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偉大な教え手に聞き従う
教 38章 155–158ページ

38章

神の家を愛しなさい

あなたは,だれかの家に食事に招待されるのがすきですか。― もし神の家に招待されたならどうでしょう。行きたいと思いますか。―

ところで,神は家に住んでおられません,とあなたはいうかもしれません。たしかに,神はわたしたちのように家に住んでおられません。

でも,偉大な教え手は,神は「家」を持っておられる,とおっしゃいました。そしてイエスは,小さな子どもの時でさえ,よく神の家に行きました。その家とは,エルサレム市にある美しいエホバの神殿でした。その神殿はエホバのもので,エホバを崇拝するために用いられました。ですから,それは「エホバの家」と呼ばれました。

イエスは少年のころ,「エホバの家」から遠くはなれたところに住んでいました。当時は自動車や汽車はありませんでした。その神殿に行くには,歩いて行かなければなりませんでした。それも1時間かそこら歩けばよいのではなくて,そこに行くには少なくとも三日間歩かねばなりませんでした。また,帰りにもやはり三日かかりました。わざわざそうした旅行をするだけの価値がありましたか。あなただったら,「神の家」でひと時を過ごすためにそんなに遠くまで歩いたでしょうか。―

「神の家」を愛した人びとは,それを遠すぎるとは考えませんでした。毎年イエスの両親は崇拝のためにエルサレムに行きました。そして,イエスも両親といっしょに行きました。

ある年のこと,両親は帰りの旅をはじめましたが,イエスは家族の者とはいっしょにいませんでした。かなりの道のりを旅するまで,ひとりもそのことに気づきませんでした。それから両親はイエスをさがしにもどりました。イエスはどこにいたと思いますか。―

ふたりはまさに神殿のなかでイエスを見つけました。イエスは教師たちのことばに耳をかたむけては,質問をしたりしていました。そして教師たちが何かをたずねると,イエスは答えました。教師たちはイエスのりっぱな答えにたいへん驚きました。

両親がイエスをついに見つけたとき,ほっとしたのはいうまでもありません。ところが,イエスは心配してはいませんでした。とどまっているのに神殿は良いところだということを知っていたのです。それでイエスは,「わたしが自分の父の家にいるべきなのをご存じではなかったのですか」とたずねました。イエスはその神殿が「神の家」であることを知っていました。そして,そこにいるのがすきだったのです。―ルカ伝 2:41-49。

イエスやその両親が崇拝のために集会に行ったのは一年にたった一度だけではありませんでした。彼らの住んでいた町では毎週,崇拝のための集会がありました。

そうした集会では,だれかが立ちあがって,聖書を読みました。人びとが持っていた聖書は全部を1冊の本にまとめたものではありませんでした。長い巻き物になっていたのです。ですから,人びとは巻き物を開き,読みたいと思うところを出してから読みました。それからその説明が行なわれました。聖書によれば,それらの集会に出席するのはイエスの「習慣」でした。つまり,イエスは定期的に出席されたのです。―ルカ伝 4:16。

わたしたちもそうすべきです。でも現在,「神の家」はどこにありますか。神を崇拝するにはどこに行くべきですか。―

イエスが行ったエルサレムの神殿はもはやそこにはありません。それはほろぼされてしまいました。ですからそこに行くわけにはいきません。

しかし,神は今でもたしかに「家」を持っておられます。それは石で作った家ではありません。人びとで作りあげられた家です。そのようなことがどうしてありえますか。家とは住む場所のことです。そして神は,ご自分の民といっしょにいるといっておられます。神が天を去って地上におりて来られるのではありません。しかし,神はご自分の民に非常に親しくしておられるので,その民はあたかも神がまさしく自分たちといっしょにおられるように感じるのです。―ペテロ前書 2:5。エペソ書 2:22。テモテ前書 3:15。

それでは,「神の家」に行くには,わたしたちはどこに行くべきですか。― 神の民が崇拝のために集まっている所に行くべきです。それは大きな建物のなかかもしれませんし,小さな建物のなかかもしれません。あるいは,それはだれかの家かもしれません。たいせつなのは,集まっている人びとがほんとうに神の民でなければならないということです。でもそれが神の民かどうかはどうしてわかりますか。―

それでは,それらの人は集会で何をしますか。聖書に書かれていることをほんとうに教えますか。それを読んだり,話し合ったりしますか。そうであれば,わたしたちは神のことばを聞くことになるのではありませんか。― そして,「神の家」では神のいわれた事がらが話されるはずですね。―

しかしもし,聖書の述べる仕方で生活しなくてもよいと人びとがいうとすればどうですか。その人たちは神の民だといえますか。―

ほかにも考えなければならないことがあります。聖書によれば,神の民は「ご自分の御名のための民」なのです。神のお名前はなんですか。― それはエホバです。ですから,あなたの神はエホバですかと人びとにたずねることができます。「いいえ,そうではありません」というなら,その人たちは神の民ではないことがわかります。―使徒行伝 15:14。

しかし,わたしたちの神はエホバですというだけでは不十分です。その証拠はどこにありますか。そのような人はほかの人びとにエホバについて話しているはずです。神の王国について人びとに語っているはずです。また,神のみ子に信仰を持っているはずです。そして,神のおきてを守って,神への愛を表わしているはずです。―イザヤ書 43:10。

わたしたちは,このことをしている人びとを知っていますか。― それでは崇拝のためにその人たちとともに集まるべきです。そして,定期的にそこに行くべきです。教えてくださる人たちの話に耳をかたむけ,たずねられる質問に答えるべきです。それは,イエスが「神の家」にいたとき行なったことです。そうするなら,わたしたちも「神の家」にたいする愛をほんとうに示すことになるのです。

(わたしたちは,神の民とともに定期的に集会に出席することに喜びを持つべきです。このことに関して詩篇 122:1とヘブル書 10:23-25に書かれていることをお読みください。)

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