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生命に通ずる愛ものみの塔 1965 | 10月15日
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て「父ご自身があなたがたを愛〔フィレオ〕しておいでになるからである」と言われました。それを聞いた弟子たちは心をおどらせたことでしょう。しかしイエスの弟子たちが神からそのようなほまれを受けたのはなぜですか。つづいてイエスが言われた言葉はそれに答えています。「それは,あなたがたがわたしを愛したため,また,わたしが神のみもとからきたことを信じたためである」。(ヨハネ 16:27)神の愛を受け,神の友とされるのは,それにふさわしい者だけです。(ヤコブ 2:23)「世を友〔フィロス〕とするのは,神への敵対であることを,知らないか」という警告が与えられているのも当然です。(ヤコブ 2:23)神の友であり,神から愛されている人を,自分の友にしなければなりません。―ヤコブ 4:4。
21 このような理解を持つからといって,少数の人々だけに愛を示すのではありません。それはなぜですか。
21 それでは私たちは愛を示すことに差別を設け,自分のまわりに垣を作りますか。そうではありません。原則をわきまえた愛〔アガペー〕は,愛情〔フィレオ〕の届かないところ,また愛情を示す意欲を起こさせないところにも働かねばならず,また働くからです。永遠の生命の報いは,結婚配偶者,家族あるいは親しい友だちだけに献身的な愛を示す人々がかち得るのではありません。イエスは次のように言われました,「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて,なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて,なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから,あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい」。(マタイ 5:46-48)それできわめて明らかなように,私たちはたとえ好きでなくても,その人を愛することができます。私たちの生命はそうすることにかかっているのです。
22 各人は何を真剣に自問しなければなりませんか。
22 ここで次のように自問してごらんなさい。私の愛はどんな愛だろうか。それは原則に基づいているか,それとも感傷に過ぎないか,自然の情として愛することのできるもの,すなわち結婚配偶者,両親,子供あるいは気の合う友人だけを愛しているだろうか。このような者たちに対する愛も,彼らの永遠の福祉を求める愛か,それともこのような関係から生まれる満足のためにする愛情の表現だろうか。私の愛はどれほど純粋なものか。その答えによって,その人の価値が決まります。―コリント前 13:1-3。
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愛の新しい戒めを守るものみの塔 1965 | 10月15日
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愛の新しい戒めを守る
「わたしは,新しいいましめをあなたがたに与える,互に愛し合いなさい。わたしが,あなたがたを愛したようにあなたがたも互に愛し合いなさい。」ヨハネ 13:34。
1 使徒パウロの論議によれば,あがないを備えた神はどんな愛を示されましたか。
人類に対する神の最大の賜物は,愛情ではなく,原則をわきまえた愛に基づいたものです。使徒パウロは,ロマ書 5章7節から10節にその事を論じています。「正しい人のために死ぬ者は,ほとんどいないであろう。善人のためには,進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし,まだ罪人であった時,わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって,神はわたしたちに対する愛〔アガペー〕
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