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十戒 ― 神からのもので人間のものではないものみの塔 1961 | 4月15日
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に書かれたエジプト人の「死人の本」の中には,殺人もしなかったし,盗みもしなかった,姦淫も犯さなかった。また偽りのあかしをもたてなかったと自分の美徳を述べ立てている箇所があります。
これら最後の五つのいましめの配列は,きわめて意味深いものです。それは,隣人になされる害の程度が最も大きいものから小さいものの順にならべられています。それで第六番目のいましめは,隣人の生命を取ることを禁じ,第七番目は隣人の妻,第八番目は隣人の所有物を取ることを禁じます。第九番目は,行為でなく言葉についてのいましめであって,隣人に対して偽りの言葉を語ることを禁じています。そして第十番目のいましめは,隣人に対する利己的な考えを禁じています。この最後の律法も,十戒だけにある独特のものです。むさぼることを禁ずる法律をつくるなどということは,人間や立法者たちの想像もつかぬことでした。なぜですか。なぜなら,人間にはその法律を施行する手段がないからです。しかし,エホバはそれを十戒の一部にしました。なぜ? なぜなら,それによって,隣人に関する他のいましめを破る根本原因,すなわち利己主義をついたのです。人間には,そのような法律を施行することができません。しかし,その律法を与え給うたエホバ神は,御自分の民のひとりびとりをして,いわば精神的な警官あるいは道徳的な警官にならせました。つまり,各人をして神に責任を負わせ,隣人の所有物をむさぼるという気持を起こさせなかったのです。
十戒は,その最初から終りにいたるまで,その規定と配列の両方から見て,エホバ神がその著者であることを明白に示しています。すると,クリスチャンは今でも十戒にしばられている,という意ですか。かならずしもそうではありません。神は御自分の律法をつくると共に,廃止することもできます。十戒は,モーセの律法集にある約600の他の律法や,石打ちのような罰とともに,エホバ神によりイエスの苦しみの杭に釘づけられました。それで,クリスチャンたちは十戒から自由に解放されたのです。クリスチャンは,「律法の下におらず,過分の御親切の下にいる」。クリスチャンは,正義のための力として,神の霊と愛を持っています。しかし,十戒の基礎的な原則は取り消されていません。それはいまでも適用できます。これらの原則が,クリスチャンたちに対する神のいましめの中にどう現われるかは,この雑誌の後日の号に掲載されるでしょう。―ロマ 6:14; 13:8-10。エペソ 2:14-16。コロサイ 2:16,17。
参照
1 宗教と倫理の百私辞典(英文)
2 モーセの五書とハフトラ,出エジプト記(英文)
3 ムーア対ストリックリング(1899年)(英文)
4 クラーク著「聖書の法律」(英文)
5 エジプトの昔の記録 ― ブレステッド(英文)
6 書物の中の書物: 紹介 ― エス・ゴールドマン(英文)
7 考古学と聖書歴史,フリー(英文)
8 考古学と聖書 ― バートン(英文)
9 世界ユダヤ教百科辞典(英文)
10 再建の基礎 ― イー・トループラッド(英文)
11 近東研究誌 ― ジー・イー・ライト(英文)
12 古代過去からの光 ― フィネガン(英文)
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たくみさは良い結果を生むものみの塔 1961 | 4月15日
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たくみさは良い結果を生む
香港には,家から家の伝道をはばむようないわば関所がたくさんあります。最近特別開拓者の兄弟は,新しいことに出くわしました。―戸口に「仏教徒の家族,伝道者おことわり」というはり紙がしてあったのです。ベルをならすべきでしょうか,それとも次の家に行くべきでしょうか。開拓者はベルをならして証言することにきめました。若い娘さんが出てきて,家族は本当に仏教徒で,特にお父さんがそうだと言いました。それでその前の週にモルモン教の伝道者たちを追いかえし,それから戸口にことわりがきを出したということでした。その証者は自分はモルモン教のものではないと説明し,聖書のことを話しました。その時怒った顔をして,娘さんの両親が出てきました。証者は彼らの方を向いて親切に,伝道のわざのことを説明しました。その人たちは怒りをやわらげ,友好的になってきました。聖書に興味はなかったのですが,娘さんがきくのはかまわないと言いました。それで開拓者は御国の聖書の話を続け「神を真とすべし」を提供し,彼女はそれをとり,再訪問の取り極めをしました。そして次に訪ねた時には,戸口にことわりがきが出ていませんでした。
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