キリストの死を記念する
『主の夕食』
キリストの死の記念を始める前に,ユダはすでに2階を去つて,イエスを裏切ろうとしていましたが,その記念の祝いについて,目撃者である使徒マタイは次のように記録しました。『彼等が喰べている時に,イエスはパンを一片取り,祝福を述べた後に,そのパンを裂いて弟子達に与え,「取つて,喰べなさい。これは私の体を意味する」と言われた。また,杯を取つて,感謝を捧げてから,彼等に与え,「あなた方すべての者は,この杯から飲みなさい。何故ならば,これは『契約の私の血』を意味する。私の血は,罪の赦しを得させようと,多くの人々のために注がれるのである。』― マタイ 26:26-28,新世。
『これは私の体を意味する。』とイエスが言つた時に,どんな体について,彼は指していましたか? 使徒パウロは,私達の理解を広めて,このように申して居ます『私達がさくパン,それはキリストの体と共に分け合うことではないか? パンは一つであるから,私達は,多くの人数であつても一つの体である。私達は皆その一つのパンに共に与るのである。』(コリント前 10:16,17,新世)そうです。クリスチャン,ギリシャ語聖書全巻を通じて多くの場合に,クリスチャン会衆は,『キリストの体』として示されています。―ロマ書 12章4,5節。コリント前書 12章12-17節。エペソ書 1章22,23節。コロサイ書 1章24節を見なさい。
主の夕食で杯を飲むことについて,使徒パウロはまた書きました。『私達が祝福する祝福の杯,それはキリストの杯と共に分け合うことになることではないか?』(コリント前 10:16,新世)しかし,或る人はこのように言うかも知れません。イエスの血は,新しい契約を確実なものとし,また多くの人のために罪のゆるしを得させようとして流されたのに,イエスの追随者達がその杯に共に分け合うとイエスは,どうして言えるのであろうか? 何故ならば,大きな意味で,杯はイエスに対する神の御意を表わしたからです。その神の御意は苦しみと死を意味しました。ゲッセマネの庭で,ペテロに語つたイエスの次の言葉を記憶してください。『父が私に与えられた杯を,私はどうしても飲まなければならないだろうか?』 またイエスの体の成員が,その杯を飲むことに共に分け合うということについては,ヤコブとヨハネの二人の使徒に,イエスは次のように語つてその点を明白にしました。『私が飲んでいる杯を,あなた方は飲むであろう。私が洗礼されている洗礼を,あなた方は受けるであろう。』― マルコ 10:39。ヨハネ 18:11,新世。
しかし,イエスが苦しんで死ぬだけが神の御意ではなく,イエスが死から甦えされ,神の右の座に高められるのも神の御意でした。それですから,杯がまた,『救いの杯』と名づけられるのは適当なことです。(詩 116:12-15)このことが,キリストの体にも適用されると,パウロは明白に示しています。『若し私達が彼と一致して,彼の死に似るならば,私達は必ず彼と一致して,彼の復活にも似るであろう。』― ロマ 6:5,新世。
誰が与るのですか?
主の夕食の時に,誰がパンと杯に与ることが出来ますか? 誰でもクリスチャンであると自称するならば,その人の知識,その人の神とキリストとの関係,その人の行為などは問題にすることなく,皆与ることが出来ますか? 全然そうではありません。与ることは,重大なことです。そして与る価値もなく資格も無い者が与る時,その人はヱホバの裁きを受けます。この点についてのパウロの言葉に注意してください。『それであるから,ふさわしくない方法で,パンを食べ,主の杯を飲む者は,誰でも主と体と血に関して罪を犯すものである。最初に,人は自分で良く調べた後に決定させ,それから,パンを食べさせ,杯を飲ませなさい。何故ならば,体を見分けずに食べたり飲む人は,自分自身に対しての裁きを食べ,飲むからである。それであるから,あなた方の中の多くは弱く,そして病気に罹つて居り,沢山の者が死に眠つているのである。しかし,私達が何であるかを見分けるならば,私達は裁かれないであろう。』― コリント前 11:27-31,新世。
今日では,キリスト教であると自称する多くの人は,実際に主の夕食の或る形式を行つて居ります。たとえば,1年に一度,3ヵ月に一度,週に一度,またミサの如く毎日しているところもあります。しかし,このことにも拘らず,キリスト教国は霊的に病気です。それはパウロの予言の通りです。(テモテ後 3:2-5)霊的な病気がそのように広く弘まつているということは,多くの者が主の夕食を正しく行つていないということを間違いなく示すものです。それでは,誰がどのような条件の下で与ることが出来ますか? パンと杯に与ることは,ヱホバの御名の立証と人間の救いに関して神とキリスト・イエスが何を為されたかを認識することを意味するばかりでなく,またキリストの体の成員としてキリストの苦しみと死に与ることをも意味します。それですから,キリストの体の成員であると自ら明らかに示し得る者だけが,正しく与ることが出来ます。
パウロのように,次のように言える者だけが与ることが出来ます。「聖霊それ自身,私達が神の子達であることを,私達の霊とともに証しを立てているのである。』そうです。神と,キリストの贖いの犠牲に信仰を置き,神の御意を行うのに自らを献身した者達,そして,聖書の研究と神が彼等と交渉を持たれたことに基いて,キリストと共に天的栄光に与るという希望を自らの中に目覚めさせた者達に就いて,使徒ヨハネは次のように書きました。『愛する者達よ,今や私達は神の子達である。しかし,私達がどんなになるかという事については,明らかにされていない。彼が明らかに現われる時に,私達は彼のようになるということを,私達は知つている。何故ならば,ありのままの彼を見るからである。』― ロマ 8:16。ヨハネ第一ノ書 3:2,新世。
しかしながら,このような者であつても,自らを調べ彼等に要求されていることに正しく従い行つているかどうかを確めなければなりません。象徴だけに与つたところで,それは従順な行為という以外に何んら特別の価値はありません。それですから,之等象徴の表わし示すものに正しく従つて行わずに,パンと杯に与る人は,偽善という罪を犯します。数え切れない程多くの人々が,神の子達であると自称して,死んだ時に天へ行く希望を持つて居ますが,神の言葉は黙示録 7章と14章で,天でキリストの御座と共に分け合う数は,僅か14万4000人であると述べています ― 黙示 20:5,6。
天的希望を持つ之等のクリスチャン達だけが,主の夕食に正しく与ることが出来ますので,1953年にヱホバの証者のした記念の祝いに出席した74万2565人の中,僅か1万9183人だけがパンと杯に与りました。与らない者達は,『手に棕梠の枝を持つて』御座の前に立つているとヨハネが見た大いなる群集の者であると自ら認めました。即ち『この檻のものではない,他の羊』とイエスが述べた者達です。その『羊』とは,キリストの兄弟達に善を行い,その希望は天にあつて神の不滅の生命ではなく,地上楽園での永遠の生命です。彼等は,地上の楽園で,アダムとエバに与えられた最初の目的を遂行する特権を持つでありましよう。すなわち,『正しい民族で地を充し,地を治め,下等の動物を支配しなさい。』― 創世 1:28。マタイ 25:31-46。ヨハネ 10:16。コリント前 15:53,54。ペテロ後 1:4。黙示 7:9; 21:4。
今年,ヱホバの任命した証者達と彼等に交る善意者達は,4月17日午後6時過ぎに集会して,主の夕食を祝い,キリストの死を記念します。そして,親愛なる読者,あなた方がキリスト体の成員であろうと,或いは貴方の希望が地的なものであろうと,貴方は出席して,豊かな祝福を受けるよう招待されて居ます。