自己の崇拝
「自分自身を崇拝するですって? 冗談でしょう」。読者には「冗談」と思えるかもしれませんが,他の大勢の人にとって,必ずしもそうではないようです。実際のところ,そうした傾向が非常に強調されるので,多くの人は今の世代を,“自己の世代<ミー・ゼネレーション>”と呼んでいます。この描写は,かなりの証拠によって支持されています。
「確かに,利己心は少々手に負えなくなっているかもしれません。でも,自己の崇拝というのはどうでしょうか。この問題を少し誇張しすぎているのではありませんか」。ちょっと見ると,そのように思えるかもしれませんが,自己認識運動をよりよく調べてみると事情は変わってくるでしょう。
認識が重要であることは確かです。わたしたちは自分の身の回りで何が起きているかを認識している必要があります。また,自分の交わる人々のことも認識する必要があります。そうした人々には,家族の成員,隣人,自分の住む地域社会の住民,そして世界が狭くなっていることを考えれば,地に住む人すべてが含まれます。そして,確かに,わたしたちの認識には,自分自身,自分の思考や行動,自分の必要や責任に対する認識も含まれていなければなりません。
しかし,心理学者-導師の現在唱道する自己認識は,『私<ミー>が第一,あなたは二番目,あるいは六番目。何番目だろうと至高者である私<ミー>には実際のところ関係ない』というような指導原理にまで狭められています。この運動に関係する人すべてがそこまでゆくわけではありませんが,それほどあからさまに述べるかどうかは別にしても,そうした状態まで行き着く人は少なくありません。
自己主義<ミーイズム>が台頭しているのはなぜか
この時期に自己認識運動が台頭してきたことには理由があります。古い価値基準に異議が申し立てられていますが,伝統的な諸宗教の多くはそれらの価値基準を守ることに失敗しています。心理学者や精神分析医の唱道する新しい規準は人間の精神を満たすものではなく,多くの場合,互いに相反するものです。霊的に言って,無数の人々は荒海を漂っており,信頼のできる舵としっかりした錨を探し求めています。
幻滅したこれらの人々は,自己を賞揚する教えを育むまたとない温床となっています。そうした人々は,「自分たちの気まぐれにかない,自分たちの幻想をくすぐる教え手」を受け入れ,「真理に耳を傾けなくなり,作り話へとさまよい出て行きます」。そして,「人間の伝統に導かれ,物質的な物の見方に従った,哲学を装うものによって」食い物にされています。―テモテ第二 4:3,4; コロサイ 2:8,アメリカ訳。
答えを見いだした人はいますか
しかし,自己認識運動に真の答えを見いだしたと考える人は少なくありません。そうした人々は荒海を切り抜けるのに必要とされる舵と錨を見いだしたと思っています。本当にそうでしょうか。それらの人々は幸福で,満ち足りており,もはや暗中模索の状態を脱却し,探索することもなくなっていますか。
この点に疑念を抱かせるもっともな根拠があります。続く一連の記事は,自己認識運動に関する賛否両論をより深く探っています。
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自己認識運動
現在このように“自己主義<ミーイズム>”が台頭しているのはなぜか。それは一時の気まぐれにすぎないのか。それには実際的な価値があるのか。その生み出している実はどんなものか。
それは情緒面の必要を満たすか。それによって罪悪感をぬぐい去ることができるか。罪についてはどうか。その概念は時代遅れになっているのか。
情緒面での暗中模索の状態に対する答えが自己認識にないとすれば,その答えは一体どこに見いだせるのか。