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  • 偏見 ― みんなの問題
    目ざめよ! 1985 | 2月8日
    • な不信感や誤解によって,さもなくば育めたはずの友情が損なわれてしまいます。

      ですから,偏見は実際に“みんなの問題”なのです。では,偏見はどこから来るのでしょうか。偏見を除き去ろうと人間が最善を尽くしているのに,それがうまくゆかないのはなぜでしょうか。こうした疑問に対する幾らかの洞察を得るために,広く見られる偏見の一形態である,人種に関する偏った見方にスポットライトを当ててみることにしましょう。

  • 偏見の表われ方
    目ざめよ! 1985 | 2月8日
    • 偏見の表われ方

      ある研究者が一人の男性に特定の民族に対するその人の見解を求めました。するとその人は,「あの人たちは気まぐれで,短気だ。そういう血が流れているのだ」と答えました。

      「この民族の中に知っている人がいますか……それも個人的に」という質問がなされました。

      『ええ,一人知っています。彼は高校時代わたしたちの学年の生徒会長でした』。

      『その“生徒会長”はこの民族に対するあなたのイメージ通りの人でしたか』。

      「いいえ,彼は冷静で,気持ちの良い人でした」とその人は認めました。

      『それではその人には,「気まぐれで,短気」な「血が流れて」いたとは言えませんね』。

      少し間を置いてから,その人はこう答えました。「彼は例外ですよ」。

      偏見を抱く(「早計な判断」を下す)とは,公正に吟味をすることなしに,他の人々を裁くことです。こうして全く見ず知らずの人が十把ひとからげに,何の根拠もなく,先入観に基づいて,“なまけもの”,“こうかつな人間”あるいは“危険人物”といったレッテルをはられてしまいます。これは偏った見方をする人が,個人ではなく集団を見るからです。その人にとって,ある民族に属する人は「みな同じような人間」,個性を持たないクローンのような存在です。そして冒頭に挙げた例からも分かるように,偏見を持つ人は大抵の場合,自分の持つ偏った見方をあくまでも守り,事実を挙げられて間違っていることが証明されても自分の考えを曲げません。「今日の心理学」誌が取り上げているように,偏見を持つ人々は,「[ある]人が一つの決まった型に当てはまると思える行動を取るときにはそのことに注目し,それを覚えるきらいがある一方,その決まった型とは相入れない証拠のほうは受け入れようとしない」と言われています。

      偏見は偏見そのものによって培われます。不利な鋳型に入れて鋳込まれた人々は,大抵の場合に自尊心を失ってしまう結果,期待されている程度のことしか実際に行なわなくなります。あるいは,聖書が伝道の書 7章7節で述べている通りの結果になります。「単なる虐げが賢い者に気違いじみた行動を取らせることがあ(る)」。虐げの犠牲になる人々はうらみの気持ちに捕らわれてしまうことがあります。偏った見方に対して異常なほど敏感になって時に過激な反応を示し,実際に偏見がないのに偏見があると思い込むことがあります。別の人種の人と見れば相手かまわず不当に疑惑の目を向けたり,敵になりかねない者とみなしたりします。ですから偏狭な態度は何も一つの人種あるいは国民の専売特許ではないのです。

      人の考え方が一度偏見に捕らわれると,ほとんどすべての民族を嫌うようになりかねません。幾人かの大学生が,32の実在する国々や人種と三つの架空のグループ(「ダニエリア人」,「ピレニア人」そして「ワロン人」)に対する自分の感情を言い表わすよう

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