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宗教は「自分だけの問題」ですかものみの塔 1962 | 6月15日
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を与えないならば,エゼキエル書 3章17,18節にしるされた原則に従って,その人は神の前で責任を問われるでしょう。語る能力を用いて他の人々に警告を与えるべきであったのに,その人は口をつぐんでいたからです。使徒パウロは,神の真理を他の人々に語ることをさしひかえず,「家々で」教えることさえしたので,「わたしは,すべての人の血について,なんら責任がない。神のみ旨を皆あますところなく,あなたがたに伝えておいたからである」と言うことができました。御国の希望を語り,御国の力がこの悪い世に対して間もなくどのように表わされるかを語るならば,私たちは「すべての人の血について,なんら責任がない」と言うことができます。―マタイ 24:14。使行 20:20,26,27,新口。
何をすべきか
聖書のことを話すのを敬遠する傾きのある人は,どうすべきですか。それを直すために,早速,処置を講じなければなりません。ひとつには,神の言葉をもっとよく知ることが必要です。多くの人は知識がないために,自分の持つ希望を話し合うことを拒絶します。宗教の問題は余りに微妙なので話し合うことができないと言うなら,その宗教は感情と情緒に基づいており,聖書に基づいていません。聖書の教える真の宗教は,理にかない,事実に基づいているもので,他の人に伝えることのできるものです。しかしクリスチャンは自分の希望を他の人に語ることができるために,知識を得なければなりません。
では,別の信仰を持つ人から,宗教について話しかけられたとき,どうすべきですか。聖書の神を崇拝する人は,静かに相手の言葉に耳を傾け,それからおりを見て機会をとらえ,自分の希望を説明するでしょう。他の人が話しているとき,なぜその事を信じているのかを質問しなさい。聖書からその希望を説明することを,相手の人にすすめなさい。柔和な態度であなたの御国の希望を相手の人に説明しなさい。
あなたの希望について他の人に語るとき,相手の人が「宗教は個人の問題ですから,宗教のことについてはお話しできません」と言うならば次のように言えます。「そうですね。宗教はたしかに各人が自分の心の中で確信を持つことです。しかし,私にとって,私の信仰を語ることは少しもさしつかえありません。―事実,語ることは私の信仰の一部ですから,私がどうして希望を持ち,幸福になったかをお話したいと思います」。
本当のクリスチャンは,神と神の御国について「語らないわけにはいかない」のです。宗教のことを話し合おうとしない人は,聖書の神の崇拝者ではありません。しかも聖書の教えとは正反対の道をとっています。たしかに宗教は心の問題ですが,人は「口で告白して救われる」のです。―ロマ 10:10,新口。
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驚くべき本ものみの塔 1962 | 6月15日
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驚くべき本
聖書は驚くべき本です。かつてカボールの政府の教育相であった有名なイタリアの批評家フランセスコ・サンクチスも,そのように考えて,次のように書きました。「私は以前に聖書を読んだことがなく,また学生を持ったこともない。宗教のことについては当時の世間には無関心と侮べつの念がいりまじっていた。したがって,神の言葉である聖書と言えば,ばからしいものと思われた。私はヨブ記に目を通し,そのすばらしさに呆然とした。古典の中で聖書の偉大さに太刀打ちできるものはひとつもない。われわれはひじょうな熱心をもって,早速研究に取りかかった。雅歌とダビデの詩篇はすばらしかった。詩篇の中では,創造に関して深い考慮が払われており,創造者の力と偉大さが示されている。また,エレミヤ哀歌も良かった。それはさながら未知の遠い国への旅行のようであった。初心者につきものの熱心に駆られたわれわれは,古典を忘れた。ホーマーをさえ忘れてしまったのだ。数ヵ月のあいだは聖書のことで明け暮れした。われわれの学校では軽々しいものがたくさん読まれるのに,聖書名篇集が読まれていないことは,驚きに値する」。―アウグスト・ジャヒエル著「ラ ビビアネル ギウデイジオ デイ イラストリ イタリアニ」(著名なイタリア人は聖書をどう考えるか)34頁。
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