-
ヱホバの制度に尊敬を示しなさいものみの塔 1957 | 8月1日
-
-
て,神の与え給う任務を忠実に成しとげるすべての者に豊かな祝福を注がれます。しかし又,神は神権制度を建てて,その王を御座に即かせました。王は事柄を秩序正しく指示します。それで会衆の決定を為すように『君』として任命されている者たちは,その責任を担うことができます。ヱホバやその王に抑圧をかけて,それと異る取極めに祝福を注がせることができますか。『各人その目に善しと見ゆるところをなし』て,国民が非常に悪い邪道に幾度も踏みこんだイスラエル当時の会衆の仕組みにしてはなりません。ヱホバが私たちをかくも保護されたことに,私たちはなんと感謝しているのでしよう! それで,私たち各人は『御国のこの良いたより』を伝道せよという神からの任命を為しつづけましよう。そして,会衆の事柄の管理はその責任を持つ者に委ねましよう。
15 ヱホバの制度を尊重するどんな模範が,世界中にある支部によつて示されていますか。
15 制度の一致を保つためには,今日の神の民の中に占める統治体の地位を認めて,それを尊重しなければなりません。これは全世界に散在している支部制度の採つている道です。支部制度は自分自身の独立した小さな制度を保とうとしません。それどころか,大切な事項は統治体の決定を俟ちます,使徒パウロも割礼についての大切な問題については,統治体の決定を俟ち,またイスラエル会衆内にいたモーセの忠実な補佐たちも,そのような道に従つたのです。―使行 15:2。出エジプト 18:26。
16 ヱホバの制度に正しい尊敬を持つことは,どうして人間に盲目に従うことではありませんか。
16 このことは,イエスの警めた人間に盲目に従うというものではありません。『盲人が盲人を手引きするなら,二人とも穴に落ちこむであろう。』とイエスは言われたとき,彼は偽りの宗教家たちの不忠実な行に言及していました。(マタイ 15:14,新口)イエスは,すぐに欺かれてしまつたイスラエルの人々に言及したのです。彼らは盲目の指導者の自己称賛を聞くだけで,指導者を受け入れました。同時にイエスは,盲目の指導者に盲目に従うキリスト教国内の人々に非難しました。彼らは,神の御言葉によつて指導者に対する要求を識別しようともしなければ,その働きの故に指導者に従おうともしないのです。このことから,次の事実が強調されます,すなわちヱホバの制度内にいる者はみな神権的な活動の中に教育を受け,責任の地位に即くよう訓練されねばならないということです。なぜなら,ヱホバの制度は奉仕者たちによつて構成されている神権的な社会であり,教職者制度でないからです。僕の地位が空位になるとき,会衆外の人が,特別に訓練された者としてその地位を占めるわけではありません。会衆の定期的な一部分として奉仕をなし,かつ責任を忠実に果すことによつて必要な資格を備えたものがその地位を占めます。この理由の故に制度内にいる各人は,神権的な取極めを学び,監督の地位を求めます。その奉仕を忠実に成しとげている兄弟の地位を野心の気持から奪い取ろう,と努めるのでなく,むしろ霊的に適用することにより,もしその責任が自分に与えられるなら,その責任を正しく果すだけの資格を得ようと,努めるのです。―ヤコブ 3:1。テモテ前 3:1-13。
17 神権的な奉仕者にとつて,正しい従順はなぜ重要ですか。
17 真実の監督に対する特筆すべき要求の一つは,謙遜です。ペテロが次の言葉を書いたのは,私たち個人の進歩と,群としての神権的な進歩のためです,『あなた方は主のゆえに,人間のたてたものすべてに従いなさい。主権者としての王(すなわちキリスト・イエス)であろうと,あるいは,悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために,王からつかわされた支配者(すなわち,王の見える代表者,『君たち』)であろうと,これに従いなさい。』― ペテロ前 2:13,14,新世。
-
-
大会で敬意を示しなさいものみの塔 1957 | 8月1日
-
-
大会で敬意を示しなさい
講演者は非常に良い話をしています。新しく興味を感じた夫婦は,その霊的な食物に驚嘆しています。夫婦の前に坐つていた人は,会場を出て食堂に行こうと決めます。前の方に歩いて行く別の人は,旧友を見て手をはげしく振ります。隣りの席に座つている婦人は,『あそこに〇〇さんがいるわ』と夫に告げます。それらの人々にとつては霊的な食物は極く僅かな価値しかないから,謹聴に値しないものに思うらしいと,新しく興味を感じた人々は考えるでしよう。聴衆内に考えの足りない不敬な人々が二,三人いるだけで,それらの人々の熱意が冷くなるのも尤もな話です。
良く聴いて分析し,覚え書を記して,そして家路につくときに新しい点を論じなさい。遅れて入つて来たり,早く出て行くようなことをしてはなりません。いつもなぜ一番最後まで留まりますが。良い模範を示すという為だけでなく,集会は祈りで閉じられるからです。その日一日のプログラムに対する感謝をヱホバ神に言い表わしたいと,欲しませんか。ほんの数分を節約するために,祈りをしないで出て行くことは神に対して,祈りをしている者に対して,そして自分の兄弟たちに対してのはなはだしい不敬であります。それは,1年の中のわずか数日の
-