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一世紀当時の収税人はどのようにみなされていたかものみの塔 1974 | 5月15日
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収税人の不正
イエスが地上で奉仕を行なっておられた当時,収税人は往々にして道徳的にもいかがわしい投機家でした。物品の価値を偽って課税し,次いで得たお金を税金を払えない人に,しかも高い利率で貸してはゆすりを働く者も少なくありませんでした。手にはつえを持ち,胸にはよく目立つ真鍮の胸当てを着けたそれら収税人は,隊商を止めては持ち物全部を地面に投げ出させて検査したものでした。それから,自分たちの気に入ったものを何でも取り,しばしばよく肥えた荷物運搬用の家畜を連れ去って,劣った家畜と入れ替えたりしました。
ですから,ユダヤ人の収税人がさげすまれていたのも驚くにはあたりません。それら収税人は外国つまりローマの権力のために働き,“汚れた”異邦人と緊密な関係を持っていただけに,そばにいるだけで人々は不快に感じました。普通,他のユダヤ人は収税人とわざわざ交わることを避けていました。(マタイ 18:17)収税人は,売春婦を含め罪人として知られている人々の部類に入れられていました。(マタイ 9:11; 11:19; 21:32。マルコ 2:15。ルカ 5:30; 7:34)当時のユダヤ人の間では,収税人をごまかすことは罪とは考えられていませんでした。タルマッドは,収税人を殺人者や強盗と同列に置いており,偽ったり,暴力を行使したりして得た収税人のお金は,浄財として受け取ることさえ不適当とされていました。
税金の支払いに対するイエスの見方
従って,税金の支払いという問題は激しい反感の的とされていました。このことを知っていた,イエスの敵対者たちは,税金を支払う問題に関連してイエスをわなにかけようとしたのです。ある時,ヘロデの党派的追随者とパリサイ人の弟子たちがイエスにこう質問しました。「カエサルに人頭税を払うことはよろしいでしょうか,よろしくないでしょうか」― マタイ 22:17。
「人頭税」はローマ帝国の官吏によって徴収されていましたから,否定の答えをすれば,イエスはローマに対する反抗をそそのかしていることになったでしょう。一方,一般のユダヤ人は,その税金を払ってローマに対する服従を認めねばならないことに憤りを感じていました。ですから,肯定の答えをすれば,イエスは一般のユダヤ人の間で不興を買う結果になったでしょう。それら質問者の動機を見て取ったイエスは彼らに向かって,「なぜあなたがたはわたしを試すのですか,偽善者たちよ。人頭税の硬貨をわたしに見せなさい」と言いました。記録はさらにこう続けています。「彼らはデナリをイエスのところに持って来た。そこで彼らにこう言われた。『これはだれの像また銘刻ですか』。彼らは,『カエサルのです』と言った。そこでイエスは言われた,『それでは,カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい』」― マタイ 22:18-21。
こうしてイエスは,聞いていた人たちが自分で適用しなければならない原則を述べました。カエサルが発行し,またカエサルによって特定の価値が定められているゆえに,お金は「カエサル」に属することを認めたいと思う人は,税金を支払うのが妥当であることを理解できました。それに,ローマがその属国の市民のためにさまざまの公益事業を行なっていることも知っていました。そうした有益な公益事業を支持するためには,税金を支払わねばなりませんでした。
収税人に対するイエスの態度
もちろんイエス・キリストは,収税人の間にはびこっていた腐敗を大目に見ることはなさいませんでした。しかし,いつも喜んでそうした人々を霊的な面で助けました。そのために敵対者たちはイエスのことを「収税人や罪人らの友」と呼びました。―マタイ 11:19。
とはいえ,収税人はその生き方を改めないかぎり,イエスの真の「友」とはなれませんでした。従ってイエスはあるたとえの中で,謙虚に自分が罪人であることを認め,悔い改めた収税人のほうが,高慢にも自分を義にかなった者とみなしたパリサイ人よりももっと義にかなっていることを示しました。(ルカ 18:9-14)悔い改めたそうした収税人の中には,天の王国の成員となる見込みを持つようになったマタイやザアカイがいました。―マタイ 21:31,32と比べてください。
収税人に対するイエスの態度は,自分の生き方はエホバ神の目に卑しむべきものだと感じている人すべてにとって励ましを与える源となるでしょう。そのような人々は,悔い改めて自分の生活を聖書に述べられている神のご要求に合わせる時,神からの許しと清い良心が得られることを確信できます。金持ちの収税人ザアカイのような人々が昔自分の生活を改めたという事実は,今日同様の歩みを取りたいと願う人々がそうし得ることを示しています。―イザヤ 55:7。
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有効に過ごした時間ものみの塔 1974 | 5月15日
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有効に過ごした時間
● エホバのクリスチャン証人は,真の崇拝が貴重なものであることを認識しています。それは証人たちに真の喜びと生きる目的を与えるものとなりました。彼らが時間を有効に使って,聖書に基づく自分たちの信仰について他の人々に熱心に話しているのはそのためです。
一例として,アメリカのミネソタ州に住むあるエホバの証人のことを考えてみましょう。ある晩,その証人はもう一人の人といっしょにパワー・シャベルを使って仕事をしていました。その晩は風雨が非常に激しかったので,ふたりはトラックの中で暖を取ったり,服を乾かしたりしてかなりの時間を過ごしていました。その晩の仕事が進むにつれて,ふたりの会話はやがて宗教問題に移りました。エホバの証人はどんな慈善活動を行なっているのかという,その仲間の質問に答えた後,証人は家庭聖書研究の取決めについてふれ,こう言いました。「これは大切な取決めなので,活用すべきだと思いますよ。いっさい無料ですし,君の都合の良い時にお宅で行なえるのですよ」。すると仲間の従業員はこう答えました。「わたしもそのことを考えていたところです。いつ来てもらえますか」。
聖書のことを話して人を築き上げる会話をして時間を有効に過ごした結果はどうなったでしょうか。その従業員と彼の妻は良く進歩し,自分たちもバプテスマを受けたエホバの証人として,神のことば聖書の知識を得るよう他の人々を助けるほどになりました。
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読者からの質問ものみの塔 1974 | 5月15日
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読者からの質問
● ローマ人への手紙 11章26節には,「こうして全イスラエルが救われることです」とあります。これは全部のユダヤ人の改宗が期待されているという意味ですか。
そうではありません。というのは,聖書の示す証拠は,「全イスラエル」という表現に包含される人びとは,霊のイスラエルの全員であることを指し示しているからです。神にとって血肉上の違いがもはや問題でないことは,ガラテア人への手紙 3章28節からみて明らかです。そこには,「ユダヤ人もギリシャ人もなく,奴隷も自由人もなく,男性も女性もありません。あなたがたはみなキリスト・イエスと結ばれてひとりの人となっているからです」と記されています。そしてガラテア人への手紙 6章16節では,ユダヤ人と非ユダヤ人のこの混合体は「神のイスラエル」と呼ばれています。使徒パウロはローマ人へ書き送った手紙の中で,アブラハムの孫ヤコブを通して出るアブラハムの実の子孫が神の子として『養子にされる』立場にあることを明らかにしました。しかしながらその大多数は,イエスをメシアとして受け入れることを拒絶したために,この過分の恵みを失いました。そこでエホバ神は,真のイスラエルの成員となる機会を非イスラエル人に差し伸べられました。使徒パウロは書きました。「イスラエルから出る者がみな真に『イスラエル』なのではないからです。また,アブラハムの胤だからといって,彼らがみな子どもなのでもありません。むしろ,『「あなたの胤」と呼ばれるものはイサクを通してであろう』とあります。つまり,肉による子どもが真に神の子どもなのではなく,約束による子どもが胤とみなされるのです」。(ローマ 9:1-8)「外面のユダヤ人がユダヤ人ではなく,また,外面の肉の上での割礼が割礼でもないのです。内面のユダヤ人がユダヤ人なのであり,その人の割礼は霊による心の割礼で,書かれた法典によるものではありません。その人をほめることは,人間からではなく,神から来るのです」― ローマ 2:28,29。
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