生命のために神権制度を認める
『それであるから,神の力ある御手の下に自らを低くしなさい。神は正しい時にあなた方を高め,そして神はあなた方に関心を持たれているのであるから,すべての思いわずらいを神にゆだねなさい。』― ペテロ前 5:6,新世。
1 生命,一致,そして平和ということから見るときに,ヱホバの神権制度を認めることをいくら強く強調しても,なぜそれは強すぎませんか?
ヱホバの神権制度を認めるということをいくら強く強調しても,強調しすぎることはありません。もし人間の生命がある行為に依存するのであるならば,たとえ自らを低くしてその誇りが傷つけられようとも,人間はその行為をよろこんで行うべきです。これこそ神権制度を認めるべき仕方であつて,また神の御手の下にあるその運営の方法を認めるべき仕方です。無政府主義者たちは制度を認めず,制度に従うのを拒絶します。神権制度などはないと言うことは,無法または無政府主義の気味があります。なぜならば,そう言うことは神には制度が無く,神の民,神の群を組織していないということを意味するからです。神にとつては,無生の創造物である太陽,月,星が組織されるより,生きていて利智ある創造物が組織される方がより重要なことです。というのは,神の字宙の一政,調和,平和そして働きの有効さは,それらのものが神権的に組織され,運営されることに依存しているからです。
2 制度を認める支持として,昔のヘブル語聖書は誰のために書かれましたか?
2 聖書は,地上の利智ある者たちに教えを与える神の本です。神の本,聖書の教えを守り行うためには,神権制度を認めねばなりません。というのは,聖書自体全巻を通して神権制度を認めているからです。実際に,聖書は目に見える神権制度の本です。神御自身がその『指』をもつて書かれた聖書の中の最初の言葉は,神権制度のための言葉でした。すなわち,『十の言葉』である十のいましめは模型的神権制度であつたイスラエルの国民のためでした。(申命記 10:1-4)予言者モーセはヱホバ神の霊感を受けて,同じ制度のために,創世記から申命記にいたるまでの五書,すなわち律法の他の部分を書きました。昔しのヘブル語聖書の他のすべての本は,イスラエルの模型的神権制度のために書かれたということは実際の事実です。しかし,イスラエルの国民のためだけに書かれているのではありません。なぜならばクリスチャン使徒パウロは,神のクリスチャン会衆に手紙を書き,詩篇 69篇の9節を引用して次のように論じているからです。『キリストさえも自分自らをよろこばせるようなことはしなかつたからである。聖書に次のように書かれている。「あなた方を非難する者の非難は,私の上に来た。」以前に書かれたすべての事柄は,私たちを教育するために書かれたもので,私たちの忍耐とそして聖書からくる慰めによつて私たちが希望を持つためである。』(ロマ 15:3,4,新世)結果として,創世記からマラキ書までの昔しのヘブル語聖書は,主として神のクリスチャン会衆を教えるために書かれました。
3 同様に,キリスト教徒ギリシャ語聖書は誰のために書かれましたか? それらの人々が制度を念頭に置くことはなぜ必要ですか?
3 同じことは,マタイ伝から黙示録までのキリスト教徒,ギリシャ語聖書についても真であります。ルカ福音書,使徒行伝,テモテ書,テトス書,ピレモン書,そして使徒ヨハネの第二,第三の書を除いては,キリスト教徒,ギリシャ語聖書のすべては,クリスチャン会衆に対して直接に書き送られたものであり,主としてクリスチャン会衆のために書かれたものです。しかも,この8つの例外のものも,クリスチャン神権制度の中にいた人に宛てて書かれたものであり,特にその制度の代りにその人々に宛てて書かれたものです。それですから,今日ではキリスト教徒,ギリシャ語聖書の27冊は,神のクリスチャンの群に属するものであり,ある個人に属するものではありません。それで,これら27冊の本は,ヘブル語聖書の39冊の本と共になつて,霊感された聖書全部をつくりあげます。聖書がクリスチャン神権制度と破ることのできない密接な結びつきを持つていることを考えるとき,聖書は制度を念頭に置いております。そして神権制度を念頭に置かないならば,私たちは聖書を十分に理解することができません。それで,このことから神の力ある御手の下に自らを低くする者が神権制度に注意を払い,神権制度を認めることは全く必要なことなのです。神の群のすべての羊は,聖書のように制度を念頭に置くべきです。
構造と活動
4 キリスト教国の状態にもかかわらず,神は一つの見える制度を持たれていると何が確証しますか? その取り極めや,方法はどのようなものですか?
4 クリスチャン時代の最初の世紀にあつた目に見える神権制度のときから,今日の私たちの時まで19世紀経つています。この世紀のあいだ,キリスト教であると主張する制度は,多くの変化をし,幾百という宗派や分派に分裂しました。その結果に宗教的な群は散らされてしまつたのです。それで,キリスト教国内にあるいろいろな宗教的な無秩序は,しばしばひどい宗教戦争という形に表われたり,そして小さい,新しい派の者たちを迫害いたしました。クリスチャン神権制度を持つために,私たちはキリスト教国の宗教的な言い伝えを棄て去り,第1世紀昔の使徒時代の教訓と取り極めに戻らねばなりません。神は今日,その正しい牧者の下にいるその羊の群を地上に持つておられ,そしてその力ある御手の下にいま目に見える制度を必らず持たれているに違いなく,また実際に持たれております。イエス・キリストの使徒たちが神権的であつたのと同じく,この制度が神権的なものであると証明されますが,それは,神の羊のこの組織された群は,その取り極めや活動の仕方で使徒時代のもののようだからです。と同時にそれは神の定めた奉仕をするため現在の時代の必要なことにも調整されています。
5 今日の制度が使徒時代のようなものであるということは,何を意味しませんか?
5 制度が使徒時代のようなものであるといつても,いわゆる生きている『使徒』または『使徒の後継者』たちがいるということを意味しません。そのようなものがいるわけはないのです。小羊イエス・キリストの12の使徒はクリスチャン会衆の基礎石であつて,その会衆の初期,設立期,または幼少期に属したものでした。(黙示 21:14,19)1世紀の終りまでには,真の使徒はみな死にましたが,後継者については任命はなかつたのです。霊感された聖書は,いわゆる『使徒後継者』に対して反対して語つております。そのような者はサマリヤのシモン・マガスのように貪欲な心を持ち,神の群に対して使徒の力を行使したく願うのです。『実に,そのような者は偽りの使徒,惑わしの働き人であつて,自らをキリストの使徒に変身しているのである。しかし,それは驚くに当らない。なぜならば,サタン自身も自らを光の天使に変身し続けているからである。それでサタンに仕える者たちが正義の奉仕者に変身し続けることも,不思議なことではない。』そのように,野心を持つていて,おごり高ぶる人は,神権制度を認めることができず,神の大能の手の下に自らを低くすることはできません。―コリント後 11:5,12-15。使行 8:9-24,新世。
6,7 (イ)目に見える神権制度は何時,そして何人で始まりましたか? そして最初の日に何人が加えられましたか?(ロ)使徒時代の制度と活動について,記録は何と言つていますか?
6 西暦33年の五句節<ペンテコスト>の祝の日に,120人の成員で成り立つクリスチャン会衆は目に見える神権制度としてエルサレムの2階の部屋で開始されました。その時に,神の聖霊はその主なる牧者イエス・キリストを通して,イエスの忠実な追随者で成り立つその小さな群の上に注がれました。そのように聖霊がその小さな会衆の上に注がれて,奇跡的なしるしが表わされたために,その注がれた聖霊の力の下にペテロと他の使徒たちは伝道をし,ヱホバ神とその高められた子イエス・キリストに対して力強い大きな証言を行いました。聴衆の群の中で3000人がその音信をうけいれて,イエス・キリストはヱホバ神の子,主・キリストであると信じ,そしてその信仰を証するため水による洗礼をうけました。その使徒時代の制度や活動については,次のように記録されています。『それで,彼の言葉を心から受けいれた者たちは洗礼をうけ,そしてその日には約三千の魂が加えられた。彼らは使徒たちの教に心を傾けて守り,互いに交りをなし,共に食事をして祈をしていた。』― 使行 2:1-42,新世; 1:15。
7 彼らの活動をさらに説明して,記録は次のように言つております。『彼らは毎日毎日心を一つにし,絶えず宮に行き個人の家で食事をとり,よろこびと真心から滋養物を取り,神を讃美し,すべての人に好意を持たれた。そしてヱホバは救われる人々を毎日加えさせられた。』(使行 2:46,47,新世)不信のユダヤ人たちが迫害を加えた後であつても,エルサレムの会衆は,前述のことを守り行いました。『そして,日々宮にいても,家から家の場合でも,彼らはキリスト・イエスについての良いたよりを教えたり宣べ伝えたりして止めることをしなかつた。』― 使行 5:42,新世。
8 それで,記録から見るとき,当時の方法は何を含んでいましたか?
8 この聖書の記録から,使徒時代の方法は,次のことを含んでいたということに気がつきます。まず使徒たちの教に心を傾けて守つたということです。その教は,使徒たちが多く引用したヘブル語聖書によつて支持されました。次に,ユダヤ人の会堂から離れて,新しい会衆をつくるために仲間の信者たちとして互に交をしたということです。そしてよろこびつつ,また真心のうちに個人の家で食事を共にしたということです。このことは,家から家への彼らの伝道と結びついていました。というのは,彼らがイエス・キリストについての良いたよりを教えたり宣べ伝えたりした時,この霊的な食物をうけいれた人々は彼らと物質的な食物を共にし,彼らの身体上の元気に貢献しました。(ガラテヤ 6:6)家から家のこの伝道の他に,彼らは宮の庭で公開集会を開き,毎日そこに出席して,宮に集まる群集に音信を伝えました。それで,彼らは個人としても,または公やけの時にも絶えず活潑に活動し,ヱホバ神を讃美し,そしてイエス・キリストについての良いたよりを宣べ伝えました。この方法は成功しました。なぜならばヱホバは信者たちを日々彼らの数に加えたからです。
9 今日誰が使徒たちの教に心を傾けて守つておりますか? そしてそれはどのようにしてですか?
9 その昔に神権的なものであつたことは,今日でも神権的なものです。神権的な性質のために,その昔に成功したものは,今日でも成功すべきです。その理由で,ヱホバの証者は使徒たちに模倣しようと努力して,使徒たちの時代に戻つているのです。使徒たちの方法を真似しなさい。それは,使徒たちの教に今日心を傾けて守る一つの道です,彼らの口頭の教えについて言うならば,今日では使徒は肉の形でもつて直接には生存しておりませんが,しかし彼らの仲間の弟子であるマルコ,ルカ,ヤコブ,そしてユダたちの霊感の書きものと共に使徒たちの書きものもあります。これら霊感されたクリスチャンたちの書きものにしつかりと従い,そして霊感をうけない人々の宗教的な言い伝えを拒絶することによつて,私たちは今日霊感された使徒たちの書いた教に心を傾けて守ることができます。この書かれた教によつて今日の真のクリスチャン会衆は資格ある監督者や奉仕の僕たちによつてどのように組織され,また司会されるかについて私たちは教をうけます。これらの監督者や僕たちは,地全部に亘る全クリスチャン会衆の統治体によつて任命されているものです。使徒時代の時のように,ヱホバの証者は集会の場所で互に交ります。彼らは定期的に交り,彼ら自身集まるのを止めるという悪い習慣に陥らず,互いに励まし合い,そしてハルマゲドンの戦が近づくのを見つめれば見つめる程益々そうしております。エルサレムの宮は西暦70年に亡びてしまい,ヱホバの証者は今日そこで公開集会を開こうとしても,その場所に出席することはできません。しかし,ヱホバの証者は,屋内であろうと屋外であろうとも,できるとこならば何処であつても今日公開集会を開いております。―使行 14:23; 20:28-35。テモテ前 3:1-13。テトス 1:5-9。ヘブル 10:25。
10 使徒時代の特別などんな顕著な点は,今日ヱホバの証者の活動を表示していますか?
10 使徒時代の一つの特別顕著な点は,今日のヱホバの証者の神権的活動を表示しています。それは何ですか? それは家から家へと良いたよりを伝道したことと,また昔の大会の都エルサレムに相当するような都市で大きな大会が開かれたときなどに個人の家庭で接待をうけましたが,そのような時に良いたよりを伝道したことです。使徒たち自身も家から家へと伝道する神権的な要求から除外されていたのではありません。そのことにつき,使徒パウロは,エペソの会衆の長老たちに次のように言いました。『利益となる事をあなた方に語るのに,私は躊躇しなかつた。また人中でも家から家へでもあなた方を教えるのに躊躇しなかつた。しかし,私は神にたいしての悔い改めと,主イエスに対する信仰についてユダヤ人とギリシャ人の両方に十分な証をしたのである。………私の行程を終え,主イエスから賜つた,神の恵みの良いたよりについて十分の証をする宣教を果し終えるならば,私の魂を少しも惜しいとは思わない。』― 使行 20:20,21,24,新世。
11 この活動に対して,どこから反対が来ますか? そしてなぜ?
11 この家から家の宣教の方法は,非常に効果的であつて,この20世紀の時代に多くの人々に神の音信を伝えることができました。それで,キリスト教国の牧師は,神権的とは全く逆にこの方法に反対し,訴え出て,そしてこれを国の政治,警察,司法,諸官憲の前に問題としました。それは丁度使徒時代のユダヤ人の教師がしたことと同じでありました。その結果,神の御国の音信を伝道する道を確保するため,ヱホバの証者は法律の法廷で戦わねばなりません。ヱホバの証者が禁ぜられ,またその国家の宗教のために,証者たちの公開講演が許可にならないような国では,彼らは使徒たちに真似をして,家から家へと神権的に出かけ,公共の注意を引くことなしに静かに伝道いたします。
君としての奴隷
12 今日神権的であるためには,私たちはどんな基礎の上に依存しなければなりませんか?
12 使徒時代の方法と1世紀の取り極めに調和一致することは,私たちの生命のために今日神権制度を認める一部分であります。新しいエルサレムは,12の基礎石を持つていると示され,その基礎石には『小羊の十二の使徒の十二の名前』が録されていることを私たちは知つています。(黙示 21:14,19,新世)私たちが,今日神権的であるためには,これらクリスチャン使徒や予言者の12の基礎の上にいまでも依存しなければなりません。そしてイエス・キリスト自身は基礎の隅石であつて,それら使徒の基礎はその基礎の隅石に依存しました。―エペソ 2:20-22。
13 今日,制度を全く認めるために,私たちは制度のどんな他の特色を認めるべきですか? そして何時からですか?
13 しかし,この世の『終りの時』にあつて,私たちが認めねばならない神権制度の他の一つの特色があります。それは,何ですか? それは『忠実にして,賢い奴隷』です。イエスは,彼が目に見えない状態で臨在される時,『終りの時』を特色づける証拠について詳細な予言を与えましたが,その予言の中で,そのような『忠実にして賢い奴隷』を任命すると語りました。『主人が家人の上に任命して,正しい時に食物を与える忠実にして賢い奴隷とは実際に誰であるか? 主人が着いた時,そのようにしているのが見られるその奴隷は幸いである。私はまことにあなた方に言う。主人は彼を任命して全財産を管理させるであろう。』(マタイ 24:45-47,新世)西暦1914年以来の世界の出来事,とくに西暦1918年以来のヱホバの民のあいだの出来事によつて,次のことについての目に見える証拠があります。すなわち主イエス・キリストはその御国に来られてから,神の霊的の宮に来られ,『神の家』で最後の裁きを執行し,そしてその裁きの仕事の表われとしてイエスは『忠実にして賢い奴隷』を見出し,その奴隷を任命してその財産全部すなわち地上にある見える御国の福祉を委ねました。(ペテロ前 4:17)それで,今日の神権制度を十二分に認めるためには,再臨された主,審判主が全財産の上に任命したこの『忠実にして賢い奴隷』を認めなければなりません。そのことを避けることはできません。
14 この『奴隷』は誰ですか? その奴隷は,いま誰に食物を給仕していますか?
14 幾年ものあいだ,この『忠実にして賢い奴隷』は一人の人,またはある一人の人が取る責任ある職務と考えられていました。しかし,目に見える神権制度は『正しい時に霊的な食物』をうけるのに,ある一人の人に依存していますか? いいえ,そうではありません。成就された予言の光に照らして見る時に,任命された『奴隷』は一つの級であつて,イエス・キリストの油注がれた霊的追随者の残れる者又は残存している者です。彼らはイエス・キリストと共に天の御国で共同相続者になるよう召されている者です。この『奴隷』級は,今日地上にある主イエスの全財産を管理する際に『正しい時に食物』を給仕いたします。それによつて油注がれた残れる者の成員たちだけでなく,いまでは主の『他の羊』の『大いなる群集』すなわち新しい世で地的な運命を待つている忠実な信者たちも給仕をうけています。主は『奴隷』級を任命してその目に見える全財産を管理させているのですから,正しい牧者である主イエスは,この『奴隷』以外のものでもつては,今日地上の羊を養つてはおりません。
15 どんな模範に従つて,『奴隷』級は統治体を持つていますか? その統治体には誰が含まれますか?
15 『忠実にして賢い奴隷』は,一つの級であることから,その永続する忠実と賢明さはある一人の人の生涯や行為に依存しません。『奴隷』級は,多くの油注がれたクリスチャンで成り立つていますから,それは統治体を持たなければなりません。使徒時代の神権的会衆が統治体を持つていたのと同じく,それは統治体を持つています。ペテロは,自分がその統治体であるとは主張せず,パウロも同じく主張しませんでした。ペテロとパウロの両人は,統治体は自分たちよりも多くの人を含んでいると認め,異論の事柄を統治体の決定に委ねました。小羊の12使徒は,わずか12人だけであつたため,当時において霊的に資格を備えていた人がみなそのような特別な使徒になれることはできません。それで,統治体は小羊の12使徒の他に,エルサレムの神権制度の他の長老たち,例えばイエス・キリストの異父弟ヤコブのような者を取り入れました。(使行 15:1-29。ガラテヤ 1:18,19。ヤコブ 1:1)12使徒はもはや死んで長い年月が立つているのですから,今日の『忠実にして賢い奴隷』級の統治体には,当然12使徒は含まれておりません。しかし,今日の統治体は,それら使徒たちの書かれた教えや,また使徒と交つてキリスト教徒ギリシャ語聖書を書いた他の長老たちの教えに従います。今日の統治体には,油注がれた残れる者で長老の,霊的に資格ある人々が含まれています。
16 統治体は何と密接に結んでいますか? その拡張は全地においてどのように行われていますか?
16 今日の目に見える神権制度は,現代の状態と要求に適応し,そしてカイザルにはカイザルのものを与えねばならないために,合法的に設立された奉仕機関『ものみの塔聖書冊子協会』を有しております。同協会は,アメリカ合衆国ペンシルバニア州の法律の下に1884年に法人化されたものです。(マタイ 22:21)『忠実にして賢い奴隷』級の統治体が,管理,合法,出版の目的のために密接に結びついているのは,この合法の法人であります。それは『御国のこの良いおとづれ』が,全国民に対して証しをするため全地に伝道されるのを監督するためです。(マタイ 24:14,新世)御国の伝道はすでに150の国々に拡大したため,この合法の法人はその60以上の国々に支部事務所を持つております。支部は,元始の合法の法人から適宜に,又必要に応じて経済的な支持をうけております。その支部を管理するクリスチャン男子は,献身したヱホバの証者であつて,『支部の僕』と呼ばれます。支部の僕は,全く『僕』あつて,首領ではありません。すべてのことを良く考えて見る時に,今日の神権制度を認めるということは,イエス・キリストを通して今日のためになされるヱホバ神の取り極めと御準備をみな認めるということでなければなりません。忠節な心をもつてそれらを認める証として,私たちは神権制度とその任命そしてその運営部門と忠実に協力するよう努力すべきです。
17 何時からイザヤ書 32章1,2節は適用しますか? そしてどのように?
17 神が西暦1914年に天で御国を設立してより,そして特に1919年以来,イザヤ書 32章1,2節の予言は,御座に即いたイエスと地上にいる任命された僕たちについて適用いたします。『ここにひとりの王あり,正義をもて統治め,その君たち(ヘブル語でサリム)は公平をもて宰どらん。また人ありて風のさけどころ,暴雨ののがれどころとなり旱ける地にある水のながれの如く,倦み疲れたる地にある大なる岩蔭のごとくならん。』ここの『君たち』または『サリム』は,この世的な君たちを意味しているのではなく,主要な神権的な人を意味しています。すなわち,10人だけで成り立つ群であろうとも一つの級または一つの群の任命された長たちのことです。それで,『忠実にして賢い奴隷』級は,ヱホバの証者の『他の羊』について君のような立場を占めております。支部の僕は,油注がれた残れる者の成員であろうと,あるいは『他の羊』級の成員であろうと,それぞれの支部の管轄下にある区域内で,神権的な君またはサリムであります。統治体によつて任命され,10人のヱホバの証者の中で「公平をもつて宰る」男子の僕は,神権的な君,またはサル(サリムの単数形)です。地上にいるすべてのヱホバの証者の中で,神権的なサリムは,今日運営している神権制度を特に認めるべきです。
18 どんな根拠に基いて,人はサリムとして奉仕いたしますか? サリムが「公正に宰る」ためには,何が必要とされますか?
18 ヱホバの神権的な王イエス・キリストは,ただ忠実にして従順な『君たち』だけを地上で用いています。サリムたちは,特別な奉仕を行うために,彼らの主であり御座についたヱホバの王を認め,その王の御手の下に自らを卑くし公平をもつて宰らねばなりません。公平をもつて宰るという意味はサリムは彼らの王イエス・キリストの側にて正しく行わねばならず,又地的な全財産の上に任命されている王の『忠実にして賢い奴隷』の側にて正しく行わねばならず,そして王の他の羊である王の臣下たちの側にて正しく行わねばなりません。審判人の期間のあいだ不幸なことにイスラエルには正しいと認められていた習慣がありました。しかし,王のサリムの地位は,そのような習慣に従うことではありません。『そのころ,イスラエルには王がおらず,それぞれの目に正しいと見えたことをするのが習慣であつた。』(シシ記 21:25,新世)サリムは,その奉仕する人々の模範となるため,彼ら自身制度の教えを実行すべきです。このことは,彼ら自身がそのような教えを注意して良く知らねばならず,又研究しなければならないことを意味します。昔のイスラエルの祭司たちは,聖書の教えを暗記した程です。そのようにして,彼らはその教えの意味を理解し,またその含意を悟り,そして教えの中で明白に述べられていない多くの事柄を取扱うことができます。公平に宰るためには,その後でも彼らは制度の教と常に一致するよう努力いたします。
19 支部の僕を例にとつてみると,支部の僕が制度を認め,そしてその教に従わねばならない第1番の理由は何ですか?
19 例えば,支部の僕の場合ですと,支部の僕は次の点に留意しています。すなわち,木の枝または蔓が幹を支えているのではなく,幹がすべての枝を支えているということです。枝は幹から切離されては,働くことができません。枝が実を結ぶためには,枝はしつかりとついているべきです。同じことは支部の制度についても言えます。支部は,ただに合法の法人の機関であつて資金とか運営の他の手段を支給するもので,経済的には源の法人に依存しております。そのように経済的に依存していること自体によつても,支部の僕は言われることを行わねばなりません。なぜならば,資金を供給する協会は,支部についての金銭を費す場合に責任を取らねばならず,そしてどのように資金を用いるかということは神に責任を取らねばならないからです。協会になされる神権的な寄附ということからしても,金銭を最も賢明な,そして最も効果的な方法で費すことは協会の責任です。この世であつても,そのような処置は,正常で,良い健全な事務手腕と考えられています。従つて,支部の僕は制度の教に従わねばならず,そしてその奉仕の地位にいて効果的であるよう努力すべきです。それは,支部の運営を最も経済的に行うとともに,そして最も良く,又最も大きな結果を得るためです。しかし,支部の僕は王のサリムの一人ですから,経済的な責務や依存という動機よりももつと高い動機がなければなりません。なぜならば,私たちの制度は商業的ではないからです。制度は神権的であつて,ヱホバ神に服従しており,その統治する王イエス・キリストを通して神によつて支配されている事実から高い動機は生じます。これこそ,神に献身しているすべてのものが制度を認め制度に服従し,制度に忠節を証明しなければならない主要な理由であります。