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  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1972
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1972
塔72 3/15 190–191ページ

読者からの質問

● テモテ後書 1章9節(口語)によれば,天の命に召された人々が「永遠の昔にキリスト・イエスにあって」過分の親切を与えられたとありますが,そのようなことがどうしてありうるのでしょう。―アメリカの一読者より

もとより,人が誕生する何世紀も前に過分の親切を受けるのは不可能です。しかしながらエホバ神は天の王国の相続者になる人々の級(王国を構成する特定な個人ではない)をあらかじめ定められました。このことは神の目的でしたから,達成されたも同然であり,したがって,この級の人々は,「永遠の昔に」過分の親切を受けたと言うことができるのです。ロマ書 4章17節はエホバについてこう述べています。「[彼は]無きものを有るものの如く呼びたまふ」。それでこれはこの事柄に対する一つの見方と言えるでしょう。

「永遠の昔に」という表現は,長さは定められてはいませんが,相当長い期間を表わしていることは明らかです。とはいえ,他の聖句を調べてみるとそれがどれほどの時間を意味しているかについて,もっと明確に理解できます。使徒パウロはエペソ人にあてた手紙の中でこう書いています。「御前にて潔く瑕なからしめん為に,世の創[カタボレ]の前より我等をキリストの中に選び,御意のままにイエス・キリストに由り愛をもて己が子となさんことを定め給へり……我らは凡ての事を御心の思慮のままに行ひたまふ者の御旨によりて預じめ定められ,キリストに在りて神の産業と為られたり」― エペソ 1:4-11。

この句に出てくる創ということばのギリシア語[カタボレ]は,文字どおりには「投げる,あるいは横たえる」という意味で,人間における受胎のさいに受精卵を着床させるということをも意味します。事実,ヘブル書 11章11節の中でその語が「やどす」と訳出されているのももっともなことです。こう書かれています。「信仰に由りてサラも約束したまふ者の忠実なるを思ひし故に,年邁ぎたれど胤をやどす力を受けたり」。これは明らかに,アブラハムがむすこをもうけるべく,いわばたねを「ほうり出し」,サラは受胎できるようにそのたねを受け入れたという意味であることがわかります。

「世の創」ということばについていえば,イエス・キリストはそのことをアベルと結びつけてこう言われました。「世の創より流されたる凡ての預言者の血,即ちアベルの血より,祭壇と聖所との間にて殺されたるザカリヤの血に至るまでを,今の代に糺すべきなり」。(ルカ 11:50,51)このことばの中でアベルは,「世の創」の時代に生きていたと述べられています。アベルはアダムとエバのむすこですから,「世の創」という表現は明らかに,最初の人間夫婦が子どもたちをもうけて親となって人類の世をいわば生み出した時代のことをさしています。したがって,天的な支配者として神のみ子とともになる人々の級を生み出す目的をエホバ神が立てられたのは,アダムとエバが罪を犯した後であり,しかも子どもたちが生まれる前であったにちがいありません。これはパウロがテモテに手紙を書いた時点からすれば4,000年ほど昔のことであり,したがってそれが,「永遠の昔に」と述べられているのはもっともなことといえるでしょう。

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エホバの証人の組織は目下,長老や,奉仕のしもべ,として奉仕する資格をもつと考えられる男子に考慮を払っています。このことと関連して,次のような質問が寄せられました。

● 推薦された男子の未成年の子どもたちは信者でなければなりませんか。

そうです。テトス書 1章6節は,その男子の「子女もまた……信者たるべきなり」と述べています。しかしこれは,その子どもたちがバプテスマを受けていなければならないという意味ではなく,宗教上の問題において父親の導きに従う様子が見られねばならないということです。もちろん,国の法律により,妻がその宗教を奉ずるかぎり,子どもたちは自分の宗教を変えられないことになっているところがあります。そのような場合でもその父親は,子どもたちに霊的教えを授けるために自分にできうるかぎりの努力を払っているべきであり,ほかの人々も,その人の子どもたちが,法の課した制限の許すかぎり父親の導きに従っている様子を見ることができねばなりません。

● 「謹厳にして子女を従順ならしむる」者でなければならない,というのはどういう意味ですか。―テモテ前 3:4。

これは次のことを意味します。つまり子どもたちは,親に従うにさいして,年齢と状況に相応したまじめさを示さねばならないということです。彼らの服従には,クリスチャンの生活の最も重要な面である宗教上の事柄も含まれます。聖書から教える教えに対して子どもたちが示す反応は,その人を,会衆内の他の人々をも神の義の要求に従って生活するよう助けうる人として推薦するものでなければなりません。

● テトス書 1章6節の「放蕩をもって訴へらるる事なく,服従せぬことなき」子どもという表現は何を意味しますか。

この句は,ギリシア語から,「衝動的に放縦な生活をすることなく,手に余るということのない」(新英訳聖書)とか,「粗暴であるとか服従しないといううわさのない」(今日の英訳聖書)などと,いろいろに訳されています。ですから推薦された男子の家の子どもたちは,父親に従順で,エホバの義の律法に調和した振舞をするものであることを示すべきです。地域社会においても会衆の中でも,悪い評判のある者であってはなりません。子どもたちの行ないや習慣から,その人はほんとうに,愛あるなかにもき然とした態度でかしらの権を行使しているのだろうか,という強い疑問が生まれるようであってはなりません。

● 妻の行状もその人が長老または奉仕のしもべに推薦される資格があるかどうかに影響しますか。

妻もその人の家族の一員ですから,その行状はたしかにその人の名誉ともなり不名誉ともなります。しかし多くの国で,妻は特定の法的身分をもっています。それは多くの場合,妻の行状を制御する点で夫がなしうることを制限するものです。もし妻が不信者であればなおのことです。その法律によると,夫の妻に対する権限は,子どもに対するそれよりもはるかに弱いのが普通です。ですから,法の許す範囲において妻の行状を制御しているかぎり,そして聖書の他の要求を満たしているなら,その人は資格にかなっています。もちろん,その人自身に妻の不従順を助長するようなところがあってはなりません。重要なことは,その人がほんとうに,「善く己が家を理め」ているということです。―テモテ前 3:4。

● 発表されない試験期間を終えた人を奉仕のしもべに推薦してもよいでしょうか。

奉仕のしもべにかんし,テモテ前書 3章10節(新)は,「この人たちが適格かどうかをまず試し,それから彼らを,とがめられるところがないのですから,奉仕者として仕えさせなさい」と述べています。非行のゆえに規定の試験期間にかけられた人がその期間を終えても,そのこと自体は,その人に「とがめられるところがない」ことを意味するものではありません。そういう人に早く責任をもたせるのは賢明ではありません。(テモテ前 5:22)以前の非行に現われた弱点を完全に克服したことを確証するだけの時間が経過していなければなりません。その人は,試験期間終了後十分の期間にわたり,自分が義に献身していること,またエホバとその民に純粋の愛を抱いていることを証明してきていなければなりません。他の人々もその人を,クリスチャンの行状のりっぱな模範として見ることができなければなりません。そのようにしてもしその人が試験期間終了後,りっぱな評判を築いてきたなら,長老としてではなく,まず最初に奉仕のしもべとして推薦することを考慮できます。

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