人を気落ちさせる圧力を克服する
あなたは落胆した経験をお持ちですか。それは決して珍しいことではありません。他の多くの人もやはりいろいろな面で気落ちさせられるような圧力を時に感ずるものです。そうした失意は目新しいことではありません。
あなたは何か努力する価値のある事柄,たとえば別の国のことばの勉強をしておられるかもしれません。あるいは,クリスチャン宣教に携わって,より良い新しい生き方を始めたかたもあるでしょう。どんなことがあっても続けようと最初は考えたものの,やがて何事かが起きました。気落ちさせるような圧力がどこからか働いてきます。
もとより問題が自分自身にある場合もあります。また病気になったり,肉体的また精神的にひどく疲れたりすることもあるでしょう。そのような場合,人は容易に気落ちします。一方,健康な,そして疲れていない人は問題を楽観的に考えることができます。
人を気落ちさせるような圧力は自分の内部でも感ずるものですが,それには外的な要素の関係しているのが普通です。個人的な試練に会ったり,何かのことで自責の念や,ひどい失意を感ずる場合はそうです。気落ちすると,一時的ではあっても,楽観的な見方,勇気,また希望を失い,“しょげて”しまいます。どうすれば人を気落ちさせるこうした圧力を克服できますか。
職場の同僚,親族,以前の友人からの圧力
よくあるそうした圧力の一つに,自分の宗教に関して職場の同僚から侮べつ的なことばを絶えず聞かされることがあげられます。どうしてそのようなことばが口にされるのですか。神の定められた正しい原則を知るまでは,自分も同僚とともに「好色,欲情,酩酊,宴楽,暴飲,律法にかなはぬ偶像崇拝」を行なっていたかもしれません。したがってその時は宗教のことで同僚から嘲笑されるわけがありません。ところが今,「彼らは汝らのおのれとともに放蕩の極に走らぬを怪しみてそしる」のです。(ペテロ前 4:3,4)そうした侮べつ的なことばをきっかけにして,クリスチャンとしての自分の行動につき同僚に弁明できるなら,それはよいことです。しかし時にはそうしたことばを気にかけずに過ごさねばなりません。いずれにしてもこの種の圧力にいつも直面するには勇気がいります。
克服しなければならない別の圧力があります。それは,自分の宗教のこと,またエホバに仕える努力が自分の家族の者からさげすまれる場合です。あるいは自分の信仰が他の親族から非難される場合もあります。これは神とキリストに対する自分の献身のきびしい試練となるでしょう。イエスは警告されました。「それ我がきたれるは人をその父より,娘をその母より,嫁をそのしうとめよりわかたんためなり。人の仇はその家の者なるべし」― マタイ 10:35,36。
もしこのことがあなたの家庭で起きているのであれば,あなたは自分の生活を左右するより強いきずなが何であるかを示す試練の下にあります。それは親族に対するあなたの愛ですか。それとも神とキリストに対する愛ですか。こうした圧力に屈することは,あなたにも,あなたのご家族にも益になりません。むしろ,エホバのしもべとしてあなたが家族に与え得る良い感化が失われる結果になるでしょう。(コリント前 7:16)しかしこのようなむずかしい事情の下でも,神の霊によって結ぶ実を表わし,「汝らは忍耐によりてその霊魂を得べし」と弟子たちに語られたイエスのことばを思い起こすことによって,圧力を克服できるでしょう。―ルカ 21:19。詩 27:10。マルコ 10:29,30。
あなたは最近,御国会館の集会でエホバの証人と交わりはじめましたか。では,あなたの新しい仲間のことで親族や以前の友人が加える侮べつ的なことばを聞いても驚かないようにし,またそれに耐えられるように備えてください。たとえそれらの人が驚いて,「そんなばかな! エホバの証人と交わるなんて! それだけはやめてくれないか」と反対したところで気落ちしてはなりません。こうしたことばに驚く必要がありますか。19世紀前,人々はイエスに聞き従った者たちを同じような仕方で気落ちさせようとしたではありませんか。彼らは言いました。「なんぢらも惑はされしか,司たちまたはパリサイ人のうちに一人だに〔重要な人物でだれか〕彼を信ぜし者ありや」。それで勇気を出してください。ニコデモのように大胆に語ってください。―ヨハネ 7:47-51。コリント前 1:26-29。
無関心
戸別訪問の宣教の際に無関心な人々に接することも,クリスチャン奉仕者を気落ちさせる圧力になります。場所によっては,何時間戸別訪問をしても耳を傾ける人はほとんどなく,たいていは無関心な人で,ある戸口ではほんの少し話せるにすぎず,別の家では侮辱されるかもしれません。では,その奉仕者の宣教はむなしいものですか。いいえ,彼は創造者の命令に従って伝道し,創造者を喜ばせているのです。また,人々が受け入れようが受け入れまいが,話を行なっており,耳を傾ける人々の救いのために働いています。ある人々は耳を傾けます。そのうえ,彼は自分自身の救いを確かなものにしているのです。それは決してむなしい宣教ではありません。―マタイ 24:14。エゼキエル 2:5。テモテ前 4:16。
すべての人がイエスのことばに耳を傾けたのではありません。その郷里の人々はイエスを受け入れませんでした。イエスよりも偉大なクリスチャン奉仕者はいません。したがって,人々から神の御子と同じようにあしらわれたからといって気落ちする必要はありません。(マタイ 10:24,25)ノアが40年ないし50年間伝道したのちに箱船にはいったのはその家族の者だけでした。モーセがパロのもとに何度も行ったのは,パロが真の崇拝に加わるのではなかろうかと考えたからではなく,エホバに従ったためでした。エレミヤは,「あなたの伝道の任命地として,働きやすい区域をあげましょう」とエホバから言われたのではありません。むしろ,「あなたが伝道すれば,人々は必ずあなたに敵対するでしょう」と言われたのです。ですから気落ちしないでください。もしエホバにより頼むなら,エホバはエレミヤとともにおられたように,あなたとともにいてくださるでしょう。―エレミヤ 1:19。
話をする能力
話をする能力の点でよりすぐれた人と自分の能力とを比較して落胆する場合もあります。また,あるクリスチャン奉仕者は高い教育を受けた人々に伝道するほどの資格が自分にはないと感ずるかもしれません。しかし,話をする能力はどんなに乏しくても,ある意味で,家の人の話す能力よりすぐれていることを忘れてはなりません。なぜなら,人々はこの時代に関する創造者のお目的を何一つ話せないからです。
まだ最近のことですが,読み書きを学んでまもない台湾(中華民国)の,ある老齢のクリスチャン奉仕者は戸別訪問の宣教の際,ある基本的な教理に関する質問を受けましたが,答えることができなかったため,たいへん落胆しました。彼はどのようにしてその失意を克服しましたか。もっと徹底的に勉強し,かつアミ語の聖書研究用の手引きを用いる教え方を家で練習するようにと勧めた親切な仲間のクリスチャンの提案に従ったのです。その後しばらくして彼はたいへん励みになる楽しい経験をしました。同じアミ族出身の一神学生に会いましたが,その学生が三位一体の教理を問題にしたのです。しかし今度は,この問題その他,教理上の問題に対する反論を克服する仕方を家族に教え,それによって自分も学んでいたこの奉仕者は,その知識を活用できました。
多くの人は最初興味を示しますが,のちにやめてゆくということを,前もって知っておくのは賢明です。マタイ伝 13章3-9節のイエスのたとえにも予告されているとおり,すべての種が成長し,成熟して実を結ぶようになるわけではありません。ある人は迫害が来ると直ちにやめてしまい,ある者は神の真理を受け入れるまでに成長しますが,親族や仲間など,人を恐れてやめてしまいます。快楽や物質の追求に“忙しすぎて”信仰がふさがれてしまう人もいます。エホバの奉仕者は落胆してはなりません。彼らも神のみことばを聞きました。ですから,もし「これを守り,忍びて実を結ぶ」ならば,エホバの祝福の下にとどまれるのです。―ルカ 8:15。
あなたは他の人を気落ちさせますか
愛する人々,また自分たちのクリスチャン兄弟が気落ちしたときにどう慰めるかを知っている真のクリスチャンは,人を気落ちさせるようなことは言わないように,また,しないように心がけます。ほめられるのが当然な時にほめことばを受けないと,人はつらい気持ちになり,失意に陥ることがあります。たとえば食事に招かれた人が,招待してくれた友人に,「奥さんは料理がお上手ですね」とほめたところ,友人は,「そうです。しかしわたしは家内をほめるつもりはありません」と応じました。これを聞いた客は,その家庭の人間関係が,感謝の気持ちで互いに相手をほめる暖いものでないことを知りました。―箴言 31:28。
夫や子供も当然なほめことばを受けるなら,喜びを感じます。それは生活という機械を円滑に働かせる油のようなものです。幼い娘をしばしばたしなめなければならなかったある母親の話ですが,ある日,その娘はとても行儀が良かったそうです。ところがその夜のこと,母親は娘が泣いているのに気づきました。するとその幼い娘は泣きながら,「おかあさん,今日わたしとても良い子じゃなかった?」 娘のこのことばに母親は胸のさされる思いをしたとのことです。娘は親の言いつけをよく守ったにもかかわらず,母親はひとこともほめずにその子を寝かせたのです。そのために幼い娘は失望しました。
悪意はないまでも,誤った考えを持つ友人もしくはクリスチャン兄弟も,人を気落ちさせることがあります。イエスが,神への奉仕において受けねばならない苦難について弟子たちに話した時,実直な「ペテロはイエスをわきへ引き寄せて,いさめはじめ」ました。しかしイエスはこの圧力に屈せず,かえって,感情的なペテロをきびしく戒められました。―マタイ 16:21-23,口語。
最近,アフリカのある国でのこと,地域の監督として旅行し,各地のクリスチャン会衆を訪問する,経験に富む円熟した宣教者がひとり必要になりました。そして,資格を備えたひとりの奉仕者が,その任命を受けようか,どうしようかと真剣に思いめぐらしていました。その仕事はかなりの危険,困難また試練を伴うものでした。同僚の中にはそうした困難を強調し,気落ちさせるような影響を与える者もいました。彼はその奉仕の特権を受け入れましたか。それとも,「神のことを思はず,かへつて人のことを思ふ」同僚の影響を受けましたか。祈りのうちに問題を考慮し,その奉仕の任命を受けた彼は今,この奉仕の分野で数々の祝福と喜びを味わっています。
もしあなたが今,同様な事情の下にいるなら,自分に対するエホバの御心が何かをさとり,気落ちさせようとする人々に対し,使徒パウロが述べた次のことばのように答えてください。「なんぢらなんぞ歎きて我が心をくじくか,我エルサレムにて,主イエスの名のために,ただに縛らるるのみかは,死ぬることをも覚悟せり」― 使行 21:12-14。
ですから,人を気落ちさせるような影響をおよぼす人になってはなりません。「兄弟よ,汝らに勧む,みだりなる者を訓戒し,落胆せし者をはげまし,弱き者をたすけ,すべての人に対して寛容なれ」とあるとおりです。―テサロニケ前 5:14。
あなたもその圧力を克服できる
人を気落ちさせる圧力をあなたは克服できます。イエス・キリストはそれを克服されました。「汝らはこれがために召されたり,キリストも汝らのために苦難をうけ,汝らをその足跡にしたがはしめんとて模範をのこし給へるなり。彼は罪を犯さず,その口に虚偽なく,またののしられてののしらず,苦しめられて脅かさず,正しくさばきたまふ者におのれをゆだね」られたのです。―ペテロ前 2:21-23。
そうです,あなたはその圧力を克服できます。エレミヤは克服しました。どのように? 祈りを通して自分の考えを絶えずエホバに向け,エホバへの奉仕にいよいよ熱心に携わるよう自らを奮い立たせることによってです。―エレミヤ 20:11,13。
あなたはパウロが行なったように,そうした圧力を克服できます。パウロは,「四方から患難を受けても……途方にくれても……迫害に会っても……倒されても……絶えず死に渡され」,また「さまざまの患難に会(っても)」,「うちしおれている者を慰める神」により頼みました。(コリント後 4:8-11; 7:5,6,口語)これら,そして他の忠実な模範を見て,正しい道を進む勇気を得てください。
職場の同僚や親族,また友人が反対し続け,あるいは無関心のままでいるならどうしますか。イエスが予告された次のことを心にとめてください。「われ汝らに告ぐ,その夜ふたりの男,一つ寝台にをらんに,一人は取られ,一人はのこされん。二人の女ともに臼ひきをらんに,一人は取られ,一人はのこされん」。(ルカ 17:34,35)あなたは神に取り「のこされる」人になりたいとは望まれないでしょう! むしろ「取られる」人,すなわち神との恵まれた立場に迎えられ,救いの道に入れられる人になりたいと願われることでしょう。
では,正しい見方を保ってください。そうすれば,困難な事情の下でも耐えることができます。信仰の仲間と交わり,また,クリスチャン会衆の集会に出席して互いに励みを与えて喜びを得てください。すぐれた報告や経験を聞いて励みを得ましょう。聖書を読んでください。そうすれば「激励のことば」をそこに見いだせるでしょう。(ヘブル 13:22,新)霊の糧を少しもとらずに一日を過ごすことが決してないようにしてください。(ヨシュア 1:8)すべての慰めの神エホバに頼り,エホバに助けを求めてください。人に与えることにより,より大きな喜びを得ましょう。あきらめてはなりません。意を決して,人を気落ちさせる圧力を克服してください。エホバの助けがあれば,あなたはそうした圧力を克服できます。また今後も克服してゆけるでしょう。