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  • ひそかな過ちを克服するため,神の助けを受け入れなさい
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1985
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1985
塔85 4/15 15–20ページ

ひそかな過ちを克服するため,神の助けを受け入れなさい

「自分に力を与えてくださる方のおかげで,わたしは一切の事に対して強くなっているのです」― フィリピ 4:13。

1 心配事のあった一人の父親は何を求めましたか。

その子はてんかんでした。a 口から泡を吹き,体がけいれんし,水や火の中に倒れ落ちることがありました。心を痛めていたその父親は,病気を治すので有名なある男の人を探し出しました。その人の能力に対する確信が欠けていたように思えた時,父親は,「私には信仰があります! 信仰の必要なところで私を助けてください!」と叫びました。

2 神が,過ちを克服するようわたしたちを助けたいと望んでおられることを,どうして確信できますか。

2 わたしたちは,イエスの助けを求めたこの父親からあることを学べます。この父親は,自分の信仰に欠陥があるかもしれないことを認めましたが,イエスが助けたいと望んでおられることも確信していました。たとえひそかな過ちであったとしても,わたしたちが自分自身の過ちに直面し,それを克服しようと努力するときにも,そのような態度を取ることができます。エホバ神が過去において他の人々を助けられたように,わたしたちを助けたいと望んでおられることを信じることができます。(マルコ 1:40-42と比較してください。)例えば神は,満ちあふれるほど持つことやともしいことから生じ得る過ちに対処するよう使徒パウロを助けました。貧しい人は富を渇望するかもしれず,富んだ人は,独善的に自分の成功をよりどころにし,所有物の少ない人々を見下げる失敗を犯すかもしれません。(ヨブ 31:24,25,28)パウロはどのようにこのような過ちを克服し,あるいは退けましたか。「自分に力を与えてくださる方のおかげで,わたしは一切の事に対して強くなっているのです」と,パウロは述べています。―フィリピ 4:11-13。

3 わたしたちが,自分の弱さに打ち勝つよう努めるのはなぜ賢明なことですか。

3 わたしたちの過ちが今のところひそかなものだからといって,それを無視したりせず,神の力に頼りつつ,その過ちに打ち勝つよう努めるのは賢明なことです。詩編作者はエホバについて,「神は心の秘密を知っておられる」と述べました。(詩編 44:21)もしわたしたちが自分の過ちを克服しないなら,その過ちは表面化して,より大きな損失を被ることになるかもしれません。次の原則が適用されます。「ある人たちの罪は公に明らかで直接裁きに至りますが,そのほかの人の場合も,その罪はおって明らかになります」。(テモテ第一 5:24)エホバを喜ばせたいと願うクリスチャンが注意を払うに値する二つの一般的な過ちについて調べてみましょう。

性的欲望に関するひそかな過ち

4,5 (イ)聖書は,性的欲望についてどのような平衡の取れた見方を示していますか。(ロ)性的欲望に関し,聖書にはどんな警告が収められていますか。

4 神の最も優れた賜物の一つに,生殖力と生殖の欲望を伴う結婚があります。(創世記 1:28)結婚関係の中で表わされる性的欲望は自然なものであり清いものです。聖書は,自分の配偶者との間で性的な楽しみを見いだすことを勧めています。(箴言 5:15-19)しかし,性的欲情を制御せずにほうっておいてはなりません。比較として,食欲のことを考えてください。食欲が再び生ずるということは,食物に対する過度の渇望を培うべきであるとか,いつ,どこで,どのように食べるかに関して自制を働かせる必要はないとかいう意味ではありません。―箴言 25:16,27。

5 パウロはかつて結婚していたのかもしれませんが,それゆえに配偶者間の正常な性的表現が適切であることを知っていました。(コリント第一 7:1-5)したがってパウロは,「ですから,淫行,汚れ,性的欲情,有害な欲望,また強欲……に関して,地上にあるあなた方の肢体を死んだものとしなさい」と書いた時,別のことに言及していたに違いありません。(コロサイ 3:5)パウロの言葉は,結婚に関係した適切な状況や方法以外の性的表現のことを意味していたに違いありません。同使徒はさらにこう述べました。「あなた方一人一人が,自分の器をいかに聖化と誉れのうちに所有すべきかを知り,……貪欲な性欲のままに歩まないことです」。(テサロニケ第一 4:4,5)霊感によるこの率直な諭しは,結婚しているクリスチャンにとっても,独身のクリスチャンにとっても有益です。

6 クリスチャンが自涜を避けるのはなぜ正しいことですか。

6 そのような「肉欲の渇望」(テサロニケ第一 4:5,ヘンリー・アルフォードによる「英語を読む人のための新約聖書」)がしばしば示されるのは,人が自分の性器を刺激し,それによって快感を得ようとするときです。これはマスターベーション,あるいは自涜と呼ばれています。これは,独身男女の間でごく一般化しているものですが,既婚者でそれを行なっている人も少なくありません。そのように一般化しているため,多くの医師はマスターベーションは正常なもので有益でさえあると主張します。しかし,この行為は「貪欲な性欲」を非とする神の諭しに逆らうものです。イエスがお与えになった幾つかの諭しを考慮すれば,なぜそう言えるのか,またクリスチャンはなぜその習慣を克服すべきかがよりよく理解できます。

7 マタイ 5章28節は,マスターベーションを断つべき別の理由をどのように示していますか。

7 イエスは,「女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな,すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです」と言われました。(マタイ 5:28)姦淫に関する情欲的な考えが,往々にして不道徳行為の前触れとなることをイエスはご存じでした。ところが,マスターベーションを容認する人でさえ,この行為には普通,性的な空想が伴うことを認めています。「十代の若者と話し合う」という本は,若者が「マスターベーションから得られる快楽に意識的に注意を集中していること」について述べたあと,こう付け加えています。「若者は,性的に激しく興奮した状態にいる自分自身を,あるいは同性の相手,それに教師,親族,場合によっては[親]のような年上の人々と共にいる自分自身を想像しているのかもしれない。性的な暴行について空想することもあるだろう。これらはみな全く正常なことである」。しかし,そうでしょうか。『心の中での姦淫』に関するイエスの警告や,「貪欲な性欲」を非とするパウロの諭しに照らしてみるとき,クリスチャンはどうしてこのような空想やマスターベーションを「正常」と考えることができるでしょうか。そうです,若者と成人,独身者と既婚者,そのどちらによるものであろうと,そのような空想や自涜は克服する必要があるのです。

人のいないところで犯されるこの過ちを克服する

8,9 どんな事実を認識することは,マスターベーションの習慣を断ち切るための助けとなりますか。

8 もしクリスチャンがこのひそかな過ちを犯しているなら,それに打ち勝ち,『自分の器を聖化と誉れのうちに所有する』ために何を行なえますか。(テサロニケ第一 4:4)神はそのみ言葉を通して,価値ある助けを備えておられます。

9 まず第一に,エホバが規準を持っておられることを認めるのは大切です。エホバは,淫行であれ姦淫であれ,結婚関係外の性は悪であることを明らかにしておられます。(ヘブライ 13:4)したがって,神の道が最善であることを信じているなら,わたしたちは結婚関係の範囲内においてのみ,性的表現という満足をもたらす報いを求めます。(詩編 25:4,5)E・アットウォーター著「青年期」と題する本は,若者はマスターベーションに関し,一様に『ためらい,戸惑い,不安』を示すと指摘しています。そこに挙げられている一つの理由は,『マスターベーションには,性交に伴う愛ある関係の親密さが欠けている』ことです。確かに,愛ある結婚関係内で表現できるようになる時まで性的欲望を制することには益があります。

10 その習慣を克服するための助けとして用いられる方法にはどのようなものがありますか。

10 神のみ言葉は,次のように諭して,付加的な助けを備えています。「何であれ真実なこと,何であれまじめなこと,何であれ義にかなっていること,何であれ貞潔なこと,……何であれよく言われること,また何であれ徳とされること……があれば,そうしたことを考え続けなさい」。(フィリピ 4:8)欲情をかき立てる絵や写真や不道徳な小説は,明らかに『貞潔でよく言われること,あるいは徳とされること』ではありません。しかし,マスターベーションを行なう人々はそのような絵や写真や小説をしばしば用います。ですから,この過ちを克服することに決めた人は皆,そうした欲情をかき立てるものを完全に避けなければなりません。経験の示すところによると,以前マスターベーションに陥ってしまった時と同じようにして,人の欲望が欲情をかき立てるものに向けられ始めたなら,意を決して,義にかなっていることと貞潔なことに思いを集中することによりその欲望を鎮めることができます。このことは,人が独りでいたり,暗がりにいたりするときに特に大切です。自涜というひそかな過ちは大体において,そうした状況のもとで犯されるのです。b ―ローマ 13:12-14。

11 この過ちに対処する面で有益であることが実証された付加的な事柄について述べてください。

11 それに関連した一つの助けは,次の訓戒と調和して絶えず積極的であることです。「あなた方は,自分の歩き方をしっかり見守って,それが賢くない者ではなく賢い者の歩き方であるようにし,自分のために,よい時を買い取りなさい。今は邪悪な時代だからです」。(エフェソス 5:15,16)行なうべき積極的な事柄について,信頼できる円熟したクリスチャンの友に提案を求めてください。(イザヤ 32:2)この過ちを克服した多くの人は,気遣ってくれるクリスチャンが自分たちの進歩を確認してくれるのを知り,それが自制心を培う助けになったと述べています。もとより,わたしたちに最も近い信頼できる友はエホバであるはずです。ですから祈りのうちにエホバに頼り,その助けを求めるのは肝要なことです。(フィリピ 4:6,7)この過ちとしばらくのあいだ闘っていた人が万一『つまずく』としても,神に力を願い求めることができます。そうすれば,再び努力を傾けることができ,今度はもっと長い期間にわたって,新たな成功を収めることができるでしょう。―ヘブライ 12:12,13。詩編 103:13,14。

アルコールの誤用と闘う

12 クリスチャンはアルコール飲料についてどのような見方をしますか。

12 『神と人とを歓ばせるぶどう酒』と,聖書の一節は述べています。(裁き人 9:13)あなたも同じ意見かもしれません。アルコール飲料は多くの人にとって気分をくつろがせる助けとなり,楽しみの源となってきました。(詩編 104:15)しかし,アルコールを用いると身体的にも道徳的にも危険が臨み得ることを否定する人はほとんどいません。大きな問題となるのは正真正銘の酩酊です。この過ちが非常に由々しいものであるため,大酒飲みは会衆から追放され,王国から締め出される,と神は警告しておられます。(コリント第一 5:11-13。ガラテア 5:19-21)クリスチャンはこのことを知っており,酩酊を避けなければならないことに同意するでしょう。しかし,酩酊は別にして,アルコールの用い方がどのようにひそかな過ちとなることがありますか。

13 どのようにアルコールに依存するようになるか,例を挙げて説明してください。

13 クリスチャンは節度を保つ限り飲酒することはできますが,それでも由々しい過ちに陥ることがあります。一人の男の人の経験を考慮してみてください。この人のことを仮にハインツと呼ぶことにしましょう。

この人と妻と子供たちは真のクリスチャンとなり,地元の会衆で非常に活発でした。やがてハインツは長老として任命され,その都市の幾つかある会衆の中でも「柱」とみなされるようになりました。(ガラテア 2:9)無理のないことですが,この兄弟は自分の子供を育てる面で圧力に直面し,群れを世話することについて幾らかの心配を抱くようになりました。(コリント第二 11:28)ところが,この兄弟が勤めていた会社は発展しており,上司はこの兄弟に数々の問題や決定を扱わせたいと考えたので,仕事が多大の圧力となりました。

極度の緊張を感ずる日が幾晩もありました。そして,一,二杯酒を飲むと気分が和らぐのに気づきました。もちろん円熟したクリスチャンですから,ハインツは深酒や酩酊を注意深く避けました。晩には緊張をほぐすために幾らか酒を飲みましたが,日中はアルコールを必要としませんでしたし,食事の時にいつも飲んでいたというわけでもありませんでした。『大酒にふける』ということで知られていたわけではないのです。―テモテ第一 3:8。

突然ハインツはヘルニヤの手術のために入院しました。異常な兆候が幾つか表われました。その原因は何でしたか。医師団が,ハインツは禁断症状に陥っているという診断を下すのに長い時間はかかりませんでした。そうです,この兄弟の体はアルコールに依存するようになっていたのです。このことは家族にとって驚きでしたが,家族はその兄弟を助け,アルコールを完全に避けるというその決意を支持しました。

14 どんなことのために,アルコール飲料によってあざけられる結果になり得ますか。

14 ある人々は,自分の生活の中でアルコールが普通以上の役割を担っていると感じ,どれほどの量,またどれほど頻繁に飲むかを家族や友人に悟られたくなくて,飲酒のことを隠そうとします。アルコールに依存していると感じていないとしても,飲酒が日々の中心になっている人もいることでしょう。どちらの範ちゅうに属する人々も,場合によっては深酒をする,あるいは隠れたアルコール中毒者になるという大きな危険を冒しています。次の箴言の言葉を考慮してください。「ぶどう酒はあざける者であり,酔わせる酒は騒がしい。それによって迷い出る者はみな知恵がない」。(箴言 20:1)要点となっているのは,飲み過ぎると人は騒がしく行動し,あざける者となり得るということです。しかし,ぶどう酒は他の意味でもある人をあざけるかもしれません。自分の飲酒は神から隠されていると考えるなら,その人はあざけりを受けるに値します。

15 コリント第一 9章24-27節のパウロの言葉は,クリスチャンのアルコールの使用とどのような関係がありますか。

15 神の霊の実の一つに自制があり,わたしたちはこれを生活のあらゆる面で必要とします。(ガラテア 5:22,23)パウロはクリスチャンを走者にたとえました。普通の競走では,走者はただ「朽ちる冠を得る」ために「すべてのことに自制を働かせます」。同様にクリスチャンも,はるかに大きな価値のある賞,つまり命を得るために『すべてのことにおいて自制』を示す必要があります。「他の人たちに宣べ伝えておきながら」アルコールに関係したひそかな過ちにまつわるような「何かのことで非とされるようなことに[決して]ならない」ために,わたしたちは『自分の体を奴隷として引いて行か』なければならない,とパウロは力説しました。―コリント第一 9:24-27。

16 アルコールが自分の場合に過ちとなっているかどうかをどのように見定めることができますか。

16 クリスチャンがこの過ちに対処する上で何が助けになりますか。飲酒者は他の人間から自分のやり方を隠せるかもしれませんが,神から隠れることはできないという点を認識するのは助けになります。(コリント第一 4:5)このように人は神のみ前で,自分の飲酒の習慣について正直に考えてみなければなりません。(ここで言っているのは,食事の際によく用いる飲み物としての少量のアルコールではなく,楽しみのための,あるいは酔うための飲酒のことです。)しかし中には,『でも自分は飲まなければいられないわけではない。ただ楽しんでいるだけだ。お酒は気分をくつろがせてくれる。その気になれば禁酒することができる』と言う人がいるかもしれません。では,深酒やアルコール依存の潜在的な危険を考え,一,二か月そのとおり禁酒をしてみてはどうでしょうか。あるいは,問題があることを否定する気持ちが非常に強いのですから,一杯飲むことが普通となっているあらゆる場合に,一か月間禁酒する決意をしてください。例えば,普段から,仕事が終わった後,床に就く前,あるいは社交的な集まりで一杯飲んでいた人は,それをやめることができます。そのようにして,自分がどう感じるかを調べることができます。それに困難を覚えたり,『気分がくつろがなかったりする』なら,その人は由々しい過ちに陥っています。

17 アルコールに関係した隠れた過ちに陥っているクリスチャンが,それに打ち勝つために努力すべきなのはなぜですか。

17 誠実なクリスチャンが,自分はアルコールに関する過ちに陥っていると神のみ前でいったん悟ったなら,その過ちを克服するのは比較的容易でしょう。「盗んだ水は甘く,ひそかに食べるパン[あるいは,ひそかに飲むアルコール] ― それは快い」と考えるのは『愚鈍の人』であるという聖書の言葉をすでに知っているかもしれません。しかし,箴言の述べるところによれば,そのような者たちは結局は死んだ無力な者となります。それとは対照的に,賢い人は戒めを愛し,喜んで『理解の道をまっすぐ歩むことにより,経験のない者たちを捨てて,生きつづけ』ます。(箴言 9:1,6,8,13-18)そうです,神は,前途にあるものを,結末がどうなるかをわたしたちに知らせることにより,ひそかな過ちを克服するための付加的な助けを備えてくださるのです。

神は,わたしたちがほかに人のいないところで行なうことに報いてくださる

18 ひそかな過ちを克服する時,わたしたちは何を確信できますか。(箴言 24:12。サムエル第二 22:25-27)

18 ある人々は,自分たちの悪い歩みが,人あるいは神の目に触れることを恐れて生活しています。わたしたちに関してはそのようであってはなりません。それよりもむしろ,何事も神からは隠すことができないという意識を持って生活しましょう。「まことの神はあらゆる業をすべての隠された事柄に関連して,それが善いか悪いかを裁かれるからである」。(伝道の書 12:14)わたしたちの過ち,隠れた過ちさえも克服するため,エホバの助けを受け入れましょう。そうすればわたしたちは,「闇の隠れた事柄」が明るみに出され,「心の計り事」が明らかにされる時を待ち望むことができます。「その時,人は各自神からの称賛を受けるのです」― コリント第一 4:5。ローマ 2:6,7,16。

[脚注]

a マタイ 17章14-18節; マルコ 9章17-24節; ルカ 9章38-43節は,悪霊につかれたためにそうした状態が生じたことを示しています。聖書は,このてんかんと,自然な理由で生じるてんかんとを区別しています。―マタイ 4:24。

b 睡眠中に,体は時々無意識的に射精を経験します。これは自然な現象であり,意識的な自涜と同じものではありません。

思い起こしますか

□ 神は,わたしたちが正そうと努力しているようなひそかな過ちについてどのように感じておられますか

□ 自涜を避けるべきことを,聖書中のどんな諭しが示していますか

□ クリスチャンはどのように,自涜の習慣を克服できますか

□ 聖書はアルコールの使用を非としていないのに,どうしてそれがひそかな過ちとなり得るのですか

□ ほかに人がいないときに犯されるアルコール飲料に関係した過ちに対処する際,どのような賢明な方法を取ることができますか

[17ページの囲み記事]

この人は自涜を克服した

年若い時のCは,性に対する感じ方は正常だったものの,一つの問題を抱えていました。13歳の時から,普通は寝室でこっそり自涜を行なう習慣があったのです。それを多少恥じる気持ちはありましたが,他の人に迷惑をかけているわけではないと考えていました。

19歳の時にはその習慣が根深いものとなりました。ある時Cはそれを司祭に告白しましたが,司祭から,それは悪いことだがそれほど深刻な問題ではないと言われました。軍隊に入ってからは,独りだけの時間をあまり持てなくなり,そのために自涜に訴えることはほとんどなくなりました。ついでながらそのことは,過去の習慣が,制御できない情欲の結果ではなかったことを示しています。

除隊になってからCは家に戻りました。そしてポルノ雑誌を買い始め,それらに刺激されて間もなく以前の習わしに戻ってしまいました。独り暮らしを始めてからは,性的な刺激を与えるものを持ち込むのが容易になりました。1日に数回マスターベーションを行なうこともしばしばでした。

それからエホバの証人の奉仕者との聖書研究が始まりました。不道徳行為に関する神の見方を学ぶにつれ,Cはポルノを買うことを恥じるようになり,自涜の習慣を断つことを願うようになりました。努力してみましたが一,二週間たつと性的な緊張を感じ,新聞スタンドに立ち寄ります。そして不道徳な資料によって気持ちがかき立てられます。家に帰ると,すでにもう失敗してしまったのだから,もう一歩先へ行ってもかまわないと感じます。その後,自責の念に駆られます。この悪習を断つことはどうしてもできないのでしょうか。

最後にCは,会衆の霊的な長老に話してみました。この奉仕者は同情心があり,Cの自制心を強める助けとなる,聖書に基づいた出版物を調べるよう助けてくれました。その奉仕者はさらにこう説明しました。

『欲望を1本の鎖のように考えてみてください。最初の輪は小さくて弱いものですが,輪がつながってゆくにつれ,それは大きく,強いものとなります。性的な衝動からマスターベーションに至る時もそれと同じです。ですから,できるだけ早くその衝動をとどめる必要があります。先に延ばせば延ばすほど,欲望は強まります。最後にはもうとどめられなくなります。そう,最初の鎖の輪を断つようにしてみましょう。性的な衝動を感じたらすぐに,何かを行なうのです! 立ち上がって姿勢を変え,靴をみがき,ごみ箱を掃除し,何かその鎖を断つことをするのです。聖書やキリスト教の出版物など,自分の考えを清い方向に変えるものを声を出して読み始めることができるかもしれません』。

この奉仕者は集会でCに進捗状況を尋ね,いつもほめて,その決意を保つよう励ましました。7週間Cは成功を収めていましたが,別の問題で挫折し,落胆した時に再び欲望に屈し,欲情を刺激する本を買って逆戻りしてしまいました。この出来事は敗北でしたが,その奉仕者はCに対し,闘いを続けるよう励ましました。成功を収めている期間はしだいに長くなり,9週間から17週間,そしてそれ以上になりました。このひそかな問題を乗り越えることができるというCの確信は徐々に強まってゆきました。

やっとのことでCは,自分が行なっていることすべてをエホバがご存じであるという事実を認めました。ですから,少しも汚れない良心をもって神に仕えることを望むなら,その習慣を自分の生活から完全に除き去ってしまわなければなりません。Cはそれを成し遂げました! 今この人はどれほどの期間成功が続いているかを思い起こすことさえできません。模範的なクリスチャンとして,Cは会衆内の責任を与えられ,神を賛美するための奉仕を増し加える計画を立てています。以前とは異なった人になったのです。

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