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  • 賢人はどんな意味で述べたか
    ものみの塔 1977 | 7月15日
    • 賢人はどんな意味で述べたか

      天地の創造者であられる至高者は,わたしたちが畏敬の念や畏怖の念を抱くのにふさわしい方です。ソロモン王はこの点を強調し,次のように書きました。

      「[真の神の家]に行く時には,その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行なっていることを知らないからである。神の前で軽々しく口を開き,また言葉を出そうと,心にあせってはならない。神は天にいまし,あなたは地におるからである。それゆえ,あなたは言葉を少なくせよ」― 伝道 5:1,2,口,[新]。

      こと崇拝の場所にかけては,人は自分の足どりを見守り,どこへ行くのかを正しく心に留めておくべきです。“真の神の家”は確かに,道徳的に汚れた人や神聖な事柄に敬意を払わない人のための場所ではありません。(詩 15:1-5)それは,“聞く”ための,つまり神の教えに注意を払う,あるいは従うための場所です。

      理性を働かせず神の命令に反する道を選ぶ愚かな者となってはなりません。愚かな者は,宗教上の義務として,あるいは敬神の念の表面的な誇示として犠牲をささげるかもしれません。しかし愚かな者は,そうした行為が犠牲を無価値なものとしてしまうこと,実際には,神に憎まれるということを認めようとはしません。箴言 21章27節(新)はこの点を明確に示しています。「邪悪な者たちの犠牲は忌むべきもの。まして人が不品行[「卑劣さ」,新英語聖書]と共にそれを携えて来る時はなおさらのことである」。

      最も高い天に住まわれる神の偉大さゆえに,人は自分の祈りを慎重に考慮することも必要です。動機付けを与える器官としての心が,衝動的で思慮の欠けた言葉を出させるようであってはなりません。神の尊厳と威厳とをよくわきまえて神に近付かねばならず,祈る際に不用意にとりとめもなく話すべきではありません。言葉数は少なくても,畏敬の念に満ちた心からのものであれば,そうした言葉で表現する方がずっとふさわしいのです。

      ソロモンはこの点を裏付けるために,格言的な言い習わしを用いて次のように続けています。「夢は必ず幾多の営みゆえに,また愚鈍な者の声は多くの言葉ゆえにやって来る」。(伝道 5:3,新)創造者を無視するような,物質主義的,あるいは野心的な事柄に不必要に気を取られているなら,その結果として個人の利己的な夢が生じます。そのような“幾多の営み”のために,人はむなしい白日夢を見,夜も人の思いはそのことでいっぱいです。そのような人は多くの夢を見,安眠を奪われます。物質的な事柄に対する過度の関心事がむなしい夢を生じさせるのと同じように,とめどのないおしゃべりは問題を引き起こします。おしゃべりの声が愚かな者の声であるということはすぐに明らかになります。非常に愚かで好ましくない事柄は,大抵の場合必ず口にされるものです。それゆえ,思慮に欠けた話をしないように注意する必要があります。また前に述べたように,とりわけ祈りをささげる際にはそうした注意が必要です。

      思慮に欠けた話に注意するということは,誓いをする場合にも確かに当てはまります。ソロモンは次のように述べました。「神に誓約をなす時にはいつでもためらわずにそれを果たしなさい。愚鈍な者たちに喜びはないからである。誓約することは果たしなさい。誓約しない方が,誓約して果たさないことに勝る。あなたの口があなたの肉体に罪を犯させることのないようにしなさい。また,使いの前でそれは間違いであったと言ってはならない。なぜ神があなたの声のために憤激し,あなたの手の業を破壊してしまうようなことになってよいだろうか」― 伝道 5:4-6,新。

      神に誓いをする義務のある人はひとりもいません。それは自発的な行為です。それゆえ,神に厳粛な誓いをする場合には,性急に口を開かないよう極めて慎重であらねばなりません。もし人が自分の誓いを果たすことをためらうなら,愚鈍な者,つまり道徳的に欠陥のある者,言葉の上で信頼のおけない者として行動していることになります。不用意な言葉を口にするなら,肉体は非常に困難な事柄を行なわねばならなくなり,結果として誓いを果たすことができず肉体に罪を犯させることになります。誓いをすることを前もって慎重に考慮するなら,性急に話すのを避けることができます。そうすれば,あれは間違いだったと言って誓いから自由になりたいと望むようなことはないでしょう。

      誓いを果たさないなら,極めて重大な結果を招くでしょう。エホバ神は“憤激”され,恵みと祝福を,少なくともその一部を取り去られます。その結果,人が建てたものは“破壊”されてしまいます。詩篇作者はその要点を適切にも次のように述べました。「エホバご自身が家を建てるのでなければ,その建築者が一生懸命に働いたとしてもむだである。エホバご自身が都市を守られるのでなければ,見張りが目覚めていてもむだである」― 詩 127:1,新。

      ソロモンは,そのような性急な誓いをしないようにするための助けとなるものが何かを強調して,こう述べています。「真の神ご自身を恐れなさい」。それは,創造者に対して畏敬の念を抱き,創造者を不快にさせるような仕方で行動しないということを意味しています。そうした恐れが欠けているなら,ソロモン王の次の言葉が当てはまります。「営みが多いために夢があり,またむなしいことと言葉が多くある」。(伝道 5:7,新)霊的ではない事柄に過度に熱中すると,利己的で安まることのない夢,失望やざ折感,“むなしいこと”などがもたらされます。また,神の前で思慮に欠けた話し方をするようになり,その結果,性急な誓いをしてしまい,結局その誓いを果たせないといった状態に陥ります。そのようなわけで,エホバ神に対するふさわしい恐れ,あるいは畏敬の念からすべてのことを行なっているなら,わたしたちは確かに賢明であると言えます。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1977 | 7月15日
    • 読者からの質問

      ● わたしの妻は神のしもべではありませんが,別の男を愛しています。イエスがマタイ 5章28節で言われたように,妻は「心の中で姦淫を犯した」と思われます。では,妻と離婚することはふさわしいでしょうか。

      マタイ 5章28節でイエスが話された言葉は,ある人たちの言うような“精神的な姦淫”を離婚の根拠として挙げているものではありません。

      イエスの言葉に注目してみましょう。「『あなたは姦淫を犯してはならない』と言われたのをあなたがたは聞きました。しかし,わたしはあなたがたに言いますが,女を見つづけてその女に情欲を抱く者はみな,すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです」― マタイ 5:27,28。

      ここでイエスは,ユダヤ人の聴衆に対して,十戒の七番目の戒めが,単に姦淫という肉体的行為を避ける以上のことを意味するという点を説明しておられました。(出エジプト 20:14。申命 5:18)イエスは犯罪の原因が人の心にあることを指摘されました。後にヤコブが説明しているように,心の中の間違った欲望は罪の行為につながり得るだけでなく,多くの場合実際に罪の行為につながります。(ヤコブ 1:14,15。箴 6:25)そのようなことはダビデに生じました。彼は他の人の妻を見,彼女に対して情欲を起こし,その結果姦淫の罪を犯しました。(サムエル後書 11:2-4)それでイエスは,聴衆が罪深い行ないそのものだけではなく,そうした行ないにつながり得る罪深い欲望をも避けるようにと,強く勧めたのです。

      男女を問わず,もしだれかがそうしたみだらな欲望(『女を見つづける』)を培うなら,神はそのことをご存じです。エホバは「心を見(られる)」からです。(サムエル前

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