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  • 神の目的とエホバの証者(その20)
    ものみの塔 1961 | 6月15日
    • ジョン: 少数の人だけ反対しました。大多数の兄弟たちは,発表されたこれらの新しい出版物の持つ大きな価値と時機に適していることを認めました。しかし,すでにお話したとおり,いつの時でも過去の中に生活して現在の真理の光にとどまるのに必要な積極的な態度を保たない少数の人はいます。エホバのわざはいつでも進歩しています。そして,特に1919年から1922年までの幼籃時代に兄弟たちは彼らの持つすべての霊的な力を必要とするわざに対して準備しました。すると,時代と一般人の必要に適した新しい霊的な食物が必要になったことになります。

      ラッセル兄弟自身も,むかしそのようなことの必要を認めました。1906年7月15日号の「ものみの塔」(英文)の中で,彼の言っている言葉に気をつけてごらんなさい。

      「三つの世界」(英文)あるいは「日のあけぼの」(英文」の旧版を持つある人々は,多分それらの本についての私の現在の見解を知りたいと思うであろう。それらの本は,真理を求める人々に貸してあげるだけ益のある本だろうか。私は,全く益のない本であるときっぱり答える。なぜなら,それらの本に述べられている神の真理についての未熟な見解は,神のすばらしい計画としてわれわれがいま知っているものよりずっと低いからである……教える者となることは,本や新聞を配布するということにおいても,責任のある事であると主は私に教えた。「考えるクリスチャンのための食物」(英文)(これも解版された)という本でさえ,私はもうすいせんしない。なぜなら,それは後日の出版物にくらべて統一が足らず,不明瞭であるからだ。e

      それで,基礎的な真理は協会の見解と理解内で一度も変わったことがありません。しかし,全き日に向かうにつれて光はますますあかるく輝くという聖句は成就されました。f その光におくれずについてきた人は日々つよめられて,御国のこの良いたよりを伝道する進歩的なわざに参加しつづけました。

      1920年,「ものみの塔」(英文)の7月1日号のなかで,御国の福音を世界的に伝道することについてマタイ伝 24章14節が引用されて後,「御国の福音」という中心記事は,次のことを指摘しています。

      福音時代中に柔和な者に伝道された福音が伝道されると彼が言っていないのに注意するべきだ。彼はどんな福音を意味したのであろうか。福音は良い知らせという意味であるる。ここの良いたよりとは,古い組織制度の終りと,メシアの御国の設立に関するものである……

      ここに言われている順序によると,この音信は世界大戦の時と,主がマタイ伝 24章21,22節で述べた「大患難」の時のあいだに言われねばならない。……したがって,

      いまこそ教会はキリスト教国内のいたるところにこの良いたよりを述べ伝えねばならない。

      「全部の者への働き」という副見出しの下に出た活動をつよくすすめるこの召は,「万民運動」を紹介しました。これは,1919年から1922年までの準備年代中にすばらしい結果をおさめました。兄弟たちは新しい霊的な食物で力づけられて真の崇拝を復興しました。しかし,彼らはまた御国証言の大切な仕事に熱心に参加しました。これらの準備的な段階は,1922年に始まった極めて意義探い運動に備えて彼らを力づけ,備えを与えました。g

  • 読者よりの質問
    ものみの塔 1961 | 6月15日
    • 読者よりの質問

      ● セブンスディ・アドベンテストと討論すると,新しい世で安息日が守られるということを証明するために,彼らは,しばしばイザヤ書 66章23節を引用します。この聖句はどう解釈すべきですか。―スイスの一読者より

      安息日がクリスチャンを永久に拘束していることを証明するのにこの聖句が使えるなら,セブンスデイ・アドベンテストは,モーセの新月も守らねばなりません。というのはそれもこの聖句の中に述べられているからです。新月も,ふるい律法契約のもとでは,取りきめの重要な部分でありました。(民数紀 10:10; 28:11。コリント前 23:31)だからこそパウロは,クリスチャンがもはや律法の要求にしばられていないことを示した時に,両者を挙げているのです,「あなたがたは,日や月や季節や年などを守っている。わたしは,あなたがたのために努力してきたことが,あるいは,むだになったのではないかと,あなたがたのことが心配でならない」。「だから,あなたがたは,食物と飲み物とにつき,あるいは祭や新月や安息日などについて,だれにも批評されてはならない」。―ガラテヤ 4:10,11。コロサイ 2:16,新口。

      律法の下では,安息日が週と新月と月を数え分けました。新しい世でも時を数える方法が何かあることでしょう。そして,事実その時には新しい世の住民は,週毎に,月毎に,あるいは間断なく絶えずエホバのまえに来て崇拝を行なうと述べられています。イザヤ書 66章23節の問題点を理解したなら,霊感された聖書の残りの部分が,律法契約はもはやクリスチャンを拘束していないと述べていることと矛盾しないことが分かります。

      ● 詩篇を朗読する時,「セラ」という言葉も大きな声で読むべきですか。―アメリカの一読者より

      聖書の詩篇を人々のまえで朗読する時,セラという言葉を読む必要はないように思われます。「新世訳」の詩篇 3篇2節の脚注に述べられているように,セラは音楽または暗唱のヘブル語の専門語で,その意味は私たちに伝えられていません。そういうわけで,「新世訳」ではこの語はイタリックになっています。読む者も聞く者もこの語がなにを意味するか分からないので,読む者がこの語を発音しても,聞く者には意味は通じません。ですから,この語を読むのを省略しても害はなく,詩篇の内容の何かを得そこなうことにもなりません。

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