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神は「死んで」はいないものみの塔 1972 | 11月15日
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の名と真の崇拝を大いに気づかっておられます。また,『神の在すことと神の己を求むる者に報い給ふこととを信ず』る人すべてに関心をいだいています。―ヘブル 11:6。
21 キリスト教世界で起きている事がらから衝撃を受けている人たちは何をすべきですか。
21 あなたは,多くの教会員が従っている僧職者の行なってきた嫌悪すべき事がらから衝撃を受けていますか。では,そのような人たちとの交わりをいっさい捨てて,神に専心の献身をしてください。あなたは,神が物事を見ており,また生ける神としてご自分に頼る者にまさしく報いを与えるかたであることを確信できるでしょう。
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読者からの質問ものみの塔 1972 | 11月15日
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読者からの質問
● エホバの証人は死刑をどのようにみますか。―アメリカの一読者より。
エホバのクリスチャン証人は,死刑に関する神の見解として聖書が述べていることを支持します。エホバの証人は次のことを認めています。すなわち人間の創造者であられるエホバ神は,人が命を享受し続けるために従わねばならない律法を定める絶対的な権利をお持ちであるということです。従って,ある人びととが常習的に罪を犯してそれをやめないために死の刑罰を受けるに値する,と神が決定なさるとき,神は人々の命を正当に取ることがおできになります。神によって執行された死の刑罰の二つの著しい例として洪水による不従順な人類の滅びそして,また後日のソドムとゴモラの滅びがあります。―ペテロ後 2:5,6。
立法者,審判者,また最高主権者であられるエホバ神は,律法違反者に死刑を執行する権能を,ほかの者たちに委任することもおできになります。例えば,ノアの日の洪水ののち,エホバは故意に人を殺した者に死刑を執行する権能を人間にお与えになりました。こう述べられています。「凡そ人の血を流す者は人其血を流さん其は神の像のごとくに人を造りたまひたればなり」。(創世 9:6)殺人者を処罰することにより,人間の権威は「神の役者」,「悪をなす者に怒をもて報ゆる」者として行動することになります。―ロマ 13:4。
もとよりある人は,神のみことばの中で死罪として示されていない行為をしたかどで,人を正当に処刑できるかどうかに疑問を持つかもしれません。それは政府が神のみ前に負わなければならない責任です。しかし,殺人者のために死の刑罰を定めている政府は罪を犯していると言える聖書的根拠はありません。神の見解は,だれかほかの人の命を故意に取る者は,彼自身の命が取られるということです。しかし今日,死刑に関する神の見解を捨てている政府は少なくなく,このことが,増加する犯罪と暴力行為の一因となっていることは疑いありません。
● 名親に立ったり,自分の子どものために名親を定めたりすることは聖書的ですか。―アメリカの一読者より。
厳粛なバプテスマ,そして後日行なわれる堅信礼の際に,幼児または子どものために,親以外の人をひとりあるいは数人名親に立てるという習慣は,カトリック教会の儀式です。この習慣は,洗礼や堅信礼を受ける成人にもあてはまります。
幼児洗礼の際に,名親(たいてい洗礼を受けている親族か友人)は,「子供の名において,神の教会からの信仰」を願い求めるのです。(カトリック百科事典)名親はまた,子どもの名において,信仰の告白と宣言を行ない,洗礼を願い求めます。親が怠慢,つまりカトリック信仰のうちに子どもを育てなかった場合,信仰と道徳に関して,子どもに教える義務が名親に課されます。
堅信礼(洗礼のように,秘跡とみなされる)の儀式の際に,子どもの洗礼のときに指名された名親とは違う別の人ひとりあるいは数人が,名親に立ちます。男女を問わず,その人はカトリックの信仰に精通した人でなければなりません。
この習慣に対する聖書的な立場はどんなものですか。何よりもまず,幼児洗礼は非聖書的なものです。「私のことばに耳をかたむけて……知(る)」ことと,「くいあらためる」こととは,水のバプテスマに先行するものであり,またその水のバプテスマは,本人に厳粛な決定をくだすことを要求するものであるため,当人は自らこれらのことを行ないうる年齢に達していなければならないことは明らかです。(使行 2:14,38,41,バルバロ訳)使徒パウロがこう書いたのもそのためです。「人は心で信じて義とせられ,ことばで宣言して救いをうける」。(ロマ 10:10,バルバロ訳)幼児や小さな子供はそうすることはできません。従って,幼児洗礼は聖書の教えではありません。
そのうえ,だれもほかの人のために,実際に心で信じたり,口で宣言することはできません。従順な未成年の子どもが,忠実な親のゆえに,「清い」と使徒パウロが指摘しているのは確かです。その理由は,神が,子どもに対する責任を,外部の人にではなく,親にゆだねておられるからです。(コリント前 7:14)このように神は,ご自分のしもべたちのために,親切な備えを設けておられます。しかし,そうした子どもが,責任を負える年齢に達したときには,もはやこの取り決めによって保護されることはありません。各自は自分自身の信仰に従って,立つか,あるいは倒れることになります。―ロマ 14:4。エゼキエル 18:20。
使徒パウロがコリントの会衆にこう語ったのは事実です。「あなたたちに,キリストにおける守役が一万人あっても,多くの父を持っているはずはない。実に,福音によって,あなたたちをキリスト・イエズスにおいて生んだのは,私である」。(コリント前 4:15,バルバロ訳)しかしパウロは,この会衆に対していかなる「名親」でもありませんでした。かえって,彼は最初福音を彼らに伝え,それによって彼らは信者になったということです。―コリント後 11:3,13。
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