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不必要に人を怒らせますかものみの塔 1961 | 8月15日
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それを知ることができるでしょうか。それはあなたに対する友だちの態度でわかります。彼らは礼儀正しく,じょさいがなく,親しそうには見えますが,あなたを怒らさないようにいつも用心しています。一緒にいるときゅうくつなので,友情という至聖所にあなたを受けいれて特別の愛を表現しないかも知れません。
では,人は,なぜ他の人を怒らせるようになるのでしょうか。根本的にはそれは感情移入力の不足,いわば他の人の気持を察する力が弱いこと,理解力の不足,神経質なことですが,一口に言えば隣人愛の不足です。この隣人愛の不足は,国民の習慣とか,特定の個人の事情に関する知識の不足に原因するかも知れません。あるいは非常に外向的な性質のためかも知れません。外向的な人は,こまかい事がらに気づかないものです。ですから,他人の不自由や欠陥や苦痛が,それが内向性のものであれば特におかしく思えるのです。そのため,あの人は外向的な人だとか内向的な人だというのは,ある人は無神経で,ある人は感じやすいということのもう一つの表現方法だといわれています。中庸とは,「内向性と外向性との中間」と言われているもので,両極端を避けて,すぐに怒ったり怒らされたりしないことです。
批判的な完全主義者も,感情移入力に欠けているのでおそらく人を怒らすことになるでしょう。良い点に感心したり,ほめたりするかわりに,ただ弱点や誤りばかりに目をつけて批判するので,不必要に人を怒らすわけです。批判的な性質のために,他の人を援助する機会を失ってしまいます。
能率のことばかりくどくどいう人にも同じことが言えるでしょう。そういう人たちは,しばしば,時間厳守とか秩序とか経済のことばかり気にして,思いやりとか人間の価値に盲目になります。家庭の中でいえば,妻は特別に腕によりをかけてごちそうをつくったのに,夫は費用のことでぶつぶついい,夫が贈り物を持って家に帰れば妻はぜいたくだといってこぼすというたぐいでしょう。感情移入力に欠けているので,愛情の表現には,時にはつましさを通り越したことをする必要があるのをふたりとも気づかないのです。
また,あらゆる型の偏見が,感情移入の不足を示すものであって,これも人を怒らせるものであることを見のがしてはなりません。口調,言葉,振舞で心の底にある偏見をうっかり表わして,人を怒らすことになるかも知れません。国籍,経済,教育の標準の相違など,何に原因した偏見であろうと,それは感情移入の著しい反対で,他の人に対する思いやりの心の欠けていることを示すものです。
このふるい世には,苦しみ,誤解,不幸なことがたくさんあります。ですから,不必要に人を怒らせて,さらにそれをふやすようなことをしないで,むしろ他の人の考えや感情をよくつかむようにしましょう。他の人が自分と違えば違うほど注意が必要です。このことは,両性間の相違についても言えることです。
この点に関して,神の御言葉は「あわれみの心,慈愛,謙そん,柔和,寛容を身に着けなさい」「賢く行動しなさい」「やさしい言葉を使いなさい」というような良い助言で満ちています。この助言に従って下さい。そうすれば,不必要に他の人を怒らすことはなくなります。―コロサイ 3:12; 4:5,6,新口。
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以前はバプテストものみの塔 1961 | 8月15日
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以前はバプテスト
ハイチからの報告
かつてバプテストの伝道者であった人が,首都にいる間に真理を学びました。その人が御国会館に来た時に,必要の大きい場所で奉仕することについて多くのことが話されました。そこで彼は,洗礼を受けるや否や待ってましたとばかりに孤立した必要の大きい町に移転しました。そこは彼の育った町であり,バプテストの伝道者として働いていたところでした。彼は,ほんの二,三ヵ月の間に,ひとりでは世話しきれないほどの聖書研究を司会するようになりました。11人の人が彼と一緒に伝道するようになり,2月の巡回大会では4人が洗礼を受けました。いまのところでは,もう11人がめざましい進歩を見せています。最近の巡回の僕の報告によると,この群れが会衆にすいせんされるのはそう遠くはないということです。―1961年のエホバの証者の年鑑より
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