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  • 罪 ― もはやどうでもよいことですか
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1981
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1981
塔81 2/1 3–4ページ

罪 ― もはやどうでもよいことですか

「我々は国家として『罪を犯すこと』が20年ほど前から,公式にはなくなった」。これは,カール・メニンガー博士が自著「罪は一体どうなったのか」の中で述べた言葉です。同博士は,米国大統領が国家の憂慮すべき主要な事柄として罪に言及したのは1953年の声明が最後であることを指摘しています。

東洋では,罪の概念は面子や孝心のようなものほど,一般に重視されていません。しかし西洋では,かつて非常に重要なものとされていました。罪を犯したとの非難を受けるなら,それは極めてゆゆしい問題でした。今日では,事情は変わってきているようです。自分は罪を犯したと人々が言う場合,顔に半ば笑いを浮かべているのが普通です。罪はもはや恐ろしいものではなくなっています。そうみなして然るべきですか。

罪とは一体何のことでしょうか。もはやそれさえはっきり分からない人が少なくないのが実情です。昔は,誇り・貪欲・欲情・怒り・大食・そねみ・怠惰といった“七つの大罪”が挙げられました。今日では,こうした傾向がごく普通に見られるように思えます。国家の誇りや民族の誇りという形で,誇りを持つことが勧められています。多くの裕福な国々では,人々の間に貪欲・そねみ・大食などがある程度なければ,消費型の社会は成り立ってゆかないでしょう。宗教指導者の中にさえ,姦淫・同性愛・淫行など欲情の様々な表われを容認したりする者がいます。また,テレビのような現代の発明品のために,人々はますます怠惰になっています。

だれの見解?

『自分の良心を導きとしている限り,罪を犯すことはない』と言う人が時々います。わたしたちの良心が善悪を識別するための神から与えられた助けであることは事実です。もし良心というものがなかったなら,人間社会はずっと昔に抜き差しならない混乱と暴虐のふちに沈んでいたことでしょう。―ローマ 2:14,15。

しかし,良心も人を欺くことがあります。例えば,殺人が罪であることを認めない人はほとんどいないでしょう。ところが,ヒンズー教の女神カーリーの崇拝者や中世のローマ・カトリックの異端審問官の間では,殺人が宗教によって正当化されました。イエスはご自分の追随者たちに,「あなたがたを殺すものがみな,自分は神に神聖な奉仕をささげたのだと思う時が来ようとしています」という警告の言葉を語られました。(ヨハネ 16:2)今日でさえ,年間5,000万人の胎児が中絶という手段によって殺されています。しかも,法律でそれが認められている国さえ多くなっています。

さらに,自分の良心をゆがめる恐るべき能力を有している人がいます。ある政治家について言われたように,そうした人々は良心を“導き”とするのではなく,自分の“従犯者”に仕立ててしまうのです。例えば,大抵の人は確かに盗みを罪とみなしています。特に,自分のお金が盗まれた時はそうです。ところが,米国では,ビジネス犯罪が最大の犯罪問題の一つになっているのです。これには,窃盗・保険金詐欺・贈収賄・不法リベートなどが含まれます。幾百万人ものごく普通の人がこうした犯罪に手を染めています。そうした人たちの良心は痛まないのでしょうか。痛まないようです。一体なぜですか。恐らくそれが露見しないから,あるいは「だれもがしていることだから」というのがその理由でしょう。

ですから,何が罪であるかを識別するのに良心は相応の役割を果たしはしますが,良心にも導きが必要なようです。では,どこからその導きを得ますか。この問題の権威者を任ずる者たちは,自ら矛盾を抱えていたり,互いに意見を異にしていたりすることが少なくありません。

例えば,ローマ・カトリック教会では,一時期,金曜日に肉を食べることが罪とみなされていました。今日では,ほとんどの金曜日の場合に,罪とはみなされていません。『当時と今と何が違うのか』と,多くの人は疑問を抱いています。

同じカトリック教会の見解によると,家族の規模を制限する目的で「人為的な」手段を講じることは重大な罪であるとみなされています。しかし,カトリック教徒をも含めた多くの人々は,地球の人口の爆発的な増加を驚きの目をもって見ており,今では異なった考え方をしています。これらの人々は恐らく,カール・メニンガー博士の次の言葉に同意することでしょう。「無情で冷淡で,産児制限の面で無策であること,あるいはそれがもたらす世界的な影響に無知であったり無関心であったりすることは,わたしにとって最も忌まわしい罪の表われに思える」。人口の増加を抑制することと促進することのどちらが罪でしょうか。

こうしたことに災いされて,人々の考えは混乱しています。米国のローマ・カトリック教徒を対象にした最近の一調査で,「ほとんどのカトリック教徒に,何が罪であるかに対する明確な観念のない」ことが明らかになりました。「何が罪かについて考えが混乱して」おり,「何を告白してよいのか分からない」と語る人は少なくありません。

識者の中には,もはや罪など存在しないのではないかと問う人さえいます。そうした人々は「罪」よりも「病気」という言葉を好みます。信奉者を大量自殺に追いやったジム・ジョーンズに関する一神学者の次のような言葉がタイム誌に引用されました。「ヒトラーやジョーンズのような人物は実際には単なる精神病者であったものと思う。示すべき唯一の反応は,道徳的憎悪感ではなく,当事者双方に対する哀れみであるように思える」。

本当にどうでもよいことか

見解がこのように様々に異なっていることからして,罪はもはやどうでもよいことなのでしょうか。自分の家族や隣人のことを気遣っているのであれば,また将来に希望を抱き,幸福で満足のゆく生活を現在送ることを願っているのであれば,「そうではない」と答えねばなりません。

「罪」とは,「宗教上の律法または道徳規範に対する違背」と定義されることがあります。「宗教上の律法」という言葉は,何が罪であるか,また罪をどのように避けるべきかを正当な権威をもって語ることのできる方は実際,真の宗教の創始者であられるエホバ神お独りであるという事実を思い起こさせます。エホバ神は特定の道徳律に従って生活するよう人間を創造されました。わたしたちが重力の法則など自然の法則を破るなら,身に危害を招きかねません。同様に,神の道徳律を破るなら,つまり罪を犯すならやがては同じ結果を招くことになるでしょう。聖書はわたしたちにこう警告しています。「惑わされてはなりません。神は侮られるようなかたではありません。なんであれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです」― ガラテア 6:7。

個々の人に罪がもたらす悲惨な結果はエゼキエル 18章4節(新)の「罪を犯している魂 ― それは死ぬ」という言葉に示されています。箴言 14章34節(新)には,国家全体に対する悪い結果がこう記されています。「義は国民を高めるが,罪は国々の民にとって恥ずべきものである」。

そうです。罪は決してどうでもよいことではありません。自分自身の益のために,何が罪かを識別し,それを避ける方法を学ばなければなりません。どのようにそれを行なえますか。続く記事の中でその点を考慮してみることにしましょう。

ダビデ王は言いました。「ご覧ください,とがと共にわたしは産みの苦しみを持って産み出され,罪のうちにわたしの母はわたしを宿しました」― 詩 51:5,新。

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