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  • それとは知らずにサタンを崇拝することがありえますか
    目ざめよ! 1971 | 8月8日
    • 知恵ではなく,ただ神からの知恵だけが人類を正しい方向に導きうることを認識します。(ヤコブ 3:15,16)彼らはメシヤによる神の王国がサタンと彼の精神を表わす人々を滅ぼすことを待ち望みます。その王国が人類の事態を正すことに信頼を置いているのです。

      使徒パウロは,『造られたる者も滅亡の僕たる状より解かれて,神の子たちの光栄の自由に入る』時をさし示しました。(ロマ 8:21)神から独立しては,真の自由も幸福ももたらされません。人生をほんとうに生きがいのあるものにするのは,実際には「愛,喜び,平和,寛容,親切,善良,信仰,柔和,自制」ではありませんか。そうした事柄に対して,同じ使徒はそれを「禁ずる律法はない」と述べています。それらは神の霊の実であり,拘束を受けずに実践することができます。それこそ真の自由であり,今でさえそれを楽しめるのです。―ガラテヤ 5:22,23,新。

      これがあなたの心の願いをかなえる自由ではありませんか。神の霊の導きのもとに,神のことばを学び,そうした良い事柄を今実践することにより,神の新秩序での命を受ける備えができます。その時には,これらのすぐれた特質が全人類の物事の中で顕著なものとなるでしょう。そうです,わたしたちはこうして「神の子たちの光栄の自由」を享受するものとなりうるのです。宇宙の創造者かつ所有者の子たちであるということにまさる偉大なほまれや自由が,いったいどこにありえますか。―詩 19:7-11。

      しかし,神のことばを生活の導きとして心をこめて受け入れた後でさえ,なお神の敵対者に用いられる危険があるのでしょうか。

  • だまされないように気をつけなさい
    目ざめよ! 1971 | 8月8日
    • だまされないように気をつけなさい

      真のクリスチャンになった者たちは,「暗黒の権威より救ひ出された」と述べられています。(コロサイ 1:13)この暗黒をつかさどる支配者の実体は,聖書のエペソ書 2章2節〔新〕のことばによって明らかにされています。そこで使徒パウロは,エペソ会衆の会員たちがクリスチャンになる前,『この〔事物の体制〕の習慣に従ひ,空中の権を執る〔支配者〕,すなはち不従順の子らの中に今なほ働く霊の〔支配者〕にしたがって歩んだ』と述べています。

      この使徒はそれらのクリスチャンに,「悪魔の術に向ひて立ち得んために,神の武具をもてよろふべし」と助言した時,その強力な支配者の名前を明らかにしました。―エペソ 6:11,12。

      したがって,クリスチャンは細心の警戒と用心を必要としています。多くの面で神の要求を果たしているかもしれませんが,警戒を怠ると,やはり突然に,そしてうっかりとサタンの意志を行なう事態に陥るかもしれないのです。使徒ペテロはこう助言しました。「慎みて目を覚しをれ,汝らの仇なる悪魔,ほゆる獅子のごとく歴廻りて呑むべきものを尋ぬ」― ペテロ前 5:8。

      エペソ会衆のある者は,明らかに警戒を怠りました。そして真理から逸脱させられようとしていました。パウロはテモテに手紙を書き送って,そうした者たちが『悪魔のわなから出て正気に戻る』よう助けなさいと指示しました。(テモテ後 2:24-26,新)わなにかかるものは両方の目を見開いたままその犠牲になるのではありません。わなはたくみに隠されているものです。突然,警告なしに仕掛けが動いて,それを察知しなかった犠牲者をがっちりと捕えるので,犠牲者は逃げようにも助けが得られません。サタンのわなについても同じで,それと気づかないうちに捕えられるのです。しかもさらに重大なことに,実際にわなにかかっているのに,それに気づかないでいる場合があるかもしれません。自分では知らずにサタンの目的に仕えながら,正しいことをしていると考えるように欺かれるかもしれません。

      サタンのわなのいくつかの例

      この点で一つの良い例となるのは使徒ペテロに関して起こったできごとです。イエスは,ユダヤ教の指導者の手にかかって苦しみ,殺されるであろうと弟子たちに告げました。それはご自分の父が定められた進路でした。イエスはその犠牲の死を避けようと考えることすら罪であるのを知っておられました。しかし,ペテロは明らかに良い意図から,イエスをかたわらに寄せて言いました。「主よ,然あらざれ,此の事なんぢに起らざるべし」。イエスはペテロに振り返って,こう答えました。「サタンよ,我が後に退け,汝はわがつまづきなり,汝は神のことを思はず,反って人のことを思ふ」― マタイ 16:21-23。

      ペテロはこの時サタンのわなに陥り,それとは知らずにみずから「サタン」,つまりイエスに「抵抗する者」となっていたのです。彼の例は,わたしたちが人間の感傷や感情または推理にではなく,神のことばの述べるところに耳を傾け,その正確な知識を得,それに従う必要を強調しています。

      さらに,聖書は結婚した夫婦が互いに結婚の分を尽くすことに関して,こう警告しています。「相共に拒むな,ただ祈に身を委ぬるため合意にて暫く相別れ,後また偕になるは善し。これ汝らが情の禁じがたきに乗じてサタンの誘ふことなからん為なり」。(コリント前 7:5)神へのある特別な奉仕に時間をささげている時でさえ,平衡,良識を働かさねばなりません。さもなければ,結婚した夫婦の場合のように,性的な務めを果たすことを差し控えている状態が悪魔に誘惑される機会となり,夫婦の一方あるいは両人が情欲をかき立てられ,異性のだれかに対して悪い考えや行動を起こさないともかぎりません。―マタイ 5:28。コリント前 6:9,18。

      会衆にとってのわな

      全会衆,なかでもその監督の責任に当たる者たちは,サタンにだまされないよう警戒しなければなりません。この点,コリントの初期クリスチャン会衆はよい例となっています。その成員のひとりははなはだしい不道徳に陥りました。会衆はその邪悪を取り除く代わりに,サタンのわなに陥りつつあり,その件を悲しく思うどころか,得意になっていました。使徒パウロはその邪悪な男を追放するよう会衆に指示しました。―コリント前 5:1-5,13。

      後日,一定の期間排斥された後に,この人は悔い改めて,自分の行状を変えました。そこでパウロは同会衆に手紙を書き,その人を許し,再び迎え入れるよう勧めました。その目的を彼はこう述べています。「これサタンに欺かれんためなり,我等はその詭謀を知らざるにあらず」。そうです,クリスチャンはサタンの詭謀が何かを決して忘れてはなりません。その会衆は最初の時には気をゆるめており,会衆内の清さを保つために十分注意を払っていませんでした。しかし今度は,他の極端に走る危険 ― 真実に悔い改めている者に対して過酷になり,許しを与えないというおそれがありました。これも同様に悪魔の目的にかない,神の恵みを失うことになりかねなかったのです。―コリント後 2:5-11。

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