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  • 韓国における王国のわざの拡大
    目ざめよ! 1971 | 8月22日
    • の兄弟は,献身して長年を経た同僚から真理を学びました。この新しい兄弟はたいへん重い病気になり,明らかに手術が必要となりました。その兄弟は,医師が輸血なしで手術をすることに同意しないかぎり,手術を受けるわけにはゆかないとして拒絶しました。同僚の教師たちは,前述のもうひとりの兄弟を無理に病院に連れて行き,その新しい兄弟に輸血を受けるよう圧力を加えさせようとしましたが,古い兄弟は,問題は病人の良心にかかわる事であることを説明しました。このことを聞いた女生徒たちは,先生が手術を受けないならと,学校を休んで抗議デモをすることにしました。その兄弟は人気のある先生だったので,女生徒たちは,その兄弟を失いたくなかったのです。死が迫まったかに思われた時,その兄弟は,万一自分が死んだ場合,先生や生徒に読んでもらうために,病床で一通の手紙を書いて,同僚に手渡しました。先生も生徒もその手紙を読んで感動しました。というのは,その手紙の中で,兄弟は,自分の命は神から与えられたものであり,神の律法に一致してその命を用いなければならないということを詳しく説明していたからです。また,自分の希望は復活にかかっており,自分の決定の全責任は自分にのみあるともしたためてありました。ところが,医師や病院当局者にとっていまだになぞとされているのですが,その兄弟は突然快方に向かい,手術なしで回復しました。そこで先生も生徒たちもみな,二,三週間前までは,その兄弟は信仰のために殺されることになるだろうと言っていたのが,今では,兄弟の命を救ったのは,エホバに対する兄弟のそうした強い信仰に違いないと考えるようになりました。

      開拓者の数は引き続き増加しています。特別開拓者のわざはすばらしい結果をもたらしていますが,宣教のわざの大半を遂行し,宣教の成果の大半をもたらしているのは正規開拓者です。それらの開拓者の大半は,チョウウォン市に住む教師の妻の場合のように主婦で占められています。その教師の妻は3人の子どもをかかえており,西洋式の便利品は何も持っていません。彼女は家事を朝早くか,夜遅く処理し,日中,学校で授業が行なわれているあいだに伝道します。10か月のあいだは,正規開拓奉仕者の奉仕時間の目標を達成できないのではなかろうかと考えて,正規開拓者の責務を受けることを望まず,休暇開拓奉仕をしましたが,これまでの3年間,正規開拓奉仕をしてきました。そして,近所の人々から,二つのあだ名をもらいました。夜遅く家事をするので,「森のふくろう」と呼ばれ,また,伝道のための区域や聖書研究に行く時には,いつも急いで歩くので,「ジェット機」と呼ばれています。しかし彼女は,これまでの3年間は人生で最も幸福な時だったので,そうしたあだ名は少しも苦にならないと語っています。

      エホバのすばらしい組織のいたるところで起きているのと同様な事柄が韓国でも起きています。昨年は幸福で忙しい1年でしたが,わたしたちは特に,ノア兄弟とフランズ兄弟が二度にわたって韓国を訪れてくださったことを感謝しています。それらの訪問を通して,韓国の兄弟たち,とりわけ,新しい兄弟たちが統治体を身近に感じ,また,エホバがご自分の組織を支持しておられることを理解するよう助けられました。わたしたちは1971年度も,やはりすばらしい年になるものと期待しており,エホバがご自分の民を導いてくださるよう日々祈っています。

      ― エホバの証人の1971年度年鑑より

  • 決意が道を開く
    目ざめよ! 1971 | 8月22日
    • 決意が道を開く

      ● 南アフリカに住むある新たに関心をいだいた人は,エホバの証人と家庭聖書研究を3回行なっただけで証人たちの全国大会に出席したいと考え,休暇願いを出しました。しかし,彼の店がその町で唯一のアイスクリーム製造所であり,しかも時は真夏だという理由で雇主はその休暇願いを認めませんでした。それで彼は雇主が知らないうちにかなりの残業をして,余分のアイスクリームを大量に作りました。そして雇主にこう言いました。「わたしはヨハネスバーグへ出かけようと思います。冷蔵庫には1週間十分まにあうだけのアイスクリームがはいっていますから,ご心配には及びません」。大会から帰ると,彼はなんと共同経営者になってほしいとの申し出を受けたのです。この人は次の機会にバプテスマを受けたいと願っています。あなたも大会に出席したいとの願いを持っておられるなら,出席することを決意してください。

      ― エホバの証人の1971年度年鑑より

  • 『自分の霊的な必要を意識している幸福な人たち』
    目ざめよ! 1971 | 8月22日
    • 「あなたのみことばは真理です」

      『自分の霊的な必要を意識している幸福な人たち』

      イエスのことばで最もよく知られているのは確かに山上の垂訓です。この点に関して,雑誌編集者D・ローレンスはいみじくも述べました。「われわれは山上の垂訓以上にすぐれた人間の行為のための方式を考案したことは決してない」。(US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌,1971年1月4日号)聖書の中でこれほど高く評価されながら,これほど実践されていない箇所はほかにはないと言われているのも,もっともです。

      山上の垂訓は,いわゆる九つの「至福」をもって始まっています。多くの翻訳の中のそれら九つの箇所の冒頭で「幸福」と訳されているギリシア語はマカリオスだからです。幾つかの現代訳ではそれを「幸福」と訳しています。(「今日の英語訳」,ロザハムのエンファサイズド・バイブルおよび新世界訳をご覧ください。)「幸福」と訳されているギリシア語はもう一つあります。それはユーロゲトスです。それでイエスは,山上の垂訓の冒頭で九つの「幸福」もしくは幸いを宣言されたのです。それはたいへん深い意味を持つ事柄であり,その重要な意味を十分に認識するには,相当の考慮を払わねばなりません。―マタイ 5:3-12。

      イエスがそうした幸福についておもにご自分の追随者,つまり『〔刑柱〕を負って』彼に従っていた人たちに向かって話されたのは注目に値する重要なことです。(マタイ 16:24,〔新〕)「イエス……坐し給へば,弟子たち御許にきたる。イエス口をひらき,〔彼らに〕教へて言ひたまふ」。しかしながら,群衆が一行に加わって話を聞いたようです。人々は聞いた事柄に感動させられたとしるされているからです。―マタイ 5:1,2,〔新〕; 7:28,29。

      そうした幸福に関する最初のことばは文字どおりに訳せば,「霊に関して貧しい人たちは幸福です」となります。ここで「貧しい人たち」と訳されているギリシア語はたいへん意味深いことばです。ギリシア語では「貧しい」ということばは二つあって,その一つは,裕福でないため苦労して生計をたてねばならない人のことをさす,ペニクロスで,もう一つは,ひどく貧乏な,つまり極貧のこじきをさすプトコスです。最初の幸福に関してイエスが用いたのはこのことばでした。そのような人は自分の貧しさを身にしみるほど知っています。それで,新世界訳(1950年また1963年版)はその句を,「霊における貧困者たち」,「今日の英語訳」は,「自分が霊的に貧しい者であることを知っている人たちは幸福です」と訳しています。したがって,新世界訳はきわめて適切にもイエスのそのことばを,「自分の霊的な必要を意識している人たちは幸福です」と訳しています。

      それらの人たちが幸福であると語ったイエスは何を意味しておられたのですか。ここで用いられているマカリオスというギリシア語は,楽しいことをしているときの気楽な陽気な気分だけを意味しているわけではありません。むしろそれは,深遠な福祉を示すことばです。神とイエス・キリストはともに,「幸福な」かたと呼ばれているからです。―テモテ前 1:11; 6:15,新。

      イエスによって幸福な人と呼ばれたそうした人たちは,三つの点あるいは面で幸福と言えるでしょう。それらの人は今ある程度の幸福を享受しており,同時に,幸福な前途の見通し,もしくは希望を持ち,そして最後に,至高かつ完全な幸福をかち得るのです。

      自分が『霊における貧困者』で,「自分の霊的な必要を意識して」いる者であることを人はどのようにして表わしますか。また,それゆえに幸福である,とどうして言えるのですか。幾つかの表わしかたがありますが,イエスが次のように勧告したとおり,エホバ神に絶えず依存していることを示すのはその一つです。「求めつづけよ。そうすれば,それはあなたがたに与えられるであろう。追求しつづけよ。そうすれば,あなたがたは見いだすであろう。たたきつづけよ。そうすれば,それはあなたがたに開かれるであろう」。そのような人が求めるものの一つは神の聖霊です。天の父はご自分に求める人たちに対して,地上の親が自分の子どもに良い贈り物を与える以上に喜んでご自分の聖霊をお与えになる,とイエスは言われました。確かに聖霊を受ける人たちは今でさえ幸福な人と呼べるでしょう。―マタイ 7:7,新。ルカ 11:13。

      「霊における貧困者」は物質主義の人ではありません。物質主義を奉ずる人は自分の物質上の必要や欲求しか意識していないからです。しかしイエスが指摘された種類の人は,「人の生くるはパンのみに由るにあらず,神の口より出づる凡ての言に由る」ことを認めます。(マタイ 4:4)ゆえに,娯楽その他の事柄から時間を買い取って神のみことばを研究し,神のみことばの研究から得る知識や信仰また希望によって真に幸福な人となります。また,次のように語ったエレミヤのように感じます。「われ汝の言を得て之を食へり汝の言はわが心の欣喜快楽なり」。(エレミヤ 15:6)同時に,会衆の集会で仲間のクリスチャンと交わることにより,自分の霊的な必要を意識していることを表わします。それは自分が励まされるとともに,今度は他の人を励まし,愛と良いわざを行なうよう他の人を鼓舞することにあずかるためです。そのすべては幸福に資するものとなります。―ヘブル 10:23-25。

      それにまた,自分の霊的な必要を意識している人は,自分の罪や欠点を痛感しています。その人は鋭敏な良心を持ち,また,イエスが「世の罪」のために死なれたことを深く感謝し,それゆえに,そのあがないの備えに信仰を働かせ,キリストの犠牲に基づいて神に許しを祈り求めます。(ヨハネ 1:29。マタイ 20:28。ヨハネ第一 1:9)ゆえに,詩篇作者ダビデが述べた幸福にあずかれます。「その愆をゆるされその罪をおほはれしものは福ひなり」― 詩 32:1。

      さらに,霊的な必要を意識している人はまた,自分が学んだ霊的な良い事柄を他の人とわかち合いたいという強い衝動またその必要を感じます。したがって,そうするための機会を求め,そのために自分の世俗の活動の中から時間を買い取ります。慰めをもたらす良いたよりを他の人々に差し伸べるのは確かに幸福を増し加えるわざです。「与ふるは受くるよりも幸福」だからです。―使行 20:35。エペソ 5:15,16。

      ルカ伝 6章20節〔新〕のイエスのことば,「幸福なるかな,貧しき者よ,神の〔王国〕は汝らの有なり」というルカの叙述を考慮するには,マタイ伝 5章3節のイエスのことばのこうした理解をもって当たらねばなりません。ここでいう“貧しさ”は明らかに霊的な必要に気づいている状態をさします。明らかにルカは,九つの幸福を簡略にして四つにまとめているとおり,この幸福に関することば使いそのものをも簡略にしています。―ルカ 6:20-23。

      イエスはご自分の足跡に従う人たちにおもに話しかけておられたので,彼らに関し,「天の王国は彼らに属している」と言いえたのです。イエスはさらに彼らにこう言われました。「われ汝等のために処を備へに[わが父のもと]に往く……わが居るところに汝らも居らん為なり」。こうした見込みもしくは希望を持っていることは確かに彼らが幸福であるべき別の理由となります。そして,こうした希望が実現を見るとき,彼らはこの上ない全き幸福にあずかるでしょう。他の聖句によれば,彼らの数は14万4,000人に限られています。―ヨハネ 14:2,3。黙示 14:1,3。

      イエスが話された幸福はそれら少数者に限られているのですか。いいえ。それどころか,その原則は無数の他の人々にもあてはまるのです。今日,やはり自分の霊的な必要を意識し,それゆえにもたらされる幸福を享受している「他の羊」の「大群衆」がいます。(黙示 7:9,ヨハネ 10:16,新)それらの人たちも,今自分たちを幸福にする希望,つまり神の王国の地上の領域に住む見込みを持っているのです。その領域に住むとき,彼らも全き幸福にあずかるでしょう。―マタイ 25:34。

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