孤独な人に援助の手を差し伸べていますか
「私は独りで暮らしていますが,少しも孤独ではありません。友達にはこと欠きませんし,プライバシーがあることも喜んでいます」。かつて成功を収め,今では引退生活を送っているある女性実業家のこのような言葉が幾つもの主要紙に載りました。その女性実業家はさらに次のように言葉を続けました。「ある晩,7時30分ごろ,ドアをノックする音がしました。訪問者の予定がなかったので,どなたですかと尋ねてみました。訪問者は同じ階に住むやもめの婦人でした。その人とはお互いに会釈を交わす程度の知り合いにすぎませんでした。彼女は寂しく感じており,少しの間お邪魔できないでしょうか,と尋ねました。
● 「私は丁重に,しかしそっけなく,自分は忙しいと告げました。……彼女はわびを述べ,立ち去りました。……私はそんなつまらない事に巻き込まれないでいる自分を誇りに感じていました。次の晩,友達が電話をかけてきて,私の建物に住んでいた婦人が昨晩自殺したことを知っているかと尋ねました。ご推察のように,それは私の家のドアをノックしたあの婦人だったのです」。
● これは実に衝撃的な経験です。この経験は,孤独な人に援助の手を差し伸べ,「憂いに沈んだ魂になぐさめのことばをかけ」るよう勧める聖書の助言に従う必要のあることを物語っています。(テサロニケ第一 5:14)しかし,どのようにそれを行なえますか。それには人間味にあふれた同情心,真の友情が必要です。孤独な人々はあなたがその場にいることを必要としています。ただその場にいてあげることが,助言を与えるよりもずっと大きな価値のあることが少なくないのです。
● 自殺を図ろうとして自動車の前に飛び出した16歳になるある少女は,「ほんとうは死にたくなんかなかったわ。ただ,だれかの注意をひきたかったの」と訴えました。この少女の言葉は,孤独感を抱いている人々を助けるのに必要なのはごくわずかなことにすぎないことを示しています。ほんの一言,それも二,三分会話して,その人の存在を自分が認識していることを知らせる,それだけでよい場合が少なくないのです。こうした仕方で,自分にできる範囲のことをしてみるのはいかがですか。
● わたしたちの多くは,毎日あるいは週ごとに,様々なグループの人々と接するものです。そこには,様々な異なった人々と会話を交わし,友情を築く機会があります。内気な人や恥ずかしがり屋に思える人を探すなら,孤独感を抱いている人に励ましを与えることができるかもしれません。
● また,何かのレクリエーションを楽しむ際に,孤独感を抱いている人々を含めてみてはいかがですか。そうした人々を自分の家に招いたり,社交的な集まりに加わるよう誘ったりできる都合のよい時があることでしょう。単に同情心からではなく,良い資質を引き出しさえすれば,そうした人々も大きな貢献ができることを認めて,招待を申し出てください。
● このように,他の人に援助の手を差し伸べることにより,孤独感と闘っている人々に真の気遣いを示せます。また,イエス・キリストは,「あなたがたは,自分にして欲しいと思うとおりに,人にも同じようにしなさい」と語って,生活上の優れた原則を示されましたが,このようにすることによって,イエスの示された原則を自分の生活で実践していけます。―ルカ 6:31。