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  • 『讃美のいけにえを神に捧げよ』
    ものみの塔 1957 | 1月15日
    • 13 会衆の集会は,クリスチャンである私たちをどのように進歩改善せしめますか。

      13 任命された僕たちや,計画された集会を持つ会衆は,私たちをして円熟したクリスチャンに生長せしめ,かつ私たちの壊滅を図るサタンの無神論の波に対しても,打ち克つことのできるために,組織されています。いまは,使徒の時代と丁度同じようです,『彼はある者を使徒,ある者を予言者,ある者を宣教者,ある者を牧者,および教師とし,宣教の業のために,聖徒たちの訓練を目的とされた。それはキリストの体を建てて私たちが一つの信仰を持ち,神の御子の正確な知識を得るためである。かくして,私たちは全く成長した人,キリストの全きに達するのである。それは私たちがもはや幼児ではなく,人間の悪企みによるいろいろな教の風に吹きまわされたり,もてあそばされたりすることのないためである。』集会に出席したり,註解を述べることにより,『あなた方は信仰を持つているのかどうか,いつたいどういう者であるのかを調べ吟味し』つづけることができます。もし,あなたの註解が本筋から離れるなら,『もつと円熟している別の人は,あなたを正しい考えに引戻すことができます。このことをしないなら,『みな語ることを一つにし,』『同じ心,同じ思になつて,堅く結び合つていてほしい。』という神の要求を,会衆としてあなた方はとうてい充すことができないでしよう。―エペソ 4:11-14。コリント後 13:5。コリント前 1:10,新世。

      14,15 会衆の集会でたがいに交ることは,ヱホバの証者にとつてなぜ重要ですか。

      14 会衆の集会に出席するときの価値は,学んだり心を一つにしたり,またヱホバに捧げる讃美の犠牲を改善することだけで,終つてしまうのではありません。たがいに交るということ自体だけにも価値があるのです。そこには,ヱホバの御霊が集中しているように見えます。それで,私たちの精神は神権的なものに向上します。私たちの中の大部分の人々は,この世で多くの時間を費し,堕落した人々と肩をならべ,人々の無意味で汚れた話を聞き,そして下劣な行を見ております。それですから,会衆の集会に出席することは,都会の貧民窟を通り抜けて爽快な山のところに行くようなものです。『悪い交わりは,良いならわしをそこなう。』しかし,良いまじわりは悪い習慣を消し去り,悪い習慣の代りに良い習慣をつくります。(コリント前 15:33,新口)ヱホバから離れているこの人類の海の中に散らばつている私たちは,小さな島々のようです。そして,後から後から果てしなく押し寄せる波によつて,海面の高さまでけずり落される危険にいつも面しています。しかし,私たちが互に集まるとき,お互に力を受けて,襲いかかる海にもビクともしない強い土地のようになります。私たちは新しく勇気と大胆不敵さを得ます。そして力を新にしてこの世に反抗することができます。しかし,私たちを集会から遠ざける巧妙な罠にかかるなら,私たちは間もなくしてたゆむようになるでしよう。『私たちは,善を行うことにうみ疲れてはならない。たゆまないでいると,時が来れば刈り取るようになる。』― ガラテヤ 6:9,新口。

      15 私たちがひとりだけでいて,この世から打ち叩かれるなら,私たちは勇気を失い勝ちです。そして,忠実を守つているのは私たちだけであり,必らず負かされてしまうだろう,と考えます,ずつと以前の昔,予言者エリヤはヱホバの為に熱心でした。しかし,自分になされた恐ろしい脅迫の執行を避けて生命を守るため逃げてしまつたのです。エリヤは洞穴の中に一人だけで閉じこもつていましたが,ヱホバは彼にこう尋ねました,『エリヤよ,汝ここにて何をなすや』予言者はこう答えました,『イスラエルの子孫,汝の契約を棄て,汝の壇をこぼち,刀をもて汝の予言者を殺したればなり。ただ我一人存れるに彼らわが生命を取んことを求むと,』エリヤは,自分一人だけが生残つてヱホバの義に関心を持つている者だ,と感じましたが,そうではなかつたのです。『我イスラエルの中に七千人を遺さん。みなその膝をバアルにかがめず,その口をこれに接ざる者なり。』(列王紀略上 19:13,14,18)集会に定期的に出席するならば,他の兄弟たちとも接触を保つて私たちは力をうけることができます。

      16 クリスチャンが孤立して,ひとりだけになろうとするのは,なぜ愚かなことですか。

      16 サタンは群を分裂せしめて打ち負かし,そして群を散らして,迷い出た人々を餌食にしたいと望んでいます。会衆は相互の援助をなすために互に結集しなければなりません。私たちが独りであるなら,倒れるときに誰が私たちを助けますか。私たちが独りであるなら,ヱホバへの熱心を熱く保つのはずつと難しいものです。いつしよになるとき,私たちは無活動の人々の冷えた気持を暖めることができます。この原則は,伝道之書 4章9-12節にこう示されています,『二人は一人にまさる。そは,その労苦の為に善き報を得ればなり。すなわち,その倒るる時には,一人の人その伴侶を扶けおこすべし。されど,孤身にして倒るる者は憐なるかな。これを扶け起す者なきなり。又二人ともに寝ぬれば暖かなり。一人ならば,いかで暖かならんや。人もし其一人を攻め撃たば二人してこれに当るべし。三根の繩は容易く断れざるなり。』私たちが倒れるなら,私たちの熱心が冷えるなら,そしてサタンの攻撃をうけて屈服するなら,私たちはヱホバに讃美の犠牲を公やけに捧げることができなくなります。この災を避けるために,私たちは互に集まるのを忘れてはなりません。ひとりだけの羊になつてはなりません。群から離れ出た羊は,失われた羊だからです。忠実な僕である会衆の羊飼は,熱心に努力して失われた羊を新しい世の社会に連れ戻そうと努めます。(マタイ 18:12-14)それですから,自分の霊的な力を過大に評価して,一人だけになつて利己的な事柄を追求し,かつ互に集まれという健全な原則をないがしろにしても大丈夫,だなどと考えてはなりません。『己を人と異にする者は,おのれの欲するところのみを求めて,すべての善き考えにもとる。』― シンゲン 18:1。

      17 私たちはヱホバからの教を,どのように受けねばなりませんか。

      17 疵のない牛のごとき,神の是認をうける唇の実を持とうとするためには,私たちはヱホバからの教を受けねばなりません。聖書を読むことによつて,ヱホバからの教を受けなさい。秩序だつた研究をすることにより,教をうけなさい。会衆の集会で教を受けなさい。ヱホバは特に会衆の集会において,その食卓に霊的な食事をひろげておられるのです。来て食べなさい! みなさんは,寝床で食事を取りますか。みなさんは食事の価値を知つている故に,食卓のところで食事をします。それであるなら,実際の食事よりももつと大切な霊的な食事も食卓のところで頂くべきでしよう。ヱホバは霊的な食事を寝床で給したり,又は会衆の集会所からは離れている家庭で給したりするようなことをして,怠惰な気持をゆるすようなことをしません。食卓である御国会館に行きなさい! これらの必要なことを全部しないなら,健全で全く,しかも解明を与える讃美の犠牲として必要な言葉を熱心に得ていないことになります。恥ずかしいことには,次の神よりのさとしに沿つていないことになります,『あなたは真理の言葉を正しく教え恥じるところのない錬達した働き人になつて,神に自分をささげるように努めはげみなさい。』― テモテ後 2:15,新口。

  • あなたの讃美の犠牲を正しくささげよ
    ものみの塔 1957 | 1月15日
    • あなたの讃美の犠牲を正しくささげよ

      『いつも,塩で味つけられた,やさしい言葉を使いなさい。そうすれば,ひとりびとりに対してどう答えるべきか,わかるであらう。』― コロサイ 4:6 新口。

      1 塩によつて何が象徴されていますか。

      モーセの律法は,犠牲には塩で味つけることを要求しました,『なんじ素祭をささぐるにはすべて塩をしてこれに味つくべし,汝の神の契約の塩を汝の素祭に欠ことなかれ,なんじ礼物をなすには,すべて塩をそなうべし。』なぜですか。塩は防腐剤であり,腐敗を防ぎます。醗酵したものを捧げることは,禁ぜられていました。それで,犠牲に塩をつけるならば,醗酵するのを防いだのです。塩は,腐敗による変化を妨げる故に,永久性を保証しました。そして,契約に関連しては,塩は契約の不変性,永続性を示す為に用いられました。昔の人々のあいだでは,塩をいつしよに食べることは友情のしるしであり,永久の信義と忠節を表わし示しました。ヱホバの祭壇に酬恩祭の犠牲を捧げる者は,ヱホバと共に与る者と考えられました。それで,犠牲とともに塩を用いることは,ヱホバと共に塩を食べることを表わしました。それは,永遠の忠節を象徴したものです。―レビ 2:13。

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