決定するならば,それはヱホバ神についての論争です。ヱホバの最高至上権についてのこの論争のために,彼を崇拝する者たちは,ヱホバが神であることを擁護宣明いたします,そしてその時に,彼らはヱホバの造られたものとヱホバとの間柄に関する事実,そしてまたヱホバと彼の啓示された言葉である聖書に関係する事実について人々の注意を呼びおこすことによつて,そうするのです。
18 ヱホバは,この古い世の宗教のあいだに,彼の大義を擁護する者を見出しますか?
18 この古い世の宗教のあいだに,ヱホバの大義を擁護する者をヱホバは見出しますか? もしあるならば,その擁護する者の名前を言いなさい! 一つもありません。このことを説明するものは,新教主義を代表するある著名な代弁者の書き記したものです。その人は最近に『革命時代にあつて伝道する』という本を書きましたが,その中で,教会での父と子について語つていた以前の筆者について話しが及び,この司祭はそのことがらを次のように詳細に述べています。『年を取つた教区長は,旧約聖書を読んだ,それで少年は,人々の上に災いを送り,人々を亡すために火の蛇をつくつたおそろしい神を知つた。その夜のこと,父親が少年の寝室を通り過ぎた時,少年は父親を呼んで,父親のくびに手を廻し,そばに引きよせてこう言つた「お父さん,お父さんはヱホバを憎むでしよう。僕もヱホバを憎む。ヱホバはきたないいやな弱い者いじめね。僕はあんなの大嫌い。』このことがらについてこの本の著者がした論評にいま注意してごらんなさい。そして著者である司祭が,聖書の神を擁護したかどうか,そしてまた神が古代においてなされた彼の立証の業についての聖書の説明を擁護したかどうかを決定しなさい。『我々は,憎むべき神についての考えと歴史的に結びついている和解についてこの考えを長いあいだ拒絶してきた。我々にとつて,神は怒りつぽい,おそろしい,復しゅうをするものであつて,そしてアダムが罪を犯したために,人間をやたらに殺してしまうようなものであつてはならない。正直な少年が,全くいやになるのも当然であつて,「きたない,いやな弱い者いじめ」と言うのも不思議ではない。』
19 誰だけがヱホバの大義を擁護しますか?
19 キリストは,ヱホバを常に擁護しましたが,そのキリストの名前を信じている者が,まだ分別もなく,しかも間違えて教えられている子供は正しいのだと支持して,そしてその子供の言つた言葉,すなわちヱホバ神は『汚ないいやな弱い者いじめ』というのを認めているとは,なんと恥ずべきことなのでしよう。しかし,このようなことは新しいことではありません。イエスの時から今日にいたるまで,地上にいるどんな人がヘブル語聖書の神を擁護してきましたか? 誰がその神の最高至上権を宣明し,その方に愛と献身をささげ,そして仲間の人たちにも同じことをするようにと呼びかけていますか? この今日にあつて,ヱホバ神の大義のためにこの行いを誰がしていますか? それらの人々とは,自分の意志で決定してから,理解と愛のうちにその生涯を変えることにより,その器官を『義の奴隷として,聖くして』捧げる者たちだけであります。それは,聖なる神の聖なる大義に奉仕することです。潔めは,人の献身した器官をヱホバにささげ,聖さに達することを含みます。この聖いことは,真のものであつて,私たちはその聖さを得ることができ,そして保ち守ることができます。
どのようにうけますか?
20 誰から潔めは来ますか?
20 前に出ていて,研究した聖句は,他の聖句と一致しており,そして潔めはヱホバ神からのものであると示しています。ヱホバ神は,その真理の言葉によつてキリストを通じて人々を御自身にひき寄せられ,そしてその御自身の正義によつて人々をひきつけられます。ヱホバ神は,キリストの贖いの御準備をそなえられることによつて,不完全な人をして,神と和解した関係の立場を取らせることができます。それは,イエスの犠牲の恩恵により,そしてまたイエスの犠牲にたいして信仰を持つことにより,彼らは義と言明されたからです。『しかし,あなた方がキリストイエスと共におられるのは,彼(神)によるのである。キリスト・イエスは,私たちにとつて神からの智慧となり,また正義と潔め,そして贖いによる救済となられた。』(コリント前 1:30,新世)信ずる者たちが,自らを献身するのはヱホバ神にであります。それですから,潔めはヱホバから真にくるのです。イエスは,次のように言つた時,このことを示しました。『父が潔め,そして世につかわした私に対して,私は神の子であると言つたということで,「冒瀆するもの」とあなた方は言うのか?』― ヨハネ 10:36,新世。
21 潔めをするにあつて,真理はどんな役割りを果しますか?
21 また,潔めを得る手段を考えてみるときに,私たちはすぐにイエスの言葉を考えます。イエスは天の父にたいして次のように言つて,真理はその手段であると示しています。『真理によつて,彼らを潔めて下さい。あなたの言葉は真理です。』(ヨハネ 17:17,新世)それですから,神の表し示される言葉は,潔めの義しい道にたいして是非必要なものです。ヱホバは,キリストの体のクリスチャン会衆の献身した成員たちを潔めて,彼らに天の御国に入る召をあたえ,彼の聖霊でもつて彼らに油を注ぎ,彼らを彼の聖い神聖な奉仕だけに従事させ,聖別して,そして彼の真理の言葉によつて,彼らを導きます。そうです,しかし各人の生涯にあつて,最初に真理はどのように人々のところにきますか? ヱホバ神が降りてきて,彼らと一緒に坐り,彼らにその言葉を教えるなどということは全くありえません。またキリスト・イエスもそうされないでしよう。なぜならば彼は天の王だからです。使徒パウロは,テサロニケの同じ会衆に手紙を書き,潔めをする真理がどのように人のところに来るかを示しています。というのは,パウロはテサロニケにいた人たちに真理がどのように来たかを思い起して,このように言つているからです。『神は,御霊とあなた方の真理に対する信仰によつて,初めから救いのためにあなた方を選ばれたのである。私たちが宣べつたえる良い音信によつて,神はあなた方をこの運命に召されたのである。……それで兄弟たちよ,かたく立ちなさい。』― テサロニケ後 2:13-15,新世。
22 潔めをするにあつて,クリスチャンの宣教のする役目を示しなさい。
22 パウロが,テサロニケの人々に良い音信を宣べ伝えましたので,テサロニケの人々は神の真理の言葉に接し,そして信じて信仰を置き,その結果に神によつて選ばれ,潔められて救われるようになつたと考え理解すべきでしようか? そうです,全くその通りです! そのことは,クリスチャンの時代でもそうでありましたが,今日でもそうです。人々は,神との間に,彼への潔めまたは献身のこの祝福された関係に入りますが,それは,彼らよりも前にそのような関係に入つた他のクリスチャン奉仕者たちが,彼らのところに神の言葉の音信をもたらし,彼らに聖書の真理を伝道したからであり,そして彼らが聞いてそれに答え応じたからです。『私はキリスト・イエスの公けの僕となり,諸国民に仕え,神の良いたよりの聖なる仕事に従事する。それは献げもの,すなわちこれらの諸国民が神によつてうけ入れられると証明され,聖霊によつて潔められるためである。』― ロマ 15:16,新世。
23 霊的な兄弟で『年上』と『年下』の今日の関係を説明しなさい。
23 霊的に言うならば,パウロは彼らの兄であり,彼らはテサロニケにあつて弟たちでした,というのはパウロから彼らは神の言葉のこの音信をうけ取つたからです。そのクリスチャンの型は変つていません。それは,今日でも同じです。1914年に御国が設立し,1918年に主が裁きのために宮に来てから,そしてまた1920年以来に神の設立されている御国についての音信が地のいたるところで熱心に宣べ伝えられてから,ヱホバを崇拝する人々の数は今日まで増大し,いまでは143の国々や土地で,幾十万という人々になつています。それらの人々は,ちようどテサロニケの人々が,使徒パウロの伝道に答え応じたように,彼らよりも霊的に『年上の』奉仕者たちの伝道に答え応じたのです。永年のあいだヱホバの大義を擁護している奉仕者たちは,いまでも神の奉仕に熱心で積極的です。御国が1914年に設立される以前に良いたよりの奉仕者であつた者のうち,ある奉仕者は,いまでも強くなりつつあります。それらの多くの奉仕者は,現代のキリスト教聖書教育の仕事に従事しており,1919年に始まつている,現在の増加する繁栄をずつと経験しているものです。神のこれらの忠実な僕たちは,多くの伝道をしています,そして年月がたつにつれて,他の者たちも彼らに加わり,そうして業は増大します。地上にあつて,いま約2万人の人は残つている人たち,すなわち神の潔められたキリストの体の残れる者たちということを示しています。その数は,1954年の記念の象徴をいただいた数から示されています。
24 何ののなかに,私たちは,私たちの『年上の兄弟』を認めますか?
24 最近に,私たちは,聖書の真理で目が開いて,ヱホバのすばらしさを見ますが,これら年上の兄のような奉仕者たちは,使徒パウロがテサロニケの会衆に対して持つたのと似ている関係を私たちに対してもつているということを認めます。さらに,そしてもつと重要なことですが,その油注がれた残れる者の制度を,一人の愛ある年上の兄弟として認めます。そして,もし私たちがいま神に献身しているならば,私たちが救いに選ばれ,真理に信仰を持つている理由は,この『年上の兄弟』が良いたよりを私たちに伝道したからであると知ります。しかしながら,最も重要なものとして,私たちはみな真に一番年上の兄弟,キリストイエスの過去と現在の宣教を認めます。私たちは,このことをよろこんで認め,すべての感謝と讃美をイエス・キリストを通じてヱホバ神に捧げます。