-
噂話を打ちつぶすものみの塔 1956 | 1月15日
-
-
(悪い疑惑や噂話の汚れでなく),すべて愛すべきこと(けいべつしたり,憎んだりしないこと),すべてほまれあること(名誉を傷つけず,悪しざまに語らないこと),また徳といわれるもの(悪ではない),称讃に値するもの(非難しない)があれば,それらのものを心にとめなさい。』― イザヤ 5:7-9。ピリピ 4:8。
20 質問 この研究の結論は何ですか?
20 噂話はサタンから始まりした。そのことを忘れてはなりません。噂話をしないように,注意しないさい。噂話は害をもたらします。ヱホバは噂話を禁じています。噂話の後にある悪い動機を見定めなさい。噂話で,あなたの舌も耳をも汚してはなりません。あなたが,ある人のした噂話の犠牲者になつたとしても,あなた自身噂話をしてはなりません。いつも真実の親しさと愛を持ち続けなさい。噂話をする人は真実の親しさもなく,また愛をも持つていません。そして,畏しく,かつ奇しくつくられた心を正しく取り扱いなさい。心を善で充しなさい。ヱホバの御言葉の乳と肉は,人間の心を養つて強めるものです。あなたの心を大きくして深めなさい。そして,滋味のある食物を感謝する程の円熟さを得なさい。噂話をする心は,浅い心であり,その頭は空つぽで,舌はおしやべりをします。心の中に何も無いおしやべりより,口数少くても多くのものを心に持つ方がずつと良いものです。私たちは噂話の悪をたしかに知つています。噂話をおさえつける仕方や,正しい舌の用法を知つています。弟子のヤコブは『人がなすべき善を知りながら行わなければ,それは彼にとつて罪である。』と言いました。(ヤコブ 4:17)ヱホバの律法を私たちの心の中にいれるならば,肉に根ずくこの罪に対しての戦うことができます。噂話をするために,神が私たちの生命を打ちつぶす以前に,私たちは噂話を打ちつぶさねばなりません。
-
-
その14 戦いは法廷にまで及ぶものみの塔 1956 | 1月15日
-
-
ヱホバの證者の近代歴史
その14 戦いは法廷にまで及ぶ
1933年以来のヱホバの証者の蓄音機による活動は,ラジオ検閲という手段に頼つていた彼らの激しい迫害者の計略の裏をかきました。しかし今度は,ものみの塔協会の宗教反対者たちは,証者の雷鳴をとどろかすような音を法律の手段に訴えてしずめさせようと迫つてきたのです。コネクチカット州の法廷で,二人のローマ・カトリック信者の告発により,ヱホバの証者は平和撹乱のかどで1938年4月26日有罪判決を与えられました。それは,ローマ・カトリックの教職制度の活動をあからさまに曝露した『敵』という名の判事ルサフォードの講演を,そのカトリック信者の面前でレコードにより,聞かせたからです。不当なる判決は上訴されて,合衆国の最高裁判所にまでその事件は持ち出されました。1940年,5月20日,最高裁判所の9名の判事(主席判事チャーレス・エブアンス・フューゲスを含む)は,こぞつて,ヱホバの証者に勝利の判決を与えました。法廷によると,すべての宗教,特にローマ・カトリックに対して強い攻撃を吹き込んだレコードをカトリック信者の前でかけても,合衆国の憲法に何ら触れるものでなく,平和撹乱罪も構成せず,また,その意図を持つものでもないことが明白にされました。法廷は次のよう述べました。
『宗教上の信仰と政治上の信念には,著しい相違が起ることがある。両方の分野においても,ある一人の信条は,彼の隣人から見ると許すべからざる誤りに見える。自分の見解に他人を説得するため,上訴者は ― 我々の知つているとおり,時に,大げさの形容を用いるが ― 教会又は国家において,著名であつた,又は現在そうである人々の悪口を云つた。あるいは,偽りの言明をなした。しかし歴史の教えるところにしたがつて,この国の人々は次のような結論を抱いている。これら言論の自由は,過度又は乱用と見えても,長い目で見るとき,民主主義国家の市民の啓発された意見とか,正しい振舞の上に肝要なものであると。』― キャンテウエル対コネクチカット州310ユー・エス・
1948年に,ヱホバの証者は最高裁判所において,もう一つの凱歌をあげました。法廷の論告は次のようです。
『拡声器は今日,効果ある公開講演で欠くことのできぬものである。音響自動車は政治運動においても公認の方法となつている。これは,公衆に呼びかける手段と認められている。……騒音迷惑という主張のうらに,思想上の不一致がかくされていることもある。この種の条令につきものの検閲の力は,害を及ぼすものである。』― サイア対ニューヨーク334ユー・エス・
かくして,1940年からの10年に亘つて,キリスト教国の戦士は,ヱホバの民が全世界的規模をもつて遂行していた音声による証言の業を喰い止めることに
-