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  • 聖書に出てくる生気あふれた修辞的表現
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1985
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    用語集
  • 誇張法
    用語集
  • 「あなた方は地の塩です」
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1985
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    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 2002
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1985
塔85 10/1 30–31ページ

聖書に出てくる生気あふれた修辞的表現

言葉のない生活を想像できますか。言葉は事実を伝えるにとどまらず,わたしたちの注意を引き,感情を呼び覚まし,想像力をかき立てます。言葉は歴史の歩みを変えてきました。

聖書ほどこの点を如実に示しているものはありません。歴史に残る書き記された言葉の中で最も力強い影響を与えているのが聖書です。どうしてそれほど力強い影響を与えるのでしょうか。それは聖書が書き記された神の言葉であるからです。そして神のお考えを生き生きとした仕方で提供しているからです。その点に貢献しているのは,聖書が生気あふれた修辞的表現を用いていることです。

「木のよう」

最も簡単な修辞的表現は直喩です。しかし,簡単ではあっても,非常に力強い影響を与えます。直喩とは何ですか。人が「雄牛のごとく力強い」とか「ラバのように頑固だ」と言う場合,わたしたちは直喩を用いています。「ごとく」とか「ように」といった言葉で,実際にはかなり異なってはいても,力強さとか頑固さといったような際立った特質を共有している二つのものを比較しているのです。

聖書は一例として,神の律法を愛する人は木のようだ,と述べています。どのようにですか。「彼は必ず水の流れのほとりに植えられた木のようになり,それはその季節に実を与え,その葉は枯れることがない。彼の行なうことはすべて成功する」。(詩編 1:3)確かに,人間と木は大いに異なっています。しかし,豊かな水源の傍らに植えられた木の繁茂する様子は,詩編作者に,『エホバの律法を喜びとする』人の霊的繁栄を強力に思い起こさせたのです。―詩編 1:2。

「地の塩」

隠喩は直喩に似ています。これもやはり二つの非常に異なった事柄の類似点を際立たせる方法です。直喩では「ように」とか「ごとく」といった言葉が使われますが,隠喩では,あるものがすなわち別のものであるかのように語られます。

イエスはご自分の弟子たちに,「あなた方は地の塩です」と言われた時に,隠喩をお用いになりました。(マタイ 5:13)弟子たちは文字通りの塩ではありませんでした。しかし塩には保存効果があり,弟子たちは多くの人の命を保護することになる音信を持っていました。『あなた方は塩です』(隠喩)というイエスの言葉は,「あなた方は塩のようです」(直喩)という言葉よりもはるかに力強い印象を残しました。

隠喩は聖書の中で非常によく用いられています。ほかにも,イエスの述べた次の言葉の中に幾つかの例を見ることができます。「わたしは戸口です」,「あなた方は世の光です。……あなた方の光を……輝かせ……なさい」。―ヨハネ 10:7-9,11。マタイ 5:14-16。

「あなた方の髪の毛一本すら」

別の修辞的表現は誇張です。これは誇張していることが明らかに分かる表現で,そのために忘れられない印象を残します。母親が子供に,「そんなことをしてはいけないと百万回も言ったじゃないの!」と言う時,母親は誇張を用いています。

イエスは,「では,なぜ兄弟の目の中にあるわらを見ながら,自分の目の中にある垂木のことを考えないのですか」と警告した時に,驚くべき誇張を用いておられました。(マタイ 7:3)この言葉を読む時,驚いて思わず目をしばたたいてしまうのではありませんか。自分の側に大きな過ちが数々あるのであれば,他の人のささいな過ちは批判すべきではないということをわたしたちに教える何と印象的な方法なのでしょう。また,「ぶよは濾し取りながら,らくだを呑み込む」パリサイ人に関する表現はどうでしょうか。―マタイ 23:24。

エホバがご自分の僕たちを見守ってくださることをイエスが忘れ難い方法で描写したことも思い出してください。「あなた方の髪の毛一本すら決して滅びることはありません」とイエスは言われたのです。(ルカ 21:18)クリスチャンの髪の毛が何か神聖なものだというわけではありません。むしろ,この誇張表現によって,イエスは,ご自分の追随者たちがたとえ「すべての人の憎しみの的」になっても保護されるということに関して一点の疑問も残さないようにされたのです。―ルカ 21:17。

『死は王として支配した』

擬人法はもう一つの修辞的表現です。ある無生の物について,それがあたかも生きているかのように言及する場合がそれです。例えば聖書は,「死はアダムからモーセに至るまで……王として支配しました」,「悲嘆と溜め息は必ず逃げ去る」,「真の知恵がちまたで大声を上げて叫んでいる」と述べています。(ローマ 5:14。イザヤ 35:10。箴言 1:20)死,悲嘆,溜め息,そして知恵が,実際に支配したり逃げたり叫んだりすることはありません。しかし,あたかもそうするかのように述べることにより,聖書は,容易に思いに描き,覚えることのできる生気あふれた情景を脳裏に描き出してくれます。

誤解されている修辞的表現

これらをはじめ他の数多くの修辞的表現によって,聖書は生き生きしたものになります。そうした修辞的表現のおかげで,聖書に収められている考えがあたかもページから飛び出して来るように思えます。しかし,問題がないわけではありません。修辞的表現が用いられているのにそれを見過ごしてしまうと,誤解をすることになりかねません。

例えば,「天と地は過ぎ去るでしょう。しかしわたしの言葉は決して過ぎ去らないのです」というイエスの言葉の中に,修辞的表現があることに気づきますか。(マタイ 24:35)多くの人は気づきません。そうした人々は,イエスがここで,いつの日か地球が滅びることを示唆しておられたと考えます。しかし,イエスの話に耳を傾けていた人々はそのような印象を受けたでしょうか。

とてもそうした印象を受けたとは思えません。人々はヘブライ語聖書を読んで,地が永久に存続することをすでに知っていました。(詩編 104:5。伝道の書 1:4。イザヤ 45:18)ですから人々には,イエスがご自分の言葉の永続性を生気あふれた仕方で強調しておられたことが分かったでしょう。イエスの言葉が天と地以上に永続するのであれば,天と地はとこしえに続くのですから,イエスの言葉はまさに永続することになります。起こり得ないことが仮に起きて,天と地が実際に過ぎ去ったとしても,イエスの言葉は依然として残ることになります。実に印象的な誇張表現です。―マタイ 5:18と比較してください。

もう一つの例として,次の言葉の修辞的表現を見つけることができますか。「父がわたしの名によって遣わしてくださる助け手,つまり聖霊のことですが,その者はあなた方にすべてのことを教え,わたしが告げたすべての事柄を思い起こさせるでしょう」。(ヨハネ 14:26)この言葉を読んで,聖霊が実際に人格的な存在であるという意味に取る人もいます。しかし,聖霊は他の非人格的な力やものと一緒に取り上げられることがあまりにも多いので,人格的な存在であるはずがありません。(マタイ 3:11。エフェソス 5:18。使徒 6:3,5; 13:52。コリント第二 6:4-8)イエスは明らかに,わたしたちが擬人法と呼ぶ修辞的表現を用いておられました。

確かに,聖書の修辞的表現は,人々を教え,人々に動機づけを与える強力な道具になっています。そのおかげで神の言葉は生き生きしたものとなります。そして,どうすれば力強い影響を与える教え方ができるかを示す見事な手本となっています。

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