ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔55 6/15 225–227ページ
  • なぜ譬話を用いますか

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • なぜ譬話を用いますか
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1955
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 現在の伝道に譬話は有益
  • 適切なたとえ
    神権宣教学校案内書
  • 「例えを使わずに話そうとはしなかった」
    「来て,私の弟子になりなさい」
  • 「例えを用いないでは話そうとされなかった」
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 2002
  • イエスのたとえ話はなぜ人々に助けとなりましたか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1976
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1955
塔55 6/15 225–227ページ

なぜ譬話を用いますか

『なぜ譬話を用いて彼らに語るのですか』と弟子たちがイエスに尋ねたとき,彼の答は次のようでした『あなた方には天の御国の聖なる奥義を知ることが許されているが,それらの人々には許されていない。持つている者は多くのものを与えられて富むようになる。しかし,持たない者は,その持つているものまでも取られるであろう。それで,私は譬話を用いて彼らに話すのである。それは,彼らが見ても見ず,聞いても聞かず,また悟らないからである。次のイザヤの予言は,彼らについてよく成就している。「あなた方は聞いても,その意味を悟らず,見ても見ることができない。この民の心はにぶくなり,その耳は聞えにくく,その目は閉じている。それは彼らが目で見ず,耳で聞かず,また心で悟らず,悔い改めて立ち帰り,癒されることのないためである。」しかし,あなた方の目は見ており,あなた方の耳は聞いているからさいわいである。』― マタイ 13:10-16,新世。

実際のものを見る力や聞く力の良い人でも,心の知覚力とか又は深い理解力を持つていません。目に見えるものの後ろにある意味を悟らないために,そのような人は見えない目を持ち,聞えない耳を持つていると言われます。霊的には盲でつんぼです。頭に目を持つていますが,心の目はありません。この幻の賜物が非常に大切なものであるために,パウロはエペソにいるその友なる弟子たちがヱホバよりその賜物をいただいて富めるようにと祈りました。その祈りは,今日私たちが捧げるにもふさわしいものです。『私たちの主イエス・キリストの神,栄光の父があなた方に智恵の霊および神についての正確な知識の黙示を賜い,希望は何であるかをあなた方が知れるように。』(エペソ 1:17,18,新世)イザヤの予言の通りイエスが来たときに,多くのイスラエル人はその言葉を聞き入れず,心を閉じて音信をうけいれず,心はまつたく鈍くなつて,イエスの語つた真理をとうてい認めることができなかつたのです。彼らは高慢,かつ尊大ぶり,改宗して霊的の癒しをうけるにはあまりに利己的でその資格は全く無いものでした。彼らには心の目と理解力がなかつたのです。

救の音信は,そのような者のためにはありません。彼らが聖なる奥義を理解することは許されていなかつたのです。それで,イエスは群衆に譬話を語り,不適当な者たちの癒しをうけることがないようにしました。霊的の癒しは,心の目を持つ者たちになされ,彼らはより多くの知識と理解に富み,その心の目により多くの啓発をうけるようになります。譬話を用いることは,これにどう影響しましたか? マタイ伝 13章に記録されているこの場合からも分ります。イエスは種子播く人の譬話を語りましたが,その人はちがつた地に種子を播き,それから生じたちがつた結果を観察しました。それを聞いた多くの人にとつて,それは良い小話で,変化の富んだ面白い話でしたが,なにも深く考える値打はないものでした。彼らは深い意味を悟らず,智力で感ぜず,その象徴の言葉を理解せずに立ち去りました。別の言葉で言うと,彼らには興味がなかつたのです。しかし,ある人は興味を持ち,謙遜な心と柔和な気持ちを持ち,その譬話の深い意味について啓発をうけたいものと欲しました。それで,彼らはとどまつて,質問をしました。イエスはその譬話を十分に説明したため,その謙遜な心の目はさらに啓発をうけました。この方法で教えたことは,興味の無い者を取り除いて,それらの者と係り合うイエスの時間の浪費をはぶきました。それは,生き生きした小話で耳をくすぐられることだけを欲する無頓着な者を聴衆から取りのぞき,霊的に飢えている者を後に残しました。そして,イエスはそれらの者に努力を集中することができました。

しかし,イエスが譬話を用いたことは,不適当な者を取り除くこと以上のことをいたしました。柔和な弟子たちを教えるのに,その譬話は非常に貴いものとなつたのです。弟子たちがその隠れた意味を悟るとき,それと結びつく譬話の故に,その意味はより明白で力を持ち,そして生き生きしたものとなります。それに譬話を思いうかべることができるために,真理をながく記憶することができます。イエスの敵は時々,イエスの用いた譬話の要点を知りました。たとえば,イスラエルのひとりの宗教指導者は,隣人を愛しなさいと言われたとき,隣人とは実際誰であるかとたずねました。実を言うと,その宗教指導者は啓発をうけたいと強く欲したのではなく,むしろ自分を義しい者にしようと欲したのです。イエスは良いサマリヤ人の譬話を用いて,隣人についての広い定義を認めさせましたが,それは宗教指導者がつけようと欲した定義よりはずつと広いものだつたのです。別の時に,イエスは偽善的な宗教指導者に語り,譬話を続けて語ることによつて彼らを暴露しました。指導者たちは,これらの譬話の鋭い点を悟り,それに心を突き刺され,イエスを捕えようと欲しましたが,群集を恐れました。―ルカ 10:25-37。マタイ 21:28-46。

現在の伝道に譬話は有益

イエスは不適当なものに真理を隠すため譬話を用いましたが,それは譬話を用いた一つの用法にすぎません。ヱホバの証者は,現代それと同じ目的のために象徴の言葉を用いています。たとえば,むかしのヱホバの証者の年鑑は,業の禁止されている国の業の進歩についての報告を述べる際,田舎から来た手紙を引用しました。その手紙は,植木の数,その手入れ,その栽培,その実の産出を告げるものでした。この譬話の仕方によつて,その報告は検閲を通ります。そして,その真実の意味,つまり会衆の数やその増加は,検閲官には分らなくても,キリストの追随者たちは悟ることができます。

譬話はまた教えるときに価値あるものです。多くの人にとつて,抽象の事を考えるのは難しいことです。でも,譬話を用いることによつて,その要点がはつきりと分つてくるようになります。譬話は要点を具体化して目に見えるようにしますが抽象の真理はこの具体化に強く結びつくものなのです。学ぶ人の心の中で全く具体的なものになり,それに生き生きした譬話のために,かならず長く記憶せられます。それだけではなく,譬話を用いることによつて,時にはある点を巧みに提出する事もできます。もし譬話を用いずにするならば,聴く者の心を害するか,あるいは閉ざしてしまうことになるかもしれません。たとえば,クリスマスということがらは,幾百万という人にとつて感傷的なものであり,クリスマスが全く異教の習慣に根ざしているとか,それはキリスト誕生の日では全然ないなどということを知りたく思いません。人々にクリスマスについて考えさせるため,次のような譬話を用いることもできましよう。かりに,多くの人がある人の家に来て,その人の誕生日を祝うと仮定してごらんなさい。でもその人自身は誕生日の祝を好みません。それに人々が酒に酔つて,むさぼり食い,飲みうかれるのを好みません。それでも,人々はその家に来て,酒を飲み,大食いし,やかましい音を立て,ある者は不道徳な行をなし,そしてその人を除くすべての人に贈物を持つてきます! そのことを想像してごらんなさい! この誕生日の祝に,誕生日の祝われる人の外すべての人は贈物をもらいます。それだけに止まらず,友人であると思う人々は,正しい日に来ないで,しかも,祝われている人の敵の誕生日を選んで,祝う習慣を行つているのです! この立派な人は,そのようなことを嫌悪しませんか? キリスト教国のするキリストの誕生の祝は,まつたくその通りなのです。

おそらく譬話を用いるときの特別目立つ用法の一つは,欲目,または偏見,あるいは依怙贔屓を取りのぞくことです。人はたいてい自分の都合の良い方にと欲目を持つものです。人は自分自身,自分の意見,自分の行動,大事にしている信仰を守ろうといたします。それで別の人が,それらを批評しますと,自動的に守ります。誇りの気持があると,自分の間違いを認めることは難しくなります。それが行動のことがらですと,言い訳をしたり,事情の申し開きをいたします。それは論理の事がらではなく,また状況を理性で考えることでもありません。それはまた感情の問題でもあり,感情は必らずしも理性を持つものではありません。感情は往々にして論理を負かします。自分がその事に介入しているとは知らずに,理性をもつて考えることができるならば,個人的な感情で妨げられることなく,論理と理性を働かすことができます。そこで譬話が用いられるわけです。譬話は偏見をなくし,人を出来事から引き離し,依怙贔屓を持たぬ観察者の立場に立たせて個人的な利害関係を考えさせず,まつたく正しい原則に基いて判断させます。譬話によつて,個人的な感情が私たちの考えに影響を及ぼすなどということはなくなり,私たちは正直で論理的な結論に達することができます。それで,原則が確立されてから,それは私たち自身の場合に適用することができます。このように,感情の為に盲目となる事実も譬話によつて,はつきりしてきます。

聖書は,譬話をこのように用いる例を示しています。それは,サムエル後書 12章1-9,13節のところです。『ヱホバ,ナタンをダビデに遣わしたまえば,彼ダビデに至りてこれに言いけるは,ひとつの邑にふたりの人あり。ひとりは富みてひとりは貧し。その富める者は甚だ多くの羊と牛を持てり。されど貧しき者はただおのれの買い育てたるひとつの牝羔の外は何をも有たざりき。その牝羔彼およびかれの子どもとともに育ち,かれの食物を食い,かれの椀に飲み,また彼の懐に寝て彼には女子の如くなりき。時にひとりの旅人その富める人の許に来りけるが,彼おのれの羊と牛の中を取りて,そのおのれに来れる旅人のために煮るを惜みてかの貧しき人の牝羔を取りて之をおのれに来れる人のために煮たり。ダビデその人の事を大に怒りてナタンにいいけるは,ヱホバは生く誠にこれをなしたる人は死べきなり。かつ彼このことをなしたるによりまた憐まざりしによりてその牝羔を四倍になして償うべし。ナタン,ダビデにいいけるは,汝はその人なり。イスラエルの神ヱホバかく言い給う。我なんじに油を注いでイスラエルの王となし,我なんじをサウルの手より救いいだし,汝に汝の主人の家をあたえ,汝の主人の妻たちを汝の懐に与え,またイスラエルとユダの家を汝に与えたり。もし,少からば我なんじにいろいろの物を増し加えしならん。何ぞなんじヱホバの言葉を軽んじてその目のまえに悪をなせしや。なんじ刀をもてヘテ人ウリヤを殺しその妻をとりて汝の妻となせり。すなわち,アモンの人々の剣をもて彼を斬殺せり。ダビデ,ナタンに言う。我ヱホバに罪を犯したり。』

ナタンが最初からダビデの行為について話をしたならば,ダビデは自分を弁護するか,言い訳をするか,あるいは事情の言い開きをしようとしたかもしれません。人は自動的に守ろうとします。しかし,ナタンは譬話を用いました。しかも,愛らしい羔を用いた良い譬話を使つたのです。ダビデはもともと羊飼の若者であつて,自分の羊を深く愛し,羊を守るために獅子や熊と戦つた程です。富める人の残酷な行の不正を強く感じました。ダビデは個人的な利害から離れて,公平な人の立場を取つて裁決をいたしました。またはそう考えました。それから,その激怒した公平な決定をしてから,ダビデは自分が罪を犯した者であることを知りました。何を言うことができましたか? もうすでに言葉を述べてしまつた後ですから,ただただ自分の大きな罪を認めるだけだつたのです。ダビデはその罪の償に,ヱホバよりつらい苦しみをうけました。

今日伝道する時に,私たちは多くの偏見にぶつかります。人々はお気に入りの教理を持つていて,長年月のあいだ間違つていたと言わねばならない時,その誇りは鋭く傷つけられます。偏見のために,聖書的な事実に直面することができません。このようなとき,譬話は役に立つものです。こんな風に使えるかもしれません。非行をした息子を持つ父親がいると聞きます。その子の悪は大変なもので,その悪行を罰しなければなりません。そして,父は息子の手をとつて赤く熱したストーブのところにつけ,本当に焼いてしまうとします。そのことをどう考えますか? それは愛の心を持つ父の行ですか,それとも残忍な人の行ですか? そのような恐ろしい不正に胸がムカつきませんか? しかし,後になつてその父はけつしてそんなことをしなかつたと知ります。そうしたのだと話をした人は,嘘を言つたのでした。その嘘つきに怒りを感じませんか? その愛の心を持つ父は,自分を冒瀆する嘘つきにどのような感じを持つと思いますか? またその父は残忍な人であると信じつづけるあなたに対してどのような感じを持つと思いますか? ヱホバは地獄は火の場所で人々を苦しめるのだと教える人々に,その譬話はあてはまります。ヱホバは人間の父より愛の心のないかたではなく,かえつて人間以上に愛の心を持つ方です。ヱホバはこらしめて直しますが,しかし残忍な気持から苦しめることはありません。そして,ヱホバについて嘘を言い,ヱホバはそのような残忍な者と言う人々に対して,ヱホバはどのような感じを持たれると思いますか? そして又,真実なことが告げられた後でも,その嘘つきを信ずる人々に対してどのような感じを持たれると思いますか?

前述のことから,譬話は今日の伝道に有益であるとはつきり分ります。譬話は真理を明白にし,容易に具体化することができ,忘れさせることなく,人の感情に作用する問題を巧みに提出することができ,また聴く者の目を暗ます個人的な偏見をさけることができます。譬話は不適当な者を改宗させませんが,しかし柔和な者は耳を傾けて聞き,さらに深く質問をいたします。戸口で真理を伝えるとき,質問や反対がよく聞かれます。それらのことがらを前もつて予期して,答えにする譬話を考えて下さい。再訪問の話のときに,前もつて準備した譬話を用いて下さい。奉仕の話や,公開講演に譬話を用いて下さい。しかし,適度に用いて,良く選んで下さい。僅か二,三の譬話だけを用いて,しかも要点をつかんだものにして下さい。使い過ぎると,陳腐なものになつてしまい,その力がなくなつて,その言うことは落ちつきのないものになるでしよう。並の譬話を多く用いるよりは,良い譬話を少しだけ用いる方が良いのです。聖書は,譬話を用いることについても手本になつています。聖書に真似て下さい。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする