-
復活による将来の命ものみの塔 1978 | 12月1日
-
-
ために死の宣告から解かれて霊的に生かされた人々は,キリストの会衆の体の成員とされました。また彼らは,「聖なる神殿」の場合のように,神がその聖霊によって住むことができる「神殿」級に組織されました。(エフェソス 1:22,23; 2:20-22)彼らはキリストの「体」ですから,特に強く『キリスト・イエスと結びついて』います。彼らはイエスと結びついたままでいる必要があります。―ヨハネ 15:4。
15 父が「ご自身のうちに命を」持つということについて,どんな質問が生じますか。
15 この人々に,イエスの次の言葉は当てはまるのです。「父が死人をよみがえらせて生かされるのと同じように,子もまた自分の欲する者を生かすからです」。(ヨハネ 5:21)これは,み子もまた他の人々に命を与える力をお持ちである,という意味です。イエスはその理由を説明してこう言われました。「父は,ご自身のうちに命を持っておられると同じように,子にもまた,自らのうちに命を持つことをお許しになったからです」。(ヨハネ 5:26)父が「ご自身のうちに命を」持っておられるとは,実際にどういう意味なのでしょうか。単に,唯一の「生けるまことの神」として生きておられるというだけのことでしょうか。(テサロニケ第一 1:9)神の命は他の何にも依存していない,つまり神には本来命が備わっているという意味でしょうか。言い換えれば,不滅性を持っておられるということですか。アメリカ訳はこのことをそのように解釈しています。というのは,ヨハネ 5章26節を次のように訳しているからです。「父が自存されるのとちょうど同じように,子にも自存することを得させられたからです」。フェラー・フェントン訳の現代英語聖書もこの線に沿って,エホバという名を「常に生きている」という意味に解釈しています。ですからイザヤ 42章8節を,「わたしは常に生きている者である。それがわたしの名だからである」と訳しています。エホバは「自存者」と呼ばれてきました。
16 もし『ご自身のうちの命』を神のみ子に与えることが,単に完全な命を子に与えることにすぎないなら,み子はこの点で顕著な存在とは言えませんが,それはなぜですか。
16 しかし,至近の文脈の中の論議の仕方によると,「ご自身のうちに命を」という表現には,自存よりももっと強力な意味があります。その表現の意味は,天の父はご自身のうちに命を貯蔵するものを持っておられ,そのために,父親のように命を他の人々に分け与えることができるということです。この事実を考えると,父はそのみ子に,やはり他の人々に分け与え得る量の命をお与えになることができたわけです。父が「自らのうちに命を」持つ能力をみ子に与えることは,単にみ子に完全な命を与えるという意味にすぎないとすれば,み子は顕著な存在ではないでしょう。なぜでしょうか。なぜなら神は天のみ使いたちにも完全な命をお与えになったからです。そればかりではありません。神はエデンの園で,アダムとエバにも完全な命をお与えになりました。それにしても,神のみ子はなぜ「自らのうちに命」を与えられたのでしょうか。
17 『ご自身のうちの命』がみ子に与えられたのはなぜですか。ヨハネ 17章1,2節のみ子の祈りは,このこととどのように一致していますか。
17 それは神のみ子が,全人類のための贖いの犠牲として,ご自分の完全な人間の命を捨てられたからです。(マタイ 20:28。テモテ第一 2:5,6)この方法でイエスは,受け継いだ不完全さゆえの死刑の宣告から人類を買い戻すことができました。この考えを念頭においておられたので,イエスは過ぎ越しの夜,次のような言葉で祈りを始めることができました。「父よ,時は来ました。あなたの子に栄光をお与えください。子があなたの栄光をあらわすためです。それは,あなたがすべての肉なるものに対する権威を子に与え,そのお与えになった者すべてについて,子がその者たちに永遠の命を与えるようにされたことに応じてです」― ヨハネ 17:1,2。
18 R・A・ノックスの訳したヨハネ 5章26節は,その真理をどのように明示していますか。イエスは命を分け与える権限と力をいつ与えられましたか。
18 ロナルド・A・ノックス訳,「われらの主および救い主なるイエス・キリストの新約聖書」は,この真理をとらえ,ヨハネ 5章26節の翻訳にそれを明示しています。その部分は次のようになっています。「父は,ご自分がそのうちに命の賜物をもっておられるように,み子もそのうちに命の賜物をもつようにされた」。a イエス・キリストは,犠牲の死を遂げ,復活し,そしてその完全な人間の命の価値を天の父にささげたあと,その益を必要としている者たち,すなわち有罪宣告の下にあって死にゆく全人類に,それを分け与える権限と力を得ることができました。ですからローマ 6章23節に,『罪の報いは死ですが,神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命です』と書かれています。
19 神が人類を裁くにあたってイエス・キリストをお用いになるのは,なぜ正当と言えますか。
19 「人の子」イエスは,血肉の人間でしたから,アダムがエデンで意識的に罪を犯したためにその子孫すべてが失ったものと,全く同等の価値のものを神にささげることができました。(ヘブライ 2:9,14,15。ヨハネ 1:14)エホバ神は,有罪宣告の下にある死にゆく人類に命を与えるに際してイエスをお用いになるのですから,贖われた人類を裁くにあたってエホバが「人の子」イエス・キリストをお用いになるのは当然です。
20 ヨハネ 5章26,27節で,イエスは裁きを行なう権威に関し,どのように言われましたか。そしてパウロは,マースの丘で行なった話の中で,このことをどのように確証しましたか。
20 この事実と一致して,イエスはさらにこう言われます。「父は……子にもまた,自らのうちに命を持つことをお許しになったからです。そして,裁きを行なう権威を彼にお与えになりました。彼が,人の子であるからです」。(ヨハネ 5:26,27)今栄光を受けておられるイエス・キリストは,かつてはご自分も人として,腐敗した世の事物の体制のただ中におられたのですから,ご自分が死から買い戻した者たちに対し,あわれみ深くて公正な審判者になることができます。使徒パウロは,マースの丘で,並いる裁判官の中に立ち,次のように述べて,この事実を,古代ギリシャのアテネにあった最高司法機関に明示しました。「[彼らに知られていない神]は,ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになったからです」― 使徒 17:23,31。
-
-
命の復活と裁きの復活ものみの塔 1978 | 12月1日
-
-
命の復活と裁きの復活
1,2 裁きをする権威を与えられた,というイエスの宣言は,あまりにも不思議で信じられない,というようなものではありません。それはなぜですか。
神のみ子は,神の「定め」の日に,「命の賜物」をお用いになります。(ヨハネ 5:26,ノックス訳)み子の贖いの犠牲の益が適用される,死んでいる人間を復活させます。その「日」は裁きの日ですが,24時間の長さではありません。それはキリストの統治するときとして定められている1,000年の期間です。(啓示 20:4-6)裁きの進行は,ある人々には命をもたらし,他の人々には滅びの有罪宣告をもたらす結果となるでしょう。多くの誤審や,また神の裁きの日とは何かについて宗教上の間違った解釈が多い今日,このことは不思議に思えるでしょうか。イエスの時代の,安息日を守るユダヤ人には,不思議なことに聞こえました。
2 したがってイエスは彼らにこう言われました。「このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て
-