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  • マリア ― 女の中の祝福された者
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1975
塔75 8/15 487–488ページ

マリア ― 女の中の祝福された者

メシアの現われる家系に属する者となることは,女にとって名誉であるに違いありません。それで実際にメシアの母となった女はなんと恵まれているのでしょう。聖書の示すように,ダビデの王家の処女マリアは,女の中でこのように祝福された者でした。

神が彼女に与えようとしておられた役目を彼女に告げたのは天使ガブリエルです。カトリック・ドウェー訳の言いまわしによると,ガブリエルは次のようなことばであいさつしました。「幸いあれ。恩ちょうに満たされた者よ。主は汝とともにいます」。(ルカ 1:28)このことばに基づいて,多くの人は,ガブリエルが特別の神聖さ,あるいは霊的清浄をマリアに帰していたと結論しています。

しかしガブリエルのことばは,マリアの“霊的清浄”に注意を引いたものですか。そうではありません。カトリックの新アメリカ聖書がどのようにガブリエルのあいさつを訳しているかに注目してください。「喜びなさい。大いに恵まれた娘よ。主はあなたと共におられます」。カトリックのエルサレム聖書を見ても同様であり,その脚注に次の説明があります。「つまりメシアの母となるほど大いに恵まれた」。もちろん至上者が地上においてみ子の母となる誉れをマリアに与えられたことは,彼女が忠実で謙そんな,神のしもべであったことを示しています。―ルカ 1:38,46-50。

しかしマリアは,神のみ子を生むという無類の特権を与えられた,謙そんな,神のしもべ以上の者でしたか。たとえば,彼女はずっと処女のままで,“霊的清浄”という特別な状態を保ちましたか。

クリスチャンと唱える人の多くは,マリアが一生を通じて処女のままであったと信じています。その人々は,天使ガブリエルに対するマリアのことばをその証拠として挙げます。みごもって男の子を生むであろうと告げられた時,マリアはこう言いました,「私は処女ですのに,どうしてこの事が起き得るでしょうか」。(ルカ 1:34,エルサレム聖書)エルサレム聖書はこの訳文について脚注に次のことを記しています。「字義どおりには『私は男を知らない者ですのに』。この句はマリアが事実,処女であったことを意味しており,恐らくは,処女のままでいたいとの彼女の意図をも表明している」。

天使ガブリエルの訪れる以前すでにマリアが一生のあいだ処女でいることを決めていたかどうかをはっきりと知るには,彼女の生きていた当時の見地からこの事柄を見なければなりません。当時,結婚した女にとって子供のないことは恥でした。それでエリサベツは彼女にとって初めての,そしてただ一人の子であるヨハネをみごもったとき,次のように言ったのです。「このごろ主は私のために働いておられ,人々の間で私の恥をすすぐことをよしと見られました」― ルカ 1:25,新アメリカ聖書。

したがって,処女のままでいるつもりでマリアがヨセフと婚約していたとすれば,マリアは自分の恥をさらすことになったでしょう。ヨセフは自分の妻がうまずめの非難を受ける結果を招くような約束ごとにどうして同意し得たでしょうか。また自分の名を伝える相続人をもうける機会があるのにそれをわざと放棄する理由があるでしょうか。ヨセフとマリアがよく知っていたヘブライ語聖書は,そのようなことを少しも勧めていませんでした。ヘブライ語聖書は,親となるのを望ましいことと述べています。例えば詩篇 127篇3節に次のように記されています。「息子らは主の賜物である。胎の実は報いである」。(新アメリカ聖書)男あるいは女が童貞また処女のままでいるとすれば,イスラエル人に知られていた唯一の道は独身で通すことでした。―エレミヤ 16:1-4と比べてください。

何年ものちにイエス・キリストと使徒パウロは,霊的な事柄にいっそう専心することを求める人々に対し,まさった道として自発的な独身を勧めました。(マタイ 19:12。コリント第一 7:28-38)しかし聖書のどこにも禁欲結婚は勧められていません。またそれに特別な神聖さが帰せられているわけでもありません。事実はその正反対です。霊感を受けた使徒パウロは,既婚者に対してこう述べました,「夫は妻に対して夫婦の務めを果たし,妻は夫に対して同様にすべきです」― コリント第一 7:3,新アメリカ聖書。

ゆえにマリアとヨセフが禁欲結婚の生活にはいることを意図していたとすれば,聖書的な先例のない事柄をしようとしていたことになります。それのみならず,結婚に関する神の目的に反する行動をとっていたことになるでしょう。したがって二人は禁欲結婚をして生活をともにする考えは毛頭なく,また結婚生活の全期間を通して禁欲生活をしたわけではないと結論するほうが,はるかに理にかなっているではありませんか。

もちろん,イエスが誕生するまでヨセフは妻と性関係を持ちませんでした。マタイによる福音書 1章25節を新アメリカ聖書によって見ると,次のように記されています。「彼は,彼女が男の子を生むまでは,彼女といっさい関係を持たなかった。そして彼は男の子をイエスと名付けた」。エルサレム聖書の脚注に指摘されているとおり,直訳では「彼は彼女の出産の日までは彼女を知らなかった」という言い方になります。これはヨセフがそれ以後も妻と関係を持たなかったという意味に理解すべきものでしょうか。それとも,イエスの誕生後,ヨセフがマリアと関係を持ったという可能性のみならず,実際には恐らく関係を持ったことをむしろ認めさせるものではありませんか。

もしイエスに兄弟,姉妹があったことを聖書的に確証できるならば,マリアがずっと処女であったかどうかという疑問はすべて氷解するでしょう。確かに,イエスの故郷の町ナザレの住民は事実を知っていたに違いありません。彼らは何と言いましたか。マルコによる福音書 6章2,3節には,彼らがイエスについて驚嘆し,次のように言ったことが記されています。「これは大工で,マリアの息子,ヤコブとヨセそしてユダとシモンの兄弟ではないか。彼の姉妹たちはここに居てわれわれの隣人ではないか」― 新アメリカ聖書。

これらのことばは,初めギリシャ語で記録されました。それで起こる問題は,ギリシャ語を話す人々が,ここで「兄弟」および「姉妹たち」と訳されている原語のことばをどのように理解したであろうかということです。新カトリック百科事典(第9巻337ページ)は次のことを認めています。「イエスとこれらの縁者との関係を示すために使われている……ギリシャ語は,福音書の時代のギリシャ語の世界において,肉身の兄弟,姉妹を意味した。そしてギリシャ語の読者によって当然にこの意味に解されたであろう」。

結婚に関して聖書に述べられていることに照らしてみるとき,イエスの兄弟,姉妹は単に親類,恐らくはいとこであったと主張するよりも,「兄弟」「姉妹」という用語を普通の意味にとるべきではないでしょうか。この普通の意味を受け入れるならば,マリアは神の謙そんなしもべとして,結婚に関する神の目的と一致した生涯を送ったことを,わたしたちは認識するようになります。

結婚における性関係についての曲がった考えは,聖書的な物事の見方によって消し去られます。正しい性関係はそれ自体汚れたものではありません。神のことばの精神に反しているのは,結婚配偶者同士の性関係ではなくて禁欲結婚のほうです。それでマリアがいつまでも処女であったという教えは,不自然な禁欲結婚が“神聖”であるとの印象を与え,結婚に関する神の目的を誤り伝えるものです。マリアは,神のみ子を人間として生むという,たぐいのない恵みを与えられたことにより,女の中の祝福された者となりました。彼女が他の子供たちの母になったからといって,その誉れはいささかも減ずるものではありません。

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