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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1965
塔65 7/1 387–388ページ

なにを誇りますか

自分の事を誇り自慢する人は,大抵の場合,聴く人に不愉快な感じを与えます。にもかかわらず不完全な人間はそうし勝ちです。言葉だけでなく,他の面でそれが表われる場合もあります。話す語調とか態度でいばっている人もいます。人はそれを見て,「いったい自分を何者だと思っているのだろうか」と首をかしげます。

誇りが全部悪いというわけではありません。しかしきらびやかな宝石をつけて自分の富を自慢したり,慎しみのない刺激的な服装をして肉体の魅力を誇る人を見ればわかるように,誇りは大抵の場合無分別なものです。ナザレのイエスは自分の施しを誇る事をきびしく非難されました。「施しをする時には,偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように,自分の前でラッパを吹きならすな」。今日,金持ちの寄贈を大げさに宣伝するしきたりはキリストの言葉に反する事ではありませんか。―マタイ 6:2。

誇る理由がほとんどないのに私たちには誇る傾向があるため,神の言葉は誇ることをくり返しいましめています。賢王ソロモンはこう書きました。「あすのことを誇ってはならない,一日のうちに何がおこるかを知ることができないからだ。自分の口をもって自らをほめることなく,他人にほめさせよ。自分のくちびるをもってせず,ほかの人にあなたをほめさせよ」。千年ほどのち,イエス・キリストの一使徒はさらにこう書きました。「いったい,あなたを偉くしているのは,だれなのか。あなたの持っているもので,もらっていないものがあるか。もしもらっているなら,なぜもらっていないもののように誇るのか」。―箴言 27:1,2。コリント前 4:7。

私たちは生れつき誇る傾向を持っているといえるかも知れません。子供は自慢したがります。自分のする事,持っている物は何でも素晴らしいと思い,ほめてもらうために人の注意をひきます。勿論これは子供に知識と分別が欠けているからです。子供には慎み深さが欠けています。慎み深さには正しく物事を評価する能力が必要ですが,子供にはそれが備わっていないからです。それで子供は誇って未熟さをあらわします。

そういうわけで次の言葉は適切なものです。「わたしたちが幼な子であった時には,幼な子らしく語り,幼な子らしく感じ,また,幼な子らしく考えていた。しかし,おとなとなった今は,幼な子らしいことを捨ててしまった」。自分の事を誇り,自慢するのは未熟さのしるしである事を理解するなら,私たちがその落し穴をさける助けになります。ついでですが,前記の聖句に「幼な子」と訳されているギリシャ語,ニピオスに関し,一権威者は興味深いことに「この語は常に未熟さと関連がある」と述べています。―コリント前 13:11。

自慢と誇りは分別が足りず,未熟さをあらわします。しかしそれにもまして誇りを避けねばならない理由があります。そのような自慢は愛のない行いだからです。「愛は……誇らない」。これこそ私たちが誇りと自慢を避けるおもな理由です。すでに学んだように私たちが受けた物はだれからですか? 結局は神からなのです。神に帰すべきものを自分のてがらにするのは確かに愛のない行いです。実際次の言葉が示すように,すべての物は神に依存しているのです。「エホバ家をたてたまふにあらずば建るものの勤労はむなしくエホバ城をまもりたまふにあらずば衛士のさめをるはむなしきことなり」。それで私たちが神を愛するならば,自分自身に人々の注意をひく事はしないはずです。―コリント前 13:4。詩 127:1。

自慢する事は隣人に対しても愛のない行いです。そうすれば私たちは自分を高める事になり,うらやみやしっと心を起こさせるかも知れません。それは他の人を不幸にする愛のない行いです。自分を高める事は,自分とくらべて他人を低める結果となります。だれでも自分の弱点を意識しており,自尊心と自信を保つため努力しているのですから,私たちは人を落胆させ,低く見るかわりに,励ましを与え,助け,建て起こす事が必要なのです。愛があれば私たちは自分をほめるかわりに励ましの言葉を与えます。

自慢と誇りがおどしの手段としてしばしば使われている事実は,その愛のない性質を理解する助けとなります。丁度ペリシテ人の巨人ゴリアテが羊飼いの少年,ダビデをおどしたのと同じく,現在でも東西間の冷い戦争で世界の支配者は相手をおどすため誇り高ぶります。―サムエル前 17:41-51。

しかし聖書が示すように正しい種類の誇りもあります。詩篇記者ダビデは「わがたましひはエホバによりて誇らん」と述べています。同じ態度をとった人に預言者エリヤがいます。彼はエホバとバアルのどちらが真の神かをためす試験で,バアルの預言者に挑戦しました。天から火を降らすほうが真の神です。最初はバアルの預言者の番でした。彼らは神に何時間も懇願しましたが,神は奇跡をもって答える事が出来ませんでした。神の言葉にたがわず,価値のない神々を誇った人たちは恥ずかしめられました。しかし唯一の真の神に誇りを持ったエリヤはそうではありません。天から降った火が犠牲を焼きつくして,エリヤの正しさを立証したからです。―詩 34:2。列王紀上 18:21-40。

私たちの誇る事が創造者,エホバだけに限られるという意味ではありません。使徒パウロはコリントのクリスチャンたちに,彼らの熱心さと心の「準備」のある事をマケドニヤのクリスチャンに誇ったと話しました。受けるより与えるほうが幸いであるという愛の原則がここでも適用されます。愛は誇らないとあるように,愛は自分のほまれを求めません。むしろそれは,「進んで互に尊敬し合いなさい」という助言に従い,賞賛に値する人を誇ったり,ほめたりする事を喜びます。私たちが隣人の良い点をほめるなら,その人を建て起し,励ますことになります。そうするように心がけるなら,私たちは家族,会衆,またどこであっても,平和,一致,調和を生み出すことになります。―コリント後 9:2。ロマ 12:10。

それで「愛は(自ら)誇」る事をしませんが,エホバにあって誇り,また受けるにふさわしい他の人をほめ,誇ります。

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