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  • 人類を祝福するための神の備え
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1969
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1969
塔69 3/1 131–135ページ

人類を祝福するための神の備え

あらゆる国のあらゆる人種の人々を祝福するために,エホバが御子をとおして設けられた備えは,なんと愛に満ちているではありませんか。エホバは苦しみと罪と死からの救いを約束されました。なんと輝かしい前途ではありませんか。しかしこのようなすばらしい救いはどのようにして実現しますか。神は人類をどのようにして祝福されるのですか。

一つの肝要な点として,こうした祝福が,ただひとりイエス・キリストをとおして人類にもたらされることを認めねばなりません。それゆえに,神は使徒ペテロに霊感を与え,イエスについてこう語らせました。「ほかのだれにも救いはない。わたしたちが救いを得る別の名は,天下のだれにも与えられていないからである」。(使行 4:12,新)神のこの備えについて正確な知識を得,キリストにかかわる神のお目的に信仰を働かせるならば,あなたはとこしえの命というすばらしい祝福への道を歩むことができるのです。

救いをもたらす者に対する期待

これまで幾千年もの間,信仰の人々はこの希望の実現を待ち望んできました。神のお約束により,そうした期待の根拠を与えられていたからです。エホバは,ヘブル人の族長アブラハムに対し,「地のすべての国の民」はアブラハムの「すえ」をとおして祝福されるとの約束を与えられました。(創世 22:18,新)この「すえ」とは主としてイエス・キリストのことでした。聖書はその点をはっきり説明してこう述べています。「かの約束はアブラハムとその裔とに与えたまひしものなり,多くの者をさすごとく『裔々に』とはいはず,一人をさすごとく『なんぢの裔に』といへり,これすなはちキリストなり」― ガラテヤ 3:14-16,28,29。

神はまたイスラエルに与えた律法の中に祭司と犠牲の規定を設けられました。これらものちに来るイエスをさし示していました。「律法は我らをキリストに導く守役となれり」と聖書は述べています。(ガラテヤ 3:24)律法に基づく祭司の務めは偉大な大祭司としてのイエス,また罪を永遠に取り除き,死からの救いをさえもたらす手段としてささげられる人間イエスの命の犠牲に人々の注意を向けさせたのです。バプテスマのヨハネがイエスをさして,「みよ,これぞ世の罪を除く神の羔羊」と呼んだのはこのためです。―ヨハネ 1:29。ヘブル 9:11,12。

さらにエホバは,人類に永遠の平和をもたらす者がダビデ王の家系から出ること,およびその者が神の国の王となって全地を治めることを予告されました。イエスの人間としての誕生を告げた天使ガブリエルはこう語りました。「この者は大いなる者となり,至上者の子ととなえられるであろう。そしてエホバ神はその父ダビデの王座を彼に与え(るであろう)」。(ルカ 1:32,33,新。イザヤ 9:6,7)しかし地上の小さな地域に限られたダビデの統治と異なり,イエスは神の天の御国の王となり,全地を治めるのです。イエスの統治に関する聖書の預言は次のとおりです。「その政治は海より海にいたり,河より地のはてにおよぶべし」― 詩 72:8。ダニエル 7:13,14。

そうです,神のみことば全体は,人類に永遠の命の祝福を与えるためにエホバ神が用いられる器として,イエス・キリストに焦点を合わせているのです。したがって,信仰の人々がキリストに関する預言の成就を待望したのも不思議ではありません。しかしこの者はいつ,どこで存在するようになりましたか。

人となる以前の存在

人間としてこの地上に生まれるずっと以前から,イエスは栄光ある存在を続けておられました。そのことをご存じでしたか。聖書はイエスが「最初に生まれた」神の子であることを述べています。これは,イエスが神の家族内の他の子たちよりも先に創造されたという意味です。またイエスは神の「ひとり子」でもあります。つまり,直接エホバ神によって創造されたのはイエスだけです。他のすべてのものは「神の」主要な代理者として働いたイエスを通して存在するようになりました。それで,一人の男児として地上に生まれる以前から,イエスは天にあって神に仕えておられたのです。天におけるイエスは「言」つまり神の代弁者として知られていました。―ヨハネ 1:3,10,14。コロサイ 1:15-17。

それでイエスは,「アブラハムが存在する前から,わたしはいる」,また「わたしは天から下ってきた生きたパンである」と言うことができました。(ヨハネ 8:58; 6:51,新)イエスはまた,自分が天で占めていた高い立場にふれ,祈りの中でこう言われました。「父よ,世が存在する前からわたしがみそばでもっていた栄光で,わたしをいまみそばで輝かせてください」― ヨハネ 17:5,新。

地上での生涯

信仰の人々を祝福するという神のお目的に従い,天のこの神の子が地上の人間となるべき時が来ました。このためには神の奇跡が必要でした。エホバはご自分の聖霊つまり活動力により,イエスの命を天からユダヤ人の処女マリヤの子宮に移されました。このことをマリヤに予告した天使ガブリエルはこう語りました。「聖霊があなたに臨み,至上者のカがあなたをおおうでしょう。それゆえにまた,生まれ出る者は聖なる者,神の子ととなえられるでしょう」― ルカ 1:35,新。

これを行なうことは創造者にとって可能でした。最初の女を造り,それに子を産む能力を与えたかたにとっては,人間の父親なしで一人の女に子をはらませることも不可能ではありません。この場合,神ご自身がその子供の命に責任をもつ者となりました。こうして生まれた子供イエスは神ではなく,神の子でした。彼はアダムの罪の影響を受けない完全な人間でした。どうしてですか。天使が告げたように,この者の誕生は「至上者の力」によったからです。この「至上者の力」はマリヤの子宮内での彼の成長をも導きました。

幾世紀も前からの予告どおり,イエスはダビデの町であるユダヤのベツレヘムで生まれました。(ミカ 5:2)イエスは自分の母親および養父ヨセフとともに生活し,約30歳になるまで大工の職に携わりました。イエスは大きな家族の一員として育てられました。そして,そのことはイエスが育った土地の人々のあいだで知られていました。のちに,イエスについて次のように語られたからです。「これ木匠の子にあらずや,その母はマリヤ,その兄弟はヤコブ,ヨセフ,シモン,ユダにあらずや,またその姉妹も皆われらとともにをるにあらずや」― マタイ 13:54-56。

イエスが30歳になった時,イエスが別の仕事をするべき神の定めの時が来たのです。それでイエスはバプテスマのヨハネの下に行き,バプテスマつまりからだを水の中に完全に浸す浸礼をョルダン川で受けました。(ルカ 3:21-23)これは地上で行なうべく神からゆだねられた仕事を果たすために,自らを神にささげたことを表わすものでした。イエスがバプテスマを受けたことは,イエスに信仰を働かせる者すべてに対する模範です。そしてイエスはのちに,ご自分の弟子となる者すべてがバプテスマを受けるべきことを命じられました。―マタイ 28:19,20。

しかし,ヨルダン川のイエスにはこれ以上のことが起こりました。天が開け,神の霊がイエスに下り,神ご自身が天から,「これはわたしの子,愛する者,わたしの心にかなう者である」と言われたのです。(マタイ 3:16,17,新)もはや疑問の余地はありません。この者こそ,神の預言者すべてがあらかじめ語っていた人です。このヨルダン川において,イエスは聖霊をもって神から油注がれ,予告された偉大な大祭司,神の国の王,また地上にあって伝道する者となりました。(ルカ 4:16-21)イエスには行なうべき仕事があったのです。

3年半の間,イエスは国中をまわって神のみことばを伝え,弟子たちを教えて同じわざを行なわせました。自ら言われたとおり,これはイエスが地上で行なうべき仕事でした。「われまたほかの町々にも神の国の福音を宣伝へざるを得ず,わが遣されしはこれがためなり」。そして,「十二弟子(を)伴(ひ)」,「神の国の福音を伝へつゝ,町々村々をめぐ」って,この仕事に忙しく従事されました。―ルカ 4:43; 8:1。

当時の人々は迷信的な考えから神の固有のお名前を使おうとしませんでしたが,イエスはそれを広めることをためらいませんでした。(ヨハネ 17:26)イエスは,人々に受け入れられると否とにかかわらず,常に真理を話されたのです。イエスのなされた事柄は,神の是認を求めるわたしたちの見習うべき手本です。しかしイエスはこれ以上のことさえ成し遂げられました。

罪と死からの救い

イエスは自分が人間として地上に来たことが,人類を罪と死から解放する神の取り決めと直接に結びついていることを知っていました。それでイエスは,「人の子(は)……多くの人のあがないとして自分の魂を与えるために来た」と言われました。(マタイ 20:28,新)これは厳密にはどういう意味ですか。あがないとは,捕われからの解放を得るために払う代償です。この場合,犠牲としてささげられた完全な人間としてのイエスの命は,人類を罪と死の束縛から解放するための代償でした。(ペテロ前 1:18,19)ではなぜこのような解放が必要でしたか。

それはわたしたちすべての先祖であるアダムが神に対して罪を犯したためです。アダムはその結果として完全さを失い,同時に命の権利を失いました。神の律法の意識的な違犯者として,アダムは律法の定める死の刑罰の下に置かれました。神はまた遺伝の法則をも定めておられました。つまりわたしたちすべては,身体的な特徴をはじめ,自分の親の種々の特性を受けつぐのです。こうした律法また法則に従い,アダムは自分が備えていたものを子孫に伝え,わたしたちはアダムから罪と死を相続したのです。(ロマ 5:12)こうして人類すべては罪に対する刑罰として今日まで死に続けてきました。いかにしてこの死の刑罰を取り除き,しかも正義の要求を守ることができますか。

神はご自分の律法について自ら譲歩し,妥協するということをされませんでした。それはただ悪例を作り,不法をさらに助長する結果となるにすぎないでしょう。しかし神は人類を望みのないままに見捨てるということもされませんでした。神はご自身の律法に従いながらも,その愛ゆえに救いの道を備えられたのです。それは意識的に罪人となったアダムのためではなく,選択の余地なくアダムの悪行の影響を受けるようになったアダムの子孫のためでした。神は,のちにモーセの律法の中に取り入れた法的な原則,つまり「魂には魂」という原則に従ってこのことを行なわれました。(申命 19:21)イエスを通して備えられたあがないの中に,この原則がどのように適用されたかを調べましょう。

「生きた魂」であるアダムは,人類のための命を失いましたが,はじめは完全な人間でした。アダムが失ったものの代償として,アダムに等しい別の人間の魂が必要でした。その者が自分の完全な命を人類のための犠牲としてささげるのです。(コリント前 15:45,新)アダムの子孫の中にはこの資格にかなう者がいませんでした。そのすべては生まれながらに不完全であったからです。結果としてアダムの子孫すべては罪人として死ぬものであり,他の人々のための犠牲となれるような人間の命の権利をそなえていませんでした。―詩 49:7。

それで神はご自身の御子を地につかわされたのです。イエスは人間として生まれました。必要なのは人間の命であったからです。しかしイエスは人間の父親の助けを得ずして生まれました。それはアダムのような完全な人間となるためです。神だけが人間イエスの父親であられました。それはアダムに対して父親であられたのと同じです。(ルカ 3:38)こうしてイエスは「相当するあがない」として自分の命をささげる資格を十分に備えました。―テモテ前 2:6,新。エペソ 1:7。

西暦33年ニサン14日,敵対した者たちはイエスを刑柱上で死なせました。イエスはこれをはばむことができました。しかしそうされませんでした。(マタイ 26:53,54)イエスはわたしたちに対する犠牲として,ご自分の命をすすんで捨てたのです。その点をイエスの使徒ペテロはこう述べています。「彼自身は刑柱につき,わたしたちの罪をその身に負われた。これはわたしたちが罪について死に,義について生きるためであった。そして,『彼が打たれたことによって,あなたがたはいやされた』」― ペテロ前 2:24,新。ヘブル 2:9もごらんください。

神は人類に対してすばらしい愛を示されたではありませんか。聖書はこの点の理解を助けるため次のように述べています。「神はそのひとり子を与えるほどに世を愛された。それは彼に信仰を働かせる者がひとりも滅びず,永遠の命をもつためである」。(ヨハネ 3:16,新)子供をもち,その子供をいつくしんでおられるかたなら,これが神にとってどんな意味をもったかを,ある程度は理解されるでしょう。神はわたしたちをこれほどに顧みてくださるのですから,わたしたちは神への感謝をいよいよ深くするべきです。―ヨハネ第一 4:9-11。

エホバ神はご自分の御子を墓で死んだ状態には放置されず,3日目によみがえらせました。イエスは人間の命を再び与えられたのではありません。再び人間の命を得るなら,ささげたあがないを取り消す結果となったでしょう。イエスは「霊において生かされた」のです。(ペテロ前 3:18,新)復活後の40日間,イエスは物質のからだを着け,見える形で何度も弟子に現われました。これは確かによみがえったことを実際に示すためでした。そののち,弟子たちが見守る中で,イエスは天に上り,やがて雲に隠れて見えなくなりました。天にもどったイエスは,自分のあがないの犠牲の価値を携えた偉大な大祭司として,「わたしたちのため,神の御前に現われてくださる」のです。(ヘブル 9:12,24,新)こうして神の正義の要求を守りつつ,人類の救いの道が備えられました。

わたしたちは今でもあがないの恩恵を大いに受けることができます。それに信仰を働かせるなら,神の御前で清い立場をもち,また神の愛の保護を受けることができます。(黙示 7:9,10,13-15)不完全さのゆえに罪を犯す場合でも,あがないに基づき,神が聞いてくださるとの確信をもって,神の許しを願うことができます。(ヨハネ第一 2:1,2)さらに,現存する邪悪な事物の体制の終わりを生き残る道が開かれているのもこのあがないによります。また,あがないは死人の復活を可能にしました。そして,神の新しい事物の体制下でとこしえの命を得ることは,あがないをその基としています。その時,人類はあがないの適用を受け,相続した罪の影響をことごとく除かれるのです。―コリント前 15:25,26。黙示 7:17。

神の国の統治者

イエスの誕生に先だち,天使ガブリエルはイエスが偉大な王となることをマリヤに告げました。地上での宣教の間,イエスは,人々の注意をいつも神の国に向けさせました。そして,ご自分に従う人々に対しては,「御国が来ますように。御心が,天におけるごとく,地にも行なわれますように」と祈ることを教え,また,『御国をいつも第一に』することを求められました。(マタイ 6:10,33,新)イエスは御国を自分の伝道の主題としておられました。またイエスは癒しや死人のよみがえりの奇跡を行なわれましたが,それは神の国の支配する地上で何が起こるかを小規模に示すものでした。ある時のことについて,聖書はこう述べています。「大なる群衆,あしなへ,かたは,めしひ,おふしおよび他の多くの者を連れきたりて,イエスの足下に置きたれば,いやしたまへり。群衆は,おふしの物ひ,かたはのいえ,あしなへの歩み,めしひの見えたるを見てこれを怪し(めり)」。(マタイ 15:30,31; 9:35)キリストの統治下に,盲人の目が開かれ,耳の聞こえない人が聞こえるようになり,不自由な手足がいやされる時の喜びを想像してごらんなさい。あらゆる病気と苦しみは過去のものとなります。それはなんという祝福でしょう!―黙示 21:3,4。

イエスは御国の統治者として神から油注がれたかたでした。しかし天に帰られたイエスはすぐにその王権を行使されたわけではありません。父の定められた時まで待たねばならなかったのです。(使行 2:34-36)それでもイエスは,自分が御国の王としてもどる時について次のように予告されました。「人の子は,すべての天使を従えて栄光のうちに到来するとき,自分の栄光の王座にすわるであろう。そして,すべての国の民が彼の前に集められ,彼は,羊飼いが羊と山羊とを分けるように,人々を分けるであろう」― マタイ 25:31,32,新。

わたしたちは今,羊と山羊とが分けられる時代に住んでいます。天の御国の王座についておられるキリストは,まもなくその王権を行使して邪悪な者を滅ぼし,羊のような人々を救って御国の領土となる地上を継がせるでしょう。―マタイ 25:34,41,46。

イエス・キリストを通して全人類に祝福が備えられました。しかしこの祝福にあずかるためには,イエス・キリストに信仰を働かせねばなりません。(ヨハネ 3:36)わたしたちはイエスの弟子となり,わたしたちの天の王としてイエスに服さねばなりません。あなたはそうされますか。そうするあなたを妨げようとする敵対者がいます。しかしエホバに全幅の信頼をおくなら,神を愛する者のために神が備えておられる祝福を必ず受けることができるのです。―詩 62:7,8。

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