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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1961
塔61 5/1 280–283ページ

クリスチャンは傍観者か参加者か

隊長だけが戦って隊員が戦わないならその軍隊は勝利を収めることができるでしょうか。陸上競技でキャプテンだけが走ってもチームの者が走ろうとしないなら,勝利を得ることができますか。

戦うのを拒絶した軍隊は反逆罪に問われます。戦時中なら死刑になるでしょう。走ろうとしなかったチームのばあいなら,解散させられ競技をしたいと熱心に望んでいる者がチームにいれられるでしょう。

クリスチャンは兵隊とか走者にたとえられています。「キリスト・イエスの良い兵卒として,わたしと苦しみを共にしてほしい。兵役に服している者は,日常生活の事に煩わされてはいない。ただ,兵を募った司令官を喜ばせようと努める。また,競技をするにしても,規定に従って競技をしなければ,栄冠は得られない」。(テモテ後 2:3-5,新口)「わたしたちの参加すべき競走を,耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり,またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ,走ろうではないか」。―ヘブル 12:1,2,新口。

牧師だけにあてはまるか

以上の聖句は牧師や司祭だけが参加すべきだという意味ですか。生命を得るための競争に参加する者は彼らだけですか。そうではありません。永遠の生命を得ようとする者はすべて,参加しなければなりません。賞を得ようと欲する者はすべて加わらねばなりません。加わることはぜひとも必要ですが,規則を守ることも同様に大切です。軍隊が戦ったとしても,武装が貧弱だったりよく訓練されてないなら,負けてしまいます。走者が走ったとしても,練習しなかったため規則通りに走らないなら,賞を受けるということはありません。コリント前書 9章24節でパウロはこう述べています,「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は,みな走りはするが,賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも,賞を得るように走りなさい」。それでクリスチャンは規則を破らず勝利を得るために,最善をつくさねばなりません。

クリスチャンは兵隊ですか。走者ですか。参加者ですか。そうです。傍観者あるいは見物人ですか。そうではありません。生命を得るための競争をほかの者がするのをただ見ていなさいとはクリスチャン・ギリシャ語聖書の中のどこも書いてありません。話すことはすべてだれかほかの人にまかせて,クリスチャンはただ聞くようにとはどこにも言われていません。ある辞典は「クリスチャン」をこう定義しています,「キリストの信者。キリストの模範あるいは教えに従う人。キリストによって設立された宗教の成員」。簡単に言うならクリスチャンはキリストのようでなくてはなりません。キリストのようであるとはどういうことですか。使徒や弟子たちあるいは初期のクリスチャンたちは,どのようでしたか。彼らは傍観者でしたか,それとも実際に参加しましたか。使徒パウロは述べました,「わたしたちは,全世界に,天使にも人々にも見せ物にされたのだ」。初期クリスチャンは登場人物として劇を演じ,非クリスチャンは観客席からだまって見ていたのです。―コリント前 4:9,新口。

クリスチャンはキリストを愛します。この愛は何を伴いますか。イエスは言いました,「もしだれでもわたしを愛するならば,わたしの言葉を守るであろう……わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は,わたしの言葉ではなく,わたしをつかわされた父の言葉である」。(ヨハネ 14:23,24,新口)愛は行為となって表われてきます。イエスは弟子たちが御自分の御父の言葉を守るようにとすすめました。神の要求に従うことは救いにぜひとも必要です。神とキリストに対する愛があるなら,その2人の命令をおのずと守るようになります。

どの命令ですか。教会にいっている者はこの命令というのが,道徳,親切,清潔な言葉,正直,などにかんすることだと思っています。これらも重要なのですがそれ以上のことが必要なのです。つまりイエスの模範に従い神の奉仕者にならねばなりません。

イエスがこの地を歩かれた時,人々に神の道を教えました。その上,イエスは彼の言葉を聞く者も彼と同じ教えるわざにあずかれるように訓練しました。イエスが他の者たちを任命していることに注意して下さい,「イエスはこの十二人をつかわすに当り,彼らに命じて言われた『……行って「天国が近づいた」と宣べ伝えよ』」。彼の死と復活の後には,もっと広範囲の伝道が行なわれるでしょう。彼は墓からもどった時こう言いました。「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子として,……あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」。(マタイ 10:5,7; 28:19,20,新口)弟子はその師のしたことをします。伝道された者は伝道者になりました。弟子たちは傍観者でなく,参加者でした!

伝道せよというこの指示に従うためにどのような方法がとられましたか。人々を集めて伝道者や奉仕者の話を聞かせるために,建物が使われましたか。たしかにこれは助けになりますが,宣教を全うするための,第一の方法ではありません。どのようにすべきかをイエスは示しました,「どの町,どの村にはいっても,その中でだれがふさわしい人か,たずね出し……その家にはいったら,平安を祈ってあげなさい。もし平安を受けるにふさわしい家であれば,あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう……もしあなたがたを迎えもせず,またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば,その家や町を立ち去る時に,足のちりを払い落しなさい」。(マタイ 10:11-14,新口)教える者は教えを乞うものが自分のところへくるようにと要求しませんでした。教師自身が聴衆のところに出かけて行ったのです! 使徒行伝 20章の20節で使徒パウロは言いました,「私は益となることなら何でもあなた方に語って,人中でも,家から家へ行ってもあなた方を教えるのをためらわなかった」。

家から家へ! これこそイエスが弟子たちに命じた第一の伝道方法です。

この指示が1900年前に出されたということは確かです。しかし古いからといって私たちの時代に適用しないわけではありません。特に今重要になってきているのです。イエスが特に指摘したごとく私たちの生活しているこの時代は,『末の世』です。つまりこの悪い世が神の新しい世にかわるのを見ることができる時代です。終りの時にみられる複合的なしるしの一部として,イエスは次の顕著な事がらを預言しました,「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」― マタイ 24:14,新口。

イエスは多くの伝道をしました。イエスの使徒や弟子たちは,一つの群れとしてさらに多くの伝道をしました。しかし歴史上最大の伝道活動と教育運動が今なされねばなりません! そうです,イエスは,全世界に伝道しなければならないと言われました。諸国民は,この組織に滅びがさし迫っているという警告を受け,また設立された神の御国についての元気づける良いおとずれを知る必要があります。

一部の者だけですか

だれがこれをしますか。クリスチャン ― すべてのクリスチャンです。これはあまり大規模すぎることで,すべてが伝道者や教える者になれなどとイエスが言ったことはないと思うかもしれません。自分と同じ宗派の者が家から家の伝道をしていないので,要求されていないのだと感ずるかもしれません。こう考える人がいるなら,有名な教会の指導者が言った次の言葉をきいて下さい。

カトリックの僧侶,ジョン・エー・オブライエンは1959年1月号の「拡張」の中でこう述べました,「イエスは『わたしにはまたこの檻のものでない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも,わたしの声に聞き従うであろう。そして,ついに一つの群れ,ひとりの羊飼となるであろう』と言った。これらの者たちはどのようにして真の檻に導かれるのか。家に坐って待っているのではなく,彼らのところに出かけて行くことによってである。これには皮靴をつけた使徒,戸口に立ってベルをならすこと,いんぎんに家庭訪問をすることが必要となってくる」。

カトリックによってこれがなされていますか。オブライエンは答えています,「3700万にのぼる我らの一般信徒が,上着を脱ぎ袖をまくり上げて自分たちの霊的な羊飼と共に働くなら,このことをすることができる」。これを始めるようにとすすめられている事実からみても,彼らが現にそれをやっていないということがわかります。ひとりの改宗者を得るのに250人のカトリック信者が必要だったということを述べてから,彼はこうつけ加えています,「245人は指先を動かそうともしなかったし,そのことを少しも考慮しなかった。これに比べてエホバの証者はだれでも信者を得るために1週間に数時間を費やしている」。彼があげた良い模範はだれですか。エホバの証者です!

別の牧師は教会の全国会議の席上でこう語りました,「証言することは基礎的なこととして認めねばならぬ。それは我々の信仰の基礎である」。英国のキャノン・ブリヤン・グリーンは1960年5月14日の「バーミンガム・ポスト」にこう書いています,「我々は費用のかさむ大規模な福音伝道運動のためあるいは中央組織のために金をつぎこみ,また建物を過度にかざりたてるためにも金を使う。このような金と精力は使徒のごとくに家から家へ行くように一般信徒を訓練するのに費やした方がよいのではないか。使徒のごとくと言った理由はパウロが使徒行伝で『人中でも,家から家へ行っても教えるのをためらわなかった』と言ったからである」。

キャノン・グリーンは,自分の教会の者がこの助言に従うと期待しているでしょうか。彼は次のようにいってなげいています,「これはたぶん良い思いつきだ。しかしこれを大いに必要としている場所,つまり世界中に,このわざを成功裡におしすすめていくための献身と忍耐がクリスチャンの教会の中にあるだろうか。……クリスチャンの教会の中に ― 教職者は別として ― キリストとその福音のためによろこんで犠牲になるような若者がいるだろうか」。明らかにこの宗教指導者は,一般信徒を動かして家から家の宣教を行なわせることができるようになるなどとは考えていません。しかし彼はひとつの例を取り出しています。彼はこう述べています,「エホバの証者がクリスチャン教会に教えていることは要するに,彼らが文書の力を信じ,家から家にそれを配布することが効果的だということだ。事実彼らはこの仕事に従事し,誠実にまた献身的にやっている。彼らはそれをつとめだと思っている……なぜなら神からの任命を受けたと信じているからである」。

1960年5月5日付のニュージャージー・パターソン・イブニング・ニュースは,この種の宣教に大きな宗派が賛成していることを指摘してこう言っています,「人々の口にのぼっているこの『平信徒の宣教』というのは一体どういうことか。新教あるいは旧教の文筆家たちが,最近この問題にかんして実に多くの本を書いているが,次の点で一致している……つまり,平信徒のひとりひとりはキリストの良いおとずれを,まだ聞いていない者あるいは理解してない者に伝えるように要求されている。福音を『生きとし生ける者』に伝えよという命令は,任命された教職者のみに向けられているのではない。それは全教会に課せられている任務である。しかも平信徒というのは教会の99パーセント以上をしめているのである」。

1959年10月20日号の「ルーテルのあかし」という雑誌は,すべての者が証言すべきだということを指摘して次のように言っています,「ルーテルは一般信徒をその低い地位からたかめ,クリスチャンのひとりひとりを『司祭』とした。この『司祭の』活動の中で一番重要なものは,生活,愛,そして唇によってキリストのためにあかしすることである。彼のものとなるためには,彼の証人となることである!……神のもとに各クリスチャンは,証言を行なうチームにはいるべきである。4世紀にはすでに,有名な神父,ジェロームはこう宣言している,『洗礼は平信徒の任命式を意味する』」。

これと同じ雑誌の中でひとりの神学校の教授は,この教会における一般信徒の活動が全く信じがたいものだということを示しています。すなわちハーマン・サッセ博士は「世界中のルーテル派の信者は,無関心になりルーテル派の教理を鳴りひびかせなかったために,はっきりした満足のゆく解答をすることができなかった……我々の教会は聖公会と全く同じことになってしまった。聖公会の教会は,新教の教会の世界でみられるように,何を一体信じているのかを言うことができなくなってしまった」と言っています。

バプテスト派の牧師でカナダのエル・ターは,参加しないことが重大な問題だということを示してこう述べました,「すべてのクリスチャンは,福音のためのわざに活発にあずかるべきである。今の時代は弟子を必要としている。それ以下のものはすべて偽善である」。彼は教会にかよう者が「自分たちは傍観者であり,参加しなくてもよいのだと考えている」ということを認めました。

どこに責任があるか

兵器の使用法も知らない軍隊が,進撃することができるでしょうか。走り方を知らない走者は競走に加わることができますか。何を証言してよいやらわからないクリスチャンは,どのようにして証言することができますか。キリスト教国には聖書の真理にかんする知識が驚くほど欠けているので,彼らには証言はできません。ミシガン州,ランシングの1960年5月11日号の「ステイト・ジャーナル」はこの点を指摘しています,「これはやさしい仕事ではない。アメリカの教会には宗教的無知が行きわたっている。それで一般信徒は,自分もはっきり理解していない信条の主唱者になるようなことは,なりたくてもなれない」。

正確な知識がこのように欠けていることは宗教指導者たちの責任です。彼らは聖書の真理を忠実に教えなかったのです。模範を示すために,家から家へ行く聖書的な方法を自分たちが取りいれなかったのです。隊長が戦争に参加するのをこばみ,キャプテンが自分のチームを助けなかったのと同じことです。その結果,牧師も,信徒も,そうです,隊長も,その隊員も,あるいはキャプテンも,走者たちも偉大な審判者エホバ神の前で失格してしまいました。イスラエルの国におきたことと同じことが,キリスト教国におきたのです,「神の国はあなたがたから取り上げられて,御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう」。―マタイ 21:43,新口。

神は,喜んで参加し,彼の証者となる者を用いるでしょう。今日,何十万というエホバの証者は家から家へ御国の良いたよりを伝えよというイエスの命令にこたえ応じています。エホバの証者だけがこの命令に忠実に従っています。ほかの宗教でも証言のわざをきわめて重要なものと認めていながら,実際にその通り行なっているものを迫害し反対するとは何とおかしなことでしょう!

永遠の生命はすばらしい賞です。傍観者はそれを得ることができませんが,実際に参加するものはそれを得ます。活動的でない傍観者にならず,神の是認と新しい世での生命を得るように参加する者となって下さい。

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