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  • 良いたよりに従うことは命の道
    ものみの塔 1978 | 1月15日
    • がされたと同じように考え,感じそして行動することです。それには,イエスが神のお定めになった事柄をすべて成就されたように,あらゆる面で「真理」に従うことが要求されます。次の記事では,その「道」が要求する他の事柄を幾つか検討してみましょう。

  • 命の道 ― 狭くても自由な道
    ものみの塔 1978 | 1月15日
    • 命の道 ― 狭くても自由な道

      1 マタイ 7章14節では,「狭い」という語にどんな意味がありますか。

      イエス・キリストは言われました。『命に至る門は狭く,その道はせばめられている』。(マタイ 7:14)イエスの言葉を伝えるにあたってマタイが用いたギリシャ語は,「マタイ 7章13,14節では,とこしえの命に入ることを可能にする門としてひゆ的に用いられています。その門が狭いのは,それが自然の傾向に逆行するものであるからです」― W・E・バイン編「新約聖書用語解説辞典」。

      2 「この道」の『狭さ』は,真の自由を制限するものでないことについて述べなさい。

      2 したがって「この道」の『狭さ』は,狭量であるとか,過度に謹厳な道であるということではありません。僧院におけるように,世を離れて暮らすことでもありません。それは,放縦でない,目標がある,動揺しない,という意味での『狭さ』です。その道は,人に有害な事柄をさせないよう禁止するので「狭い」のです。真の自由というものは,人がしたい放題のことをするための許可証ではありません。なぜなら,そういう行動は他の人々の自由を侵害するからです。また紛争や憎しみ,はては殺人行為まで引き起こすに至り,自由はすぐになくなってしまうでしょう。例えば,この世の政府の法律が全く守られないとしたら,その結果は無政府状態となり,だれも真の自由と幸福を持たないひどい事態になるでしょう。

      3 クリスチャンの歩む道が「努力」の道であるのはなぜですか。

      3 クリスチャンにも,ほかの人たちと同じように,不完全な点や弱点がたくさんあります。それらを改めようとするときに,クリスチャンは肉の不完全さゆえに惨めな思いをします。というのはその不完全さと闘わねばならないからです。(ローマ 7:24)ルカ 13章24節でイエスは,「狭い戸口を通ってはいるため,精力的にa努力しなさい」と言われました。狭い戸口を通るには,ちょうどオリンピック競技に出場する走者が昔からしてきたような努力が必要です。それは,命への「道」そのものがいやなもの,あるいはなんらかの意味で反対すべきものであるからではなく,この世やわたしたち自身の不完全な性格が圧力をかけて妨害するからです。「この道」の標準は高いところにあります。しかしそれに到達すれば,最大の満足と,喜びと,自由が得られます。

      4 参照聖句が示しているとおり,真のクリスチャンはなぜ信頼できますか。

      4 正直さは,「この道」が要求するものの一つで,「この道」を狭くするものです。仲間の人間を信頼できない世界の中で,人はどんな真の安心感や幸福感を持つことができるでしょうか。ですからクリスチャンは,言葉においてのみならず行動においても,正直を道とします。(ヨハネ第一 3:18)真のクリスチャンは,盗むことも搾取することもしません。事業を行なうにあたっては,袖の下を取るとか,ぴんはねをするとか,問題を偽り伝えるなど,陰険な,法に反するやり方で経費を節約するようなことをしません。ひそかに取引したり,特別の愛顧や特権を得るためにわいろを使ったりするようなこともしません。(出エジプト 23:8。詩 26:9,10)拾得物でさえ,持ち主がどこにいようと,返すことが可能ならば,報酬を要求したり望んだりすることなくそれを返します。―申命 22:1-3。

      5 クリスチャンはこの世にあって正直に行動することができますか。

      5 しかしクリスチャンは,不正直な考え方,すなわち利己主義に基づいて運営される世界体制の中で,首尾一貫してこの道を歩むことができるでしょうか。真のキリスト教を実践する人々はいくらかの苦難を経験してきました。雇用者のために不正直なことをするのを拒否して職を失ったこともありました。しかし大抵の場合雇用者は,彼らが給料に値するだけの良い働きをするので,彼らを尊敬し,より重い責任を持たせることが少なくありません。クリスチャンたちは,頼りになる人,良心的で信頼できる人,ほかの人たちと仲良くやってゆける人であることが認められています。正直を通すには勇気がいります。しかしクリスチャンは聖書の助言や,ヘブライ 13章5,6節の神の約束に頼れます。「あなたがたの生活態度は金銭に対する愛のないものとしなさい。そして,今あるもので満足しなさい。『わたしは決してあなたを離れず,決してあなたを見捨てない』と言っておられるからです。こうして,わたしたちは大いに勇気を持って,『エホバはわたしの助け主,わたしは恐れない。人はわたしに何をできようか』と言います」。

      命の道に欠くことのできない品行方正

      6 (イ)「新しい道徳」はどんな実を結んでいますか。(ロ)使徒パウロは不品行とその実についてどのように述べていますか。

      6 聖書を読む人ならだれでも,品行方正と道徳的清さが,クリスチャンの歩む命の道に絶対必要であることを知っています。しかし,今日多くの人々は,その見方は時代遅れであると言い,締りのない,何事も大目に見る「新しい道徳」が,より豊かな生活へと人々を解放しつつある,と言います。それは事実でしょうか。今日の状態をご覧なさい。「新しい道徳」はどんな実を結んでいますか。心痛,家族の崩壊,病気,死です。だれの場合でも,もし不品行がその暮らし方の中に入り込むなら,その人の幸福は損なわれずにはすみません。使徒パウロは,不品行の及ぼす影響について述べていますが,今日の状態は彼が言ったことの真実さを証明する紛れもない証拠です。パウロは,何事も大目に見る行き方に従ったある人々について次のように書いています。

      「彼らは,神を知りながらそれを神としてたたえず,また感謝せず,その推論するところにおいて無能な者となり,その悟りの悪い心は暗くなったのです。自分は賢いと唱えながら,彼らは愚かとなり(ました。)……そのため神は,彼らをその心の欲望に合わせて汚れに渡し,彼らの体が自らの間で辱しめられるようにされました。実にそれは,神の真理を偽りと換え,創造したかたより創造物をあがめ

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