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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1958
塔58 8/1 287–292ページ

クリスチャンであることの意味

『キリストも,あなたがたのために苦しみを受け,御足の跡を踏み従うようにと,模範を残されたのである。』― ペテロ前 2:21,新口。

1 イエスは弟子たちにどんな命令を与えられましたか。そしてそれは守られて来ましたか。

『あなた方は,エルサレム,ユダヤ全地そしてサマリヤ,そして地のもつとも遠いところまでも私の証者となるであろう。』(使行 1:8,新世)これは,イエスが別離に際して,クリスチャンになる人々,彼に従う人々に与えた命令でした。彼の弟子たちはすでに,キリストと共に二,三年間,強力な公けの伝道活動に与つており,その命令が何を意味するかを知つていました。しかし,この明白なキリストの命令が聖書に記録されて後幾世紀もの間,キリスト教国の宗教界の誰が,この奉仕のために備え,主の従順な弟子であることを示したでしようか。ニューヨーク・タイムス(1957年3月18日付)は,ロバート・J・マッククッラケンの次の言葉を引用しました,『教会は,あいまいな教理に半信半疑な人々で満ちている。大多数の教会員に,何を信じているかを質問すると,あぶなげな,つたない二,三の文句をやつと口にするだろう。それは,彼らが言葉を知らないのではなくて,知的な理解を欠いているためである。』これらの人々は,証者となれという主なる神の御命令に従うことにより,自分たちがクリスチャンであると証明していますか。そうではありません! しかしキリスト教国が,彼らのまん中に,この叙述にふさわしい一つのグループが存在するという事実によく気づいている証拠に,マルカス・バッチは,「ザ・クリスチャン・センチュリー」誌に掲載されたヱホバの証者に関する記事の中でこう質問しています,『彼らをどのように扱おうか。われわれはどうすべきか。……答は一つあるだけである。ヱホバの証者は脅威ではないが,伝統的教会に「証言」を要求する今一度の挑戦である。』ヱホバの証者はなぜ自分たちがクリスチャンであるかを知つています。それは彼らがキリストのなしたように証言するからです。

2 ある人々はどのように宗教団体と交わるようになりましたか。

2 あなたはなぜ今の宗教組織に属していますか。よく調査し,聖書によつて確かめたうえ,それが正しいと知つているからそれにかたくついているのですか。(テサロニケ前 5:21)多くの人々は,教会員であつた両親に育てられました。そしてそういう方法で宗教グループにはいるようになりました。ある人々は,教会が一つしかない地域に住んでいるので,便宜上その教会に属します。また他の人々は,配偶者を喜ばせるためとか事業に関する理由で宗教を変えます。しかしこれらの方法のどれ一つとして,正しい宗教への安全な導きではありません。友人や親戚の人々は立派な人たちかも知れませんが,だからと言つてそれがその人たちの宗教を正しいものにはしません。両親は,子供たちを正しい崇拝に訓練してきたかも知れませんが,もしその子供たちが,神の御言葉を個人的に研究もせず,両親が示したクリスチャンの手本に習つた行いをしないならば,彼らはその宗教を自分のものとして心から受け入れたのではありません。そして名ばかりの交わりは,子供たちを神の賛美者とはしません。

3 すべての宗教が神に受けいれられるのではないと,何が示していますか。

3 人の宗教はその人の崇拝です。ヘブル語の宗教という言葉は『奉仕』を意味します。正しい宗教であるか否かは,奉仕を捧げる方法と誰にその奉仕を捧げるかによつて決まります。『神々といわれるものが,あるいは天に,あるいは地にある……そして,多くの神多くの主がある。』(コリント前 8:5,新口)一つの宗教組織に属し,その教えるところを実行するだけでは真の神を崇拝していることになりません。イスラエルが,ヱホバの認められない宗教的行為を採用しはじめた時,『彼らが犠牲をささぐる者は鬼にして神にあらず』と記録は述べています。(申命 32:16,17)クリスチャンの真の崇拝を除いた他のすべての崇拝に関して,使徒パウロはこのように断言しています,『人々が供える物は,悪霊ども,すなわち,神ならぬ者に供えるのである。わたしは,あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。』― コリント前 10:20,新口。

避けなければならないおとし穴

4 宗教が崇拝者を満足させても,それがその崇拝を正しいものであることを保証しないのはなぜですか。

4 真理を提供された人々が,それを拒絶して,『私は自分の宗教で満足しています』というのはいつものことです。しかし神は満足されていますか。第1世紀に行われた宗教に関してイエスは,『あなたがたは,自分たちの言伝えを守るために,よくも神のいましめを捨てたものだ』と言われました。(マルコ 7:9,新口)神はこのことを喜ばれるでしようか。パウロは次のように危険を警告しました,『あなたがたは,むなしいだましごとの哲学で,人のとりこにされないように,気をつけなさい。それはキリストに従わず,世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。』(コロサイ 2:8,新口)『あなたがたは自分の服従するその者の僕である。』(ロマ 6:16,新口)あなたは誰に服従しますか。あなたは自分の気にいつた宗教を選びますか。自分自身を喜ばせることがあなたの望みであれば,あなたは自分自身に奉仕し,あなた自身があなたの神になつたのです。あなたは,「神の如くになつて善悪を知るに至る」ことを求めた不従順なエバのようになつたのです。(創世 3:5)『わたしは……人の歡心を買おうと努めているのか。もし今なお人の(自分も含めて)歡心を買おうとしているとすれば,わたしはキリストの僕ではあるまい。』(ガラテヤ 1:10,新口)崇拝の方法は沢山ありますが,全能の神の御前に正しい方法は一つあるだけです。私たちが,『父である神の立場から見て』正しい崇拝を行うというのならば,私たちは,神の御心にかなつた人,自分自身や他の人々の歡心を買おうとせず,『汝はわが神なり,われに聖旨をおこなうことをおしえたまえ』とヱホバに言われた方と同じようにしなければなりません。(ヤコブ 1:27,新口。詩 143:10)神に専心の献身をなすことに喜びを見出す者に,ヱホバも喜びを見出されるでしよう。そして新しい世で,永遠の生命をもつて彼らを祝福されるでしよう。―ミカ 4:5。

5 「ただ主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば救われます」という人々は往々何を考慮しませんか。

5 ある人々は,パウロが獄史に,『主イエスを信じなさい。そうしたら,あなたもあなたの家族も救われます』と言つた言葉を十分なものとして引用し,聖書の他の部分を重要でないもののごとくに無視します。(使行 16:13,新口)しかしこれを引用する人たちは,往々その意味するところを考慮しません。主イエス・キリストを信ずるとは,イエスが御自分の生命を人間の為のあがないとして与えたことを信じ,彼の言われたことは真実であつて,しかも彼の示された模範こそ手本とすべきであると信ずることです。(マタイ 20:28。ペテロ前 2:21,新口)もしキリストのあがないの犠牲を受け入れるならば,これを準備された創造者を受け入れなければなりません。『救はヱホバにあり。』(詩 3:8)もしキリストが私たちの従うべき正しい手本を残されたことを信ずるならば,それにはヨハネ伝 17章6節に記録されている次のことも含まれていることを信じなければなりません,『わたしは,あなたがたを世から選んでわたしに賜わつた人々に,み名をあらわしました。』そして,彼の証者としてヱホバのみ名をあらわすでしよう。神のみ名ヱホバを使わず,それを他の人々に知らせない人は,キリスト・イエスの示した模範に従つていません。イエスが持つておられた聖書のすぐれた知識や,それらを度々引用されたことに注目しなさい。そして彼に習うように自らを備えなさい。(ルカ 24:27)また『イエスは,神の国の福音を説きまた伝えながら,町々村々を巡回し続けられた』こと,まず神の御国を求めよと言われたことを心にとめなさい。それから『御国の良いたより』を分け与えるため,他の人の家々を訪問することによつて,キリストの模範に習いなさい。(ルカ 8:1,新口。マタイ 6:33; 24:14)主イエスに対する確信は,人の信仰を受動的にしません。『行いのない信仰も死んだものなのである。』(ヤコブ 2:26,新口)信仰は人を動かしキリストの活潑な追随者として行動させます。彼らは聖書全体が『神の霊感によつて書かれた』ものであること,またこれがクリスチャンとして『あらゆる良い業に対して十分の備え』をしたいと望むすべての人々に欠くことのできないものであることを信じ,聖書全体を擁護します。―テモテ後 3:16,17。ヨハネ 17:17。

6 ある人々は,クリスチャンは十戒に従つて生活すれば十分だと言いますが,それは真実ですか。

6 あなたは『十戒に従つて生活すればそれで十分だ』と言つたことがありますか。ほんとうにそうですか。たぶん,クリスチャンと自称するある人々を満足させるに十分でしよう。しかしそれは神を喜ばせますか。神が愛をもつて,今1000以上の言葉で聖書を準備されている時,誰かが半頁だけを受け入れ,残りは必要ないものとして拒絶するならば,それは神を喜ばせますか。もしあなたが,たんねんに準備された宴会の最上級の御馳走の前にすわつて,1箇の豆だけをとつて食べ,残りを屑箱に押しこんだら,料理人は喜ぶでしようか。喜ばないのはあたりまえです! クリスチャンのためには,十戒だけで十分だという考えは,神に奉仕しようという誠実な望みから生じたのではなく,むしろ怠惰または聖書の述べる事柄に対する無関心から生じたものであることは,これらの戒めが守られてさえいないことで分ります。人々は十戒を守ることに関心を持つよりも,むしろわずらわされたくないのです。使徒パウロは,『律法を行うことによつては,すべての人間は神の前に義とせられないからである』と言いました。ですから,私たちは律法の指し示したものを受けいれなければなりません。そして私たち自身の省略版ではなく,神の義の標準を採用しなければなりません。―ロマ 3:20; 10:2,3,新口。

7 訪問するヱホバの証者の奉仕者にむかつて,関心がないというのは,なぜクリスチャンでない証拠なのですか。

7 自分の家の玄関に訪れた奉仕者が,ヱホバの証者の一で人あることを知ると,『いいえ,私は関心がありません』と言う人々がいます。しかしいつたい彼らは何に無関心なのですか。もし彼らが証者に自分の使命を説明する機会を与えたことがあるなら,証者は,全能の神のこと,神の御言葉である聖書,真理に関する正確な知識の必要性,新しい世における生命に関して神がなされた約束,これに関連する他の事柄などを話したことを知つています。さてこれらの事柄のどれに無関心なのでしようか。クリスチャンとして,神を喜ばせることに誠実な関心を持つ人は,これらの事柄に深い関心を持つているのです。訪問した奉仕者が示したものとは異なつた信仰を持つているのは事実かも知れませんが,しかしそれらが聖書から示された以上,その人の心には深い興味がよび起される筈です。そしてもし自分の信仰が異なるならば,なぜ訪問者にそれを証明しないのですか。(使行 17:11)生命を得るための主要な要求は,心をつくし,精神をつくし,思いをつくし,力をつくして神を愛することです。(マルコ 12:29-31)この心からの愛は,神とその御目的を学ぶことに私たちの能力を使うことにより表われます。もちろん家の人は,クリスチャンの信仰をもつており,以上の事柄もすでによく知つていると感じているのかも知れません。もしそうならば,彼はクリスチャンに要求されていること,すなわち「自分を愛するように隣り人を愛せよ」を賢明に思い出して,隣り人と真理を討論する機会を歓迎するでしよう。(エペソ 4:25)彼はまた,クリスチャンは,その結ぶ実によつて知られることも思い出すでしよう。(マタイ 7:20)そして玄関に立つているのは,クリスチャンであることを明示する実を結びつつある者なのです。彼は,キリストと使徒たちの示した,家から家に伝道する奉仕の模範に従つて,キリストが,今の時代に伝道されるであろうと言われた御国の音信を伝えているのです。誰かが,神の御言葉からの音信をたずさえてあなたのところへ来る時,神と隣人に対する愛は必然的にあなたを動かして,彼の言うことに耳を傾けさせるはずです。

8 クリスチャンが神の御言葉の討論に耳をかたむけるのに『忙しすぎる』ことなどありえないのはなぜですか。

8 クリスチャンとして家々を訪問する人々は,多くの『忙しすぎる』人,『聞く時間がない』人々に会います。彼らはたぶん,友だちが来るから,テレビジョンを見ているから,新聞を読んでいるから忙しいのかも知れません。今こそ「時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである」。(エペソ 5:16,新口)神が御自分の僕たちを私たちに遣わされる時に,神に聞く時間がないならば神の新しい世に救い出して下さるよう私たちが叫ぶ時に,神に聞いていただくことを期待できますか。

9 多くの人は,なぜ『忙しすぎる』というのですか。彼らの道はなぜ賢明ではないのですか。

9 家の人が,ちようどその時ほんとうに急いでいて,さし迫つて気を散らすことなく聞ける時にまた来るよう証者に乞うこともあります。できれば証者は,そのような人の便宜を図ります。しかし,多くの人の場合,それは御国の音信に対する無関心なのです。彼らは,ヱホバがヱレミヤを通して非難された人々のようです,『汝らの先祖がエジプトの地をいでし日より今日にいたるまで われ我僕なる預言者を汝らにつかわし日々朝よりこれをつかわせり。されど彼らは我にきかず耳を傾けず。』(エレミヤ 7:25,26)多くの人々は,今がさばきの時であることを考えません。今は無関心でいる時ではありません。ヱホバ神御自身がご自分の御子キリスト・イエスを天の王位につかせ,また油そそがれた証者たちを神の永遠の政府を公表する者として送り出されているのです。(詩 2:6。イザヤ 43:10)これらの油そそがれた証者たちになす待遇は,その王になされたものとみなされます。(マタイ 10:42; 25:40)これら新しい世の大使たちと彼らの伝える音信を拒絶するこは,彼らが代表するキリストを拒絶することです。そして結局エソウのように,霊的な事柄を尊重せず,むしろ物質的な,もしくはこの世的な興味に従う者として拒絶されることになるのです。(ヘブル 12:16)なまぬるい無関心は,たとえそれが親切に礼儀正しくしようと努力する人の示すものであつても,「審判を任命された者」の目には決して称賛に価するものではありません。(使行 17:31)クリスチャンはそれ以上を求められているのです。キリストは言われました,『わたしはあなたのわざを知つている。あなたは冷たくもなく,熱くもない。むしろ,冷たいか熱いかであつてほしい。このように熱くもなく,冷たくもなく,なまぬるいので,あなたを口から吐き出そう。』― 黙示 3:15,16,新口。

10 家の人が8分間の証言を全部聞くのに忙しすぎるときでさえ,ヱホバの証者は何をしよと努力すべきですか。

10 家の人がこの問題に関して賢明な決定をしようとしまいと,玄関にいるその奉仕者は援助するために来たことを家の人は知るでしよう。奉仕者は,神を愛さない人に押しつけはしませんが,機会が与えられるならば,ごく簡単な討論によつて彼の持つている真理の種をまこうと努力するでしよう。彼はよく選択された表現を用いて,彼のたずさえて来た音信の要点を説明するただ一つの明白な聖書の考えを述べるでしよう。事実彼は,そのような証言が必要とする場合が度々あるのを知つていて,これができるように証言を準備します。真理である真珠を,豚のような人々の前に投げるなというイエスの助言を守る一方,奉仕者の隣人愛は,この世で「行われている憎むべきことのために歎き悲しむ人々」の心にふれる方法を思いつかせます。―マタイ 7:6。エゼキエル 9:4。

信仰が必要

11 信仰とは何ですか。それはクリスチャンにとつてなぜ重要ですか。

11 神を無視しているこの古い世で,クリスチャンの道に従うには信仰がいります。自ら進んで個人の誇りを捨て,神の御言葉から示された真理に従つて自分の考えや生活をけんそんに形づくるには,信仰は欠くことのできないものです。『信仰がなくては,神に喜ばれることはできない。なぜなら,神に来る者は,神のいますことと,ご自身を求める者に報いて下さることとを,必ず信じるはずだからである。』(ヘブル 11:6,新口)でも神に喜ばれる種類の信仰とは何でしようか。ウエブスターの「カレツジエイト・デイクショナリー」に出ている信仰の一つの定義は,一般に受けいれられている考え方を示しています。それは『特に疑問もしくは疑われている者または事柄に対する完全な確信』です。いつでも宗教的活動や教えに疑いをもつと,擁護者はこれを基礎にして『でもあなたは信仰をもたなければなりません』と言います。宗教制度の一部であるこのような信仰を持つそれらの人々は,反抗を許さない服従の中で宗教指導者たちの気の向くままにされるのです。それは安全ですか。『盲人は盲人の手引ができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。』(ルカ 6:39,新口)ルカは『盲信』の道を歩まなかつた人々をほめて言いました,『ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であつて,心から教を受けいれ,果してそのとおりかどうかを知ろうとして,日々聖書を調べていた。』(使行 17:11,新口)神の承認を得るために人が持たなければならない信仰については,ヘブル書 11章1節(新口)に明確に定義されています,『信仰とは,望んでいる事がらを確信し,まだ見ていない事実を確認することである。』

12 神を信ずる基礎には何がありますか。

12 クリスチャンたちは神に信仰をもつています。なぜですか。それは単に子供の時に神があると教えられたからだけでなく,圧倒的な証拠があるためであつて,彼らはこれを冷静に考慮しました。そしてそれは,彼らの肉眼には見えない神の実在の明白な証明です。『神の見えない性質,すなわち,神の永遠の力と神性とは,天地創造このかた,被造物において知られていて,明らかに認められるからである。したがつて,彼らには弁解の余地がない。』(ロマ 1:20,新口)詩篇記者ダビデは,この証拠を熟考し感動して言いました,『もろもろの天は神のえいくわうをあらわし,おおぞらはその御手のわざをしめす』『ヱホバよなんじの事跡はいかに多なる,それらは皆なんじの知恵にてつくりたまえり,汝のもろもろの富は地にみつ。』(詩 19:1; 104:24)『盲目の信仰』に動かされないで,あなたの目を大きく開き,天体の秩序正しい動き,自然の中に明白に表われている神の知恵,精巧なデザインと顕著な創造の美に目をとめて下さい。なぜなら,これらは創造主,すなわち神の存在を示す明白な証明だからです。

13 息子の誕生に関するアブラハムの信仰の基礎は何でしたか。

13 神の友アブラハムは,その顕著な信仰の故に,聖書の中に記されています。ヱホバは老年のアブラハムに,息子イサクが生れると約束されました。『なお彼の信仰は弱らなかつた』のですが,アブラハムはただよさそうな話だという理由だけによつてそれを信じたのではありません。『およそ百歳となつて,彼自身のからだが死んだ状態であり,また,サラの胎が不妊であるのを認めながらも,なお彼の信仰は弱らなかつた。彼は,神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず,かえつて信仰によつて強められ,栄光を神に帰し,神はその約束されたことを,また成就することができると確信した。だから,彼は義と認められたのである。』(ロマ 4:11,19-22,新口)人間の見方からすればそれは不可能であることをアブラハムは知つていました。しかし,その約束をされた方は,生命を子孫に伝える力をもつた人間をつくり,また女に子供を生む能力を与えられた神御自身でしたから,アブラハムはそれを信じたのです。彼は望んだ事柄に確信をもちました。

14 『新しい天と新しい地』の設立に対する私たちの信仰はなせ是認されているのですか。

14 生ける神の僕たちが,幾世紀もの間,その確信を置いてきた事柄を望み見てペテロは言いました,『しかし,わたしたちは,神の約束に従つて,義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。』(ペテロ後 3:13,新口)これは保証のある期待であつて,その約束された方は,また彼らの創造主でもあるということに,その保証があるのです。『元始に神天地を創造たまえり。』(創世 1:1)「天は神の御手のわざ」であり,彼は『地のはての創造者』です。(詩 102:25。イザヤ 40:28)神は天と地を創造することができるという明白な証拠があります。神は,1914年,王位にあるキリストをいただく新しい天を植え,1919年にヱホバの証者の新世社会を出現させ御自身の約束を成就すべく今行動を開始されました。現在成就しつつある預言は,この世代に,すべての悪しきものは,この地球上またその近辺から一掃されること,そして人間はエデンの時のように完全にまで高められることを示しています。彼らが神の御言葉通り永遠に住むことを神の全能の力と永遠性が,保証しています。

15 真のクリスチャンの信仰は何に基づいていますか。

15 さて,そのような信仰は何の上にきずかれているのでしようか。それは人生における経験の結果として徐々に習得したような理論の産物でしようか。そうではありません。『信仰は聞くことによるのであり,聞くことはキリストの言葉から来るのである。』(ロマ 10:17,新口)『聖書は,すべて神の霊感を受けて書かれたものであつて,人を教え,戒め,正しくし,義に導くのに有益である。』(テモテ後 3:16,17,新口)考古学,地質学,歴史,また聖書そのものの中に見られる預言の成就によつて,信仰の基礎は聖書であることが十分に証明されています。『聖書と考古学』は言います,『知識の進歩から聖書は利益を得るのみである。』神の御言葉に関する知識なくして,神を喜ばせる信仰をもつことはできません。明確な知識なくして堅実な信仰を持つことはできません。もしあなたが神に認められようと勤勉にはげむならば聖書の研究をするでしよう。

クリスチヤンの道

16,17 今日,クリスチャンになるということは何を意味しますか。

16 以上の討論からして,真のクリスチャンとは,その教えの中にキリストの名前を包括した一つの宗教組織の単なる擁護者ではないことが明白です。もしイエスの弟子ならば,その人はイエスから学びます。そしてそれは彼がイエスの信じた事柄を信じ,イエスが教えた事柄を受けいれることを意味します。彼は自分のまだ理解できない諸問題に関しても,聖書より望ましいものとして近視眼的に自分の考えを打ち立てたりせず,クリスチャンとして,『あなたの御言葉は真理です』と言われキリストの教えを受けいれます。(ヨハネ 17:17,新世)なお彼は,神の御言葉の全部を受けいれるのみでなく,主人が,『時に応じて食物をそなえさせる』ために任命した機関もしくは組織も受けいれます。『よく言つておくが,主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。』(マタイ 24:45-47,新口)神は預言者イザヤを通して,忠実な僕を確認して言われます,『なんじらはわが証人わがえらみし僕なり。』(イザヤ 43:10)正しい羊飼の声を認める人々の数は増加をたどつており,彼らはヱホバの証者の新世社会と交わつています。

17 クリスチャンはキリストの足跡に従う者です。この世の他の人々と異なつた信仰を持つのみでなく,またその行動も異なつています。『互に受し合うならば,それによつて,あなたがたがわたしの弟子であることを,すべての者が認めるであろう。』(ヨハネ 13:35,新口)それは彼らの家庭生活,彼らの互いの関係,彼らが伝道する人々に影響します。それは彼らがこの古い世より異なつていることをしるしづけます。真のクリスチャンたちは,『世の一部』ではありません。そしてこの世を永続させるために彼らの時間,精力,資財を用いません。またこの世の政治上,社会上,国際上の紛争に巻き込まれません。彼らは,神の国こそ人類の諸問題に対する解決策であることを知つて,『まず神の国と神の義とを』求めます。そして,キリストの模範に習い,世界のあらゆる部分で,証者として家から家に行き,『この御国の良いたより』を宣べ伝えます。彼らは宣教によつて大きな喜びを見出しますが,しかし愉快な気晴しとしてではなく,生活の中で最も重要な事柄として,また献身した僕として,ヱホバ神への奉仕に従事します。古い世の一部である人々は,神に対する愛に動かされもしなければ,神の新しい世も切望せず,かえつてそれを擁護する人々に激しく反対します。その結果は,イエスの言葉の成就でした,『あなたがたは,わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。』また霊感を受けた使徒パウロはつけ加えました,『いつたい,キリスト・イエスにあつて信心深く生きようとする者は,みな,迫害を受ける。』(マタイ 24:9。テモテ後 3:12,新口)忠実なクリスチャンの道を歩むために,彼らは新しい世において永遠の生命をもつて報いられ,そこで神の御旨を行うことに続けて喜びを見出すでしよう。

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