真に平安な思いをもたらすものは何か
平安な思い。今日の動揺する世界にあってだれがそれを見いだせるでしょうか。テロリストは人命をしばしば危険にさらし,難民は国から国へと逃避行を続けています。おびただしい量の核兵器は,いつ何時人類を絶滅へ追いやるかもしれない潜在的脅威となっています。インフレで貯蓄は急速に目減りしており,一生をかけてためた貯金までその影響をこうむることが少なくありません。これに加え,健康上の問題,愛する人を亡くした時の悲嘆など,あらゆる土地の人々に共通する実に様々な思い煩いとの個人的な“闘い”が数多くあります。今日の社会において,真の平安な思いはまさに希少価値のあるものです。
しかし,多くの人は,安心感や求めてやまない平安な思いをどこから得ようとしているでしょうか。多額の蓄財に求めている人が少なくありません。しかし,そうしたものは真に平安な思いを与えてくれるでしょうか。
そのように思えるかもしれませんが,年の経過と共に,物質の価値は,静かに,ほとんど気づかないうちに,低下していきます。たとえば,裕福な人は高価な衣類をたくさん持っていることでしょう。しかし,自分の衣装に価値があると思い込むのは実に愚かなことです。四枚の羽を生やした昆虫 ― 特にその幼虫 ― が高価な衣類を台なしにしてしまうことがあります。蛾は害虫となって,衣服の持ち主から安心感や平安な思いとされるものを少なくともある程度奪い去ることになりかねません。さらに,たとえ蛾の被害を免れても,衣服はほころびてしまいますし,泥棒に盗まれることもあります。
「いつまでも尽きない宝」
神の預言者イザヤは,強情な敵対者たちの迎える結末がすり切れたり蛾に食い尽くされたりした衣服に似ていることを示しました。その一方,同じ文脈の中で,安心感と平安な思いの真の源を示してこう語りました。「見よ,主権者なる主ご自身がわたしを助けられる。わたしを邪まな者と言い得る者がだれかいるか。見よ,彼らは皆,衣服のように,古びてしまう。ただの蛾が彼らを食い尽くす」。(イザヤ 50:7-9,新)物質にはほんのつかの間の価値しかないのに対し,神との親密で個人的な関係はいつまでも損なわれることがなく,思いに真の平安を与えてくれます。
イエス・キリストは次のように語って,この問題の論議をさらに一歩進めておられます。「恐れてはなりません,小さな群れよ。あなたがたの父は,あなたがたに王国を与えることをよしとされたからです。自分の持ち物を売って,あわれみの施しをしなさい。自分のために,古びることのない財布,天にあるいつまでも尽きない宝を作りなさい。そこでは,盗人が近づくことも,蛾が食い尽くすこともありません。あなたがたの宝のある所,そこにあなたがたの心もあるのです」。(ルカ 12:32-34)この時イエスは,天の王国でご自分の共同の相続人となる油そそがれた追随者たちに語っておられました。(ローマ 8:12-17)しかし,その基本原則はすべてのクリスチャンに当てはまります。霊的な物事には際立った価値があります。
宝のように貴重な「エホバとの親密さ」
しかし,至高者なる神との個人的な関係は他のいかなるものにも勝って貴重です。この「宝」に関連して,詩篇作者ダビデは,「エホバとの親密さはこれを恐れる者たちのもの」と言いました。(詩 25:14,新)また,神の民として神との親密で個人的な関係を享受している人々と交わるのも確かにすばらしいことです。別の時にダビデは,楽しげにこう言明しました。「わたしは大きな会衆の中であなたをたたえます。大勢の民の中であなたを賛美するのです」― 詩 35:18,新。
確かに,神の民と共にいるのは大切な事柄に違いありませんが,その奉仕が神の是認を得るには,単に型にはまった形式的なものであってはなりません。事実,ふさわしい動機を抱かずに,クリスチャンの活動に漫然と携わっているなら,真の意味で平安な思いを得ることはないでしょう。ある若い婦人は,自分の命を神にささげる前,エホバの証人との交わりをとても楽しんでいました。しかしその婦人は次のように語っています。
「……私はこの新しい宗教に属する人たちにひかれていました。幸せそうで,親しみ深く,聖書の高い道徳規準をすすんで守る人たちでした。私はこうした人たちと一緒にいるのが楽しくて,集会に行き,戸別訪問の業に携わって他の人に聖書について語ることまでしました。
「ところがある日,宗教というのは人間との関係なのだろうか,むしろ神との関係であるべきではないだろうか,という重大な疑問がわいてきました。自分が活発なエホバの証人になろうとしているのは,神を愛しているからではなく,エホバの証人が大好きであること,また義母[エホバの証人]を喜ばせたいことがその理由となっていることに気づきました。聖書を携えて家から家に出掛けていましたが,そうしている理由を知りませんでした。私はそれまでしていたことをやめてしまいました」。
その後何か月かの間,その若い婦人は,「エホバ神との個人的な関係を持つことの意味」について深く考えました。また,あるクリスチャン婦人からは聖書的な援助を受け,エホバの証人の土地の会衆からも愛ある関心が示されました。その結果,どうなりましたか。その若い婦人は,「エホバとの個人的な関係に生ける希望を見いだしました」。その婦人は神への献身の象徴としてバプテスマを受け,神の民と共に幸福感を抱いてエホバに仕えるようになりました。
エホバとの親密な関係を持つ人々は平安な思いと真の安心感を享受しています。生活上の様々な思い煩いがあるにもかかわらず,これらの人々は仲間の信者と共に,「喜びをもってエホバに仕え」ています。(詩 100:2,新)この動揺する世界にあって,真のクリスチャンが心と思いの真実の平安を享受している理由をさらに深く調べ,学ぶことにしましょう。