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救出! 感謝していることを行ないで示すものみの塔 1979 | 1月1日
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のクリスチャンとしての熱意は私にとって何と大きな喜びでしょう。というのは,その結果,彼女は1952年にギレアデに招待され,こうして私は彼女と会い,後に結婚することができたからです。
私たちの家族は豊かに祝福されました。私たちは,エホバの側に立つことができるように250人以上の人を援助できました。その中には今では長老となっている人々もあり,またベテル・ホームで,巡回監督として,開拓者として,宣教者として奉仕している人々もいます。それで世界の他の多くの人々と同じく,私たちは聖書の詩篇作者の次の言葉に和することができるのです。『われつねにエホバをいわいまつらん…エホバ…われをもろもろのおそれよりたすけいだしたまえり…われらともにエホバを崇めよ,われらともにその御名をあげたたえん』― 詩 34:1,4,3。
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山上の垂訓 ―「思い煩うのをやめなさい」ものみの塔 1979 | 1月1日
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山上の垂訓 ―「思い煩うのをやめなさい」
イエスは,物質主義を避けるようにとの諭しを与えた後,生活の必要物を得ることについて過度に心配しないようにと聴衆を諭されました。「このゆえにあなたがたに言いますが,何を食べまた何を飲むのだろうかと自分の魂のことで,また何を着るのだろうかと自分の体のことで思い煩うのをやめなさい。魂は食物より,そして体は衣服よりたいせつではありませんか」― マタイ 6:25。a
「このゆえに」,つまり「神と富とに奴隷として仕えることはでき(ない)」ので,イエスの弟子たちは,日常の必要物を得ることについてさえ過度に心配しないようにすべきです。(マタイ 6:24)神のみ子は,人々が食物や衣服にふさわしい関心を払いそれを得るために勤勉に働くことを思いとどまらせようとされたわけではありません。(伝道 2:24。エフェソス 4:28。テサロニケ第二 3:10-12)しかし,そうした必要物を得ることを「思い煩う」必要はありません。『魂と体』(ここでは人全体を意味している)は食物や衣服よりたいせつなのです。神は人間に肉体を備えた命を与えられたのですから,確かにご自分の崇拝者が必要な物を得られるよう取り計らうことがおできになります。
イエスは一つの例えを用いてこの点を強調されました。「天の鳥をよく観察しなさい。彼らは種をまいたり,刈り取ったり,倉に集め入れたりはしません。でもあなたがたの天の父は彼らを養っておられます」― マタイ 6:26前半。
頭上を自由に飛ぶ「天の鳥」は農作業をするわけではありません。しかし,神はそれらの鳥が十分な食物を得られるようにしてくださいます。(ヨブ 38:41。詩 147:9と比較してください。)それは真剣に黙想するために「よく観察」すべきことでした。イエスの話を聴いていたユダヤ人たちは神のことを「天の父」と呼ぶことができました。特にイスラエル人は神の契約の民として『選ばれて』いたからです。(申命 7:6)ユダヤ人を天の鳥と対比させてイエスはこう尋ねられました。「あなたがたは彼らより価値のあるものではありませんか」。(マタイ 6:26後半)神が,空を飛ぶ生き物のために備えをされるのなら,ご自分の崇拝者のためにさらにどれほど多くの備えをされることでしょう。
イエスは,生活の必要物を得ることを過度に心配することのむなしさを示して,続けてこう言われました。「あなたがたのうちだれが,思い煩ったからといって自分の寿命に一キュビトを加えることができるでしょうか」。(マタイ 6:27)聖書は,「罪人たちの道」とか「義の行路」といった表現を用いて,人間の寿命をしばしば旅程にたとえています。(詩 1:1; 27:11,新)日常の必要物のことを心配してみたところで,人生をほんのわずか,いわば「一キュビト」でさえ延ばすことはできません。過度の心配は人々を益するところか,健康を損ない,寿命を縮めかねません。
それからイエスは二番目の例えを引き合いに出してこう言われました。「また,衣服のことで,なぜ思い煩っているのですか。野のゆりから,それがどのようにして育っているか,教訓を得なさい。労したり,紡いだりはしません。しかしあなたがたに言いますが,栄光をきわめたソロモンでさえ,これらの一つほどにも装ってはいませんでした」― マタイ 6:28,29。
「野のゆり」には,ガリラヤ地方に見られた,数種類の色鮮やかな花が含まれているようです。ヘースティングスの聖書辞典はこう述べています。
「それらすべては穀物の間に生えており,大抵は穀物より丈が高い。そして,ピンクがかった紫色から深い青紫色,また青色など本当にすばらしい様々な色合いで広大な畑に光彩を添えている。ガリラヤの小麦畑の中に立って,刈っていないトウモロコシの上から四方に向かって顔をのぞかせているこれらの花の美しい総状花序[房]を見たことがある人ならだれでも,すぐに,我々の救い主が用いられたひゆの適切さを理解できるだろう。……しかし,たとえ『野のゆり』を単に野生のゆりと理解したとしても,その表現はそうしたゆりをも含むものと考えられる。それで,我々の救い主のたとえは,ゆりという名の下に含められる数多くの野生植物のすばらしい色や美しい形すべてを意味する,“合成写真”のようなものであろう」。
これらの花が「どのように育っているか」を観察するなら,衣服を造るために人がしなければならないこと,つまり『労したり紡いだり』することは何もせずに育っていることに気付きます。しかし野のゆりは,美しい装いの点で知られているソロモン王ほどの人もかなわない美しさで「装って」いるのです。―歴代下 9:15-21。
この例えに含まれる教訓についてイエスは次のように言われました。「では,神が,きょうここにあってあすかまどに投げ込まれる野の草木にこのように衣を与えておられるなら,ましてあなたがたに衣を与えてくださらないことがあるでしょうか。信仰の少ない人たちよ」― マタイ 6:30。
「野の草木」には,イエスが言及された花々も含まれています。パレスチナの暑い夏の間,そうした草花は二日もしないうちにしおれてしまいます。乾燥した花の茎と葉は,パン焼きかまどの燃料として集められました。それほど速く枯れてしまう草花に神は美しい「衣を与えておられる」のですから,イエスの次のような質問は適切なものです。「ましてあなたがたに衣を与えてくださらないことがあるでしょうか。信仰の少ない人たちよ」。神のしもべは花よりずっと重要です。必要な衣服を得ることについて過度に心配するなら,それは「信仰の少ない」b ことを示すものとなったでしょう。
イエスはさらに次のように言われました。「それで,
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