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クリスチャンは傍観者か参加者かものみの塔 1961 | 5月1日
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となるためには,彼の証人となることである!……神のもとに各クリスチャンは,証言を行なうチームにはいるべきである。4世紀にはすでに,有名な神父,ジェロームはこう宣言している,『洗礼は平信徒の任命式を意味する』」。
これと同じ雑誌の中でひとりの神学校の教授は,この教会における一般信徒の活動が全く信じがたいものだということを示しています。すなわちハーマン・サッセ博士は「世界中のルーテル派の信者は,無関心になりルーテル派の教理を鳴りひびかせなかったために,はっきりした満足のゆく解答をすることができなかった……我々の教会は聖公会と全く同じことになってしまった。聖公会の教会は,新教の教会の世界でみられるように,何を一体信じているのかを言うことができなくなってしまった」と言っています。
バプテスト派の牧師でカナダのエル・ターは,参加しないことが重大な問題だということを示してこう述べました,「すべてのクリスチャンは,福音のためのわざに活発にあずかるべきである。今の時代は弟子を必要としている。それ以下のものはすべて偽善である」。彼は教会にかよう者が「自分たちは傍観者であり,参加しなくてもよいのだと考えている」ということを認めました。
どこに責任があるか
兵器の使用法も知らない軍隊が,進撃することができるでしょうか。走り方を知らない走者は競走に加わることができますか。何を証言してよいやらわからないクリスチャンは,どのようにして証言することができますか。キリスト教国には聖書の真理にかんする知識が驚くほど欠けているので,彼らには証言はできません。ミシガン州,ランシングの1960年5月11日号の「ステイト・ジャーナル」はこの点を指摘しています,「これはやさしい仕事ではない。アメリカの教会には宗教的無知が行きわたっている。それで一般信徒は,自分もはっきり理解していない信条の主唱者になるようなことは,なりたくてもなれない」。
正確な知識がこのように欠けていることは宗教指導者たちの責任です。彼らは聖書の真理を忠実に教えなかったのです。模範を示すために,家から家へ行く聖書的な方法を自分たちが取りいれなかったのです。隊長が戦争に参加するのをこばみ,キャプテンが自分のチームを助けなかったのと同じことです。その結果,牧師も,信徒も,そうです,隊長も,その隊員も,あるいはキャプテンも,走者たちも偉大な審判者エホバ神の前で失格してしまいました。イスラエルの国におきたことと同じことが,キリスト教国におきたのです,「神の国はあなたがたから取り上げられて,御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう」。―マタイ 21:43,新口。
神は,喜んで参加し,彼の証者となる者を用いるでしょう。今日,何十万というエホバの証者は家から家へ御国の良いたよりを伝えよというイエスの命令にこたえ応じています。エホバの証者だけがこの命令に忠実に従っています。ほかの宗教でも証言のわざをきわめて重要なものと認めていながら,実際にその通り行なっているものを迫害し反対するとは何とおかしなことでしょう!
永遠の生命はすばらしい賞です。傍観者はそれを得ることができませんが,実際に参加するものはそれを得ます。活動的でない傍観者にならず,神の是認と新しい世での生命を得るように参加する者となって下さい。
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創造を証拠づけるものみの塔 1961 | 5月1日
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創造を証拠づける
太陽系の不思議に感動したサー・アイザック・ニュートンは言いました,「単なる機械的な原因が,こうした多くの規則的な運動を生み出しえたと考えるべきではない。……この最もすばらしい太陽,遊星,彗星の組織は,深い知恵と力をもつ神の意図と支配のみから生じうるものである」。
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