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  • 罪の『はなはだしい罪深さ』
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1975
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    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1975
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1975
塔75 7/1 393–396ページ

罪の『はなはだしい罪深さ』

罪はどれほど悪いものですか。たとえ“小さな”罪でも,その影響はどれほど遠くまで及ぶことがありますか。忠実さに関して弟子たちに教えたイエスのことばは,この問いと関係があります。イエスはこう言われました,「ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であり,ごく小さな事に不義な人は多くのことにも不義です」。(ルカ 16:10)神に対する不忠実は罪であり,使徒ヨハネによれば,「すべて罪をならわしにする者は,不法をもならわしにしています。それで,罪は不法です」。(ヨハネ第一 3:4)ひとりの人について言えることは大小を問わずグループすなわち一団の人々についても言えるのであって,正しい原則からわずかばかりそれることは,もし放任するならば,はなはだしい不法と,はかりしれない害悪をもたらすことがあります。―ローマ 7:13。

初めはささいな事と思われたかもしれない事柄がはなはだしく悪い結果をもたらすのを如実に示している例は,「不法の人」の発展です。聖書の中でこれを描写しているのは,テサロニケ第二の2章にある使徒パウロのことばです。この「人」の現われることについて,使徒パウロと使徒ペテロの両方が諸会衆に前もって警告を与え,「あなたがた自身[会衆内の長老たち]の中からも,弟子たちを引き離して自分につかせようとして曲がった事がらを言う者たちが起こる」こと,そして彼らは「破壊的な分派を持ち込み」,多くの人が「彼らの不品行に従」うと述べました。―使徒 20:30。ペテロ第二 2:1-3。

名誉欲 ― 背教の初め

「このような事態が神ご自身の会衆内にどうして生じ得るか」とある人は言うかもしれません。それは一夜にして生じたものではありません。それはきわめてひそかに発展しました。イエスは正しい手本を示し,またユダヤ人の宗教指導者の精神にならわないよう弟子たちにはっきり警告していました。

「すべてその行なう業は人に見せようとしてするのです。……彼らは晩さんにおいては最も目だつ場所を,そして会堂ではいちばん前の座席を好み,また市の立つ広場でのあいさつと,人にラビ[先生]と呼ばれることを好みます。しかしあなたがたは,ラビと呼ばれてはなりません。あなたがたの教師はただひとりであり,あなたがたはみな兄弟だからです。また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなたがたの父はただひとり,天におられるかただからです。また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなたがたの指導者はひとり,キリストだからです。あなたがたの間でいちばん偉い者は,あなたがたの奉仕者でなければなりません。だれでも自分を高める者は低くされ,だれでも自分を低くする者は高められるのです」― マタイ 23:5-12。

これと同様な教えはほかにもクリスチャン・ギリシャ語聖書の中にたくさんあります。そうであるのに,初期会衆において責任の地位にあった人々の中には,それをわずかばかり利用し始めた人が明らかにいました。彼らは自分の占めていた立場のゆえに,なんとなく偉い者のように感じました。そして会衆の“普通の”成員より少し多くのものを得る権利があると考えました。彼らは自分たちだけの特権を手に入れ,また信者たちから物質上の恩恵を期待しました。こうして彼らの暮らし向きはよくなり,“偉い人”として尊敬される立場を得ました。最初,彼らはそれ以上のことを何も望んでいませんでした。しかし彼らと,その職務の後継者たちは次第に要求を増やし,厚かましくなり,権威をふるうことにおいていっそう専横になりました。彼らは自分の欲望を満たすために会衆を欺き,迷わせ,『まことらしいことばで彼らを利用』したのです。使徒パウロは,このたぐいの人々をコリント第二 11章19,20節に描写しています。―ペテロ第二 2:3。

おそらく初めのうちはこれらの人々も,自分たちが二,三の恩恵を求めただけで,それがどんな結末に至るか,すなわち“小さな”利己的欲望を満足させることが時のたつうちに恐ろしい,またいまわしいものを生み出すことなど,思いもよらなかったでしょう。彼らは自分たちに脱線行為があるとしても,それは取るに足りないものと感じていたに違いありません。しかしこの傾向の歴史をたどり,その結末を見ることにしましょう。その結末に対しては,ほかならぬそれらの人々にそれをもたらした責任があるのです。

「不法の人」という背教の最初のあらわれを述べた聖書のことばから初めて,わたしたちはその発展を歴史の記録の中にたどることができます。

僧職者と俗人の区別

イエス・キリストは,弟子たちを僧職者と俗人に分けることなど,全く命じませんでした。彼らは霊的な家族の成員としてすべて平等でした。すべては霊によって生み出された,イエス・キリストの兄弟であり,すべて祭司となるべく油そそがれ,天においてキリストと共に王また祭司となる見込みのある人々でした。使徒ペテロは彼らを「王なる祭司」と呼びました。(ペテロ第一 2:5,9)ある人々は「牧者」として責任を与えられていたにしても,すべての人は霊的な意味で祭司であり,すべての人は霊的な犠牲をささげるわざに携わりました。(ペテロ第一 5:1-4)“僧職者-俗人”の区別を暗示するものは全くありません。しかし歴史の述べるところに注目してください。

「僧職者と俗人とのユダヤ人特有の対比は最初クリスチャンの間では知られていなかった。信者すべてがキリスト教の一般祭司職にあずかるという考え方が,特別祭司職つまり特別僧職という考え方にほとんど完全に取って代わられたのは,『人々が福音主義の見方からユダヤ人特有のそれに戻ってからのことである。……ゆえに,テルツリアヌスさえ(モンタニストになる以前の著書,『バプテスマに関して』の17章で)[こう述べた]。『俗人もやはり秘跡を執行し,地域共同体内で教える権利を持っている。神のみ言葉と秘跡は神の恩寵によってすべての人に伝えられたのであって,それゆえに神恩を伝える手だてとしてのそうしたものにクリスチャンすべてがあずかることができよう。しかし,ここで問題は,単に何が一般に許されているかという点だけでなく,現状では何が適当かという点にも関係しているのである。ここでわれわれもまた,聖パウロの述べた「一切のもの我によからざるなし,されど一切のもの益あるにあらず」という言葉を用いることができよう。もし,教会内で維持される必要のある秩序に着目するとすれば,従って俗人は時と事情が要求する場合にのみ,秘跡を執行する司祭としての権利を行使できるであろう』。教階制度の父……キプリアヌスの時代以来,僧職者と俗人との区別が顕著になり,ほどなくして一般的に用いられるようになった。実際,クレルス(クレロス,オルド)という用語は三世紀以後,僧職者と俗人を区別するためほとんど独占的に僧職に適用された。ローマ教階制が発達するにつれて,僧職者は単に(使徒伝承の規定や教義すべてとあるいは合致するかもしれぬ)明確な階級となっただけでなく,唯一の司祭職,また人間と神との意志伝達の主要な機関として認められるに至った」― マクリントクとストロング共編百科事典第2巻386ページ。

上に述べたタシウス・カエシリウス・キプリアヌスは,アフリカ,カルタゴの教会の司教でした。彼は西暦200年ごろに生まれ,258年に死んでいます。彼は僧職者であって,ここでは教階制の父と呼ばれており,キリストの使徒や使徒と親しく接した人々の死後一世紀余を経ないうちに存在した僧職者団の一人でした。その時から“暗黒時代”を経て宗教改革と新教の教会の成立に至り,さらには今日に至るまで,この僧職者と俗人との区別はキリスト教世界に存在してきました。

テサロニケ第二 2章3節にいう背教すなわち反逆に関連して,「不法の人……滅びの子」であることを表わし示したのは,このいわゆる“キリスト教”の僧職者です。この表現によって聖書の意味するものが複合の「人」であることは明らかです。それでこの「人」は長い期間にわたって存在し,その構成と顔触れは時とともに変化します。

まっこうから神に反対

この反逆は(本誌の前号の中で論じられたように)エホバ神に対するものであり,したがってこの複合の「人」が,聖書の中で「この事物の体制の神」と呼ばれている大反逆者サタン悪魔と同じく自分を神にしようとしたとしても不思議ではありません。(コリント第二 4:4)使徒パウロは「不法の人」について預言的にこう述べました,「彼は,すべて『神』と呼ばれる者また崇敬の対象とされるものに逆らい,自分をその上に高め,こうして神の神殿に座し,自分を神として公に示します」― テサロニケ第二 2:4。

「不法の人」は一団の人々であって複合のものです。しかしこの一団の人々一般の態度を反映するものとして,これら僧職者のひとりについて主張されている事柄を指摘できます。ローマ・カトリック教会の教皇について,フェラリスの教会辞典aに次のことが出ています。

「教皇はかくも尊厳で,位が高いゆえに,単なる人間ではなくて,いわば神であり,神の代理者である。……従って,教皇は天と地と地獄の王として三重冠を戴いているのである。……それのみならず,教皇の卓越性と権能は単に天上,地上および地獄の事物にかかわるものであるだけでなく,教皇はまた天使よりも位が高く,その上級者である。……ゆえに,もし天使が信仰に背いたり,あるいは信仰に反する意見を抱くことがあるとすれば,教皇はそのような天使を裁いて破門に付すことができよう。……かくも偉大な尊厳さと権能を有するがゆえに,教皇はキリストと全く同一の審判者席を占めているのである。……ゆえに,教皇が行なうことはすべて,神の御口から出る事がらと考えられる。……教皇はいわば地上における神,キリストの忠実な信者たちの唯一の君主,最高の権能を有する,あらゆる王の中の最大の王であって,地と天の王国の統治権を委託された者である。……教皇はかくも大いなる権威と権能を有するがゆえに,神の法の修正,布告もしくは解釈を行なうことができる。……場合によっては,限定したり,解釈したりして神の法を無効にすることもできる」云々。

教皇に帰せられているこの権力と権勢は,カトリック教会の僧職者によって擁護されてきました。新教の僧職者の多くはこれに同意しないかもしれませんが,それでも彼らは「尊師」,「神父」として自らを高め,また俗人をはるか下に見る他の称号を用い,こうして尊敬され,崇められ,物質面で,それも多くの場合きわめてぜいたくに支持を受けてきました。これはその精神において教皇の主張と大差ありません。―ヨブ 32:21,22。

このように自らを高めているだけでなく,自らを世の「友」とすることにおいても,「不法の人」は神に敵対していることを表わし示してきました。(ヤコブ 4:4)またこの集合的な「人」は,霊感による神のことばをむなしくしており,こうして神に敵対しています。神のことばを「神話」,「時代おくれ」,「信じられない」,「間違いだらけ」と称し,「神は死んだ」とさえ言っているからです。

教会と国家の‘縁組’

多くの国においては教会と国家の結合が見られてきました。また今でも見られます。このような‘縁組’において,教会は支配する側になろうと努めてきました。僧職者は人々の考えを大きく支配してきたので,それを知る政治支配者は僧職者に対して権威,威信,保護,免除,経済的支持その他を与えてきました。「教会と国家」について,アメリカナ百科事典第6巻657,658ページに次のように述べられています。

「近代においてこの二つの制度間の完全な一致はたとえ存在したにせよ極めてまれなことであった。この闘争は非常に長引いたものであるだけに,何らかの驚くべき大変動でも起こらない限り,果てしなく続く見込みが十分にある。それは激しい闘争であって,それには大きな権益が関係し,またそれは重大な論議に世の注目を引くものとなってきた。それはさまざまの暴動を誘発し,政治上の論争を別にすれば無類の罵り雑言を弄する著作を生み出すものとなった。それは往々にして単なる政治的論争であった。……コンスタンチヌスのもとで教会は諸民族を教化する仕事の協力者として世界的な活動舞台に登場し,精神的支配者として認められるにつれ,徐々に現世の主権者としての具体的存在場所と名前を取得し,ある種の世界強国となったのである。こうした点での成功は,教会のさまざまな災難すべての発端となった。……コンスタンチヌス以後シャルルマーニュの時代に至るまでは世俗の勢力は教会を適法と認めたものの,その統治権には干渉した。シャルルマーニュ以後宗教改革時代の迫った時期までは,教会と国家は密接に結合し,世俗の権威が教法上のそれに服する状態が一般的に認められた」。

この二十世紀においても,こうした事態は続いています。宗教上の争いをめぐって戦争が行なわれ,最も大きな,最も残虐で最も破壊的な世界大戦は,キリスト教世界の国々が主となって最も殺人的な兵器を用いて戦われました。

心痛,悲惨,殺りく,神のみ名とキリスト教の名にもたらされた非難を考えてごらんなさい。このような結果も,そのはじまりは個人的な名誉と利得に対する欲望でした。神の羊の群れを牧するために任命された初期の長老たちの中でも,多くの者はずっと忠実でした。彼らはイエスの語られた次の原則に従いました。「だれでもあなたがたの間で第一でありたいと思う者はみんなの奴隷でなければなりません」。(マルコ 10:44)しかし彼らの中の利己的な者たちは宗教的に見て不法な反逆を引き起こし,それは何百万の人々に悲惨な結果をもたらしました。もし彼らが,明白で簡明なキリストの命令と手本に従ったならば,このような恐ろしい結果は起きなかったでしょう。

わたしたちは個人としてこれから多くを学ぶことができます。神がある事柄を悪いと言われるならば,それはほんとうに悪いのです。どんな形態の罪であれそれに対する神の警告を無視するならば,わたしたちは自分のしていることが「ささいな事」であると考えてはなりません。わたしたちは普遍的な神の定めと調和しておらず,多くの人にはなはだしい害を与え得る事柄の発端をもてあそんでいるのです。「少しのパン種が固まり全体を発酵させる」,これが聖書の法則です。(コリント第一 5:6)すぐに悔い改め,このような罪から身を転じて,事態を正すことに極力つとめないならば,思いもよらない悪い結果に対して責任があることになります。

一例として,イエスの異父兄弟ヤコブが,しまりのない舌について述べたことに注目してください。「舌は火なのです。舌はわたしたちの肢体の中で不義の世界をなしています。それは全身に汚点をつけ,生まれついた人生の車輪を燃やし,自らはゲヘナによって燃やされるのです」。(ヤコブ 3:6)悪用するならば,舌は自分の人生と,他の多くの人の生活をくつがえさないとも限りません。ヤコブはまた,罪のはじまりが,時として人を欺きやすいものであることを示しています。彼はこう述べました,「おのおの自分の欲望に引き出されて誘われることにより試練を受けるのです。ついで欲望は,はらんだときに,罪を産みます。そして罪は,遂げられたときに,死を生み出すのです」― ヤコブ 1:14,15。

人はだれでも罪を犯すことがあります。それは確かです。しかし助けを備えてくださるエホバ神のおかげで,またその過分のご親切によって,わたしたちは罪の道を歩みつづけることを避け,その恐ろしい結果を免れることができるのです。わたしたちは「不法の人」の災いの道を避けることができます。神のみ子イエス・キリストのなだめの犠牲に対する信仰によって,わたしたちはそのことをできるのです。(ローマ 7:21-25; 8:1,2)罪の『はなはだしい罪深さ』を認識することによってのみ,そして罪を犯すとき,キリストの犠牲に基づいて許しをエホバに求めることによって,わたしたちはエホバの助けを得,自分の誤った行ないの十分な結果を受けないですみます。

[脚注]

a 1746年,イタリア,ボローニャのエミリア-ロマーニャ地区でルキオ・フェラリスが編さんした,ニューヨーク市コロンビア大学所蔵,「教会法,道徳律,神学便覧。禁欲思想,論証法,赤題目,歴史を含む」第六巻,31-35ページ。

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