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  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1975
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1975
塔75 11/15 685–690ページ

命を目指す競争でわき道にそれないようにしなさい

「人はパンだけで生きてはならない……あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならない」― ルカ 4:4,8。

1 クリスチャンはどんな重要な競走に参加していますか。首尾よく走り抜く人たちにはどんな賞が与えられますか。

クリスチャンは非常に変わった競走を行なっています。勝利は走る速さよりもむしろ耐久力と,その競走に関する規則を守ることとにかかっています。そして,不思議に思えるかもしれませんが,その競走には一人の人だけが勝つのではなく,最後まで走りつづけた人すべてが勝つのです。それは神の新秩序における永遠の命に至る走路を走る競走で,その走路は,狭い門から入るほんとうに狭い道です。(マタイ 7:14)永遠の命というすばらしい賞は,首尾よく走り抜いた人すべてに与えられます。ですから,根気強くトレーニングを行ない,また勝つために必要な種々の犠牲を払うだけの価値があります。

2 なぜこの競争はやさしいものではありませんか。走路にある障害物はどのようにみなされるべきですか。

2 しかしこれはなまやさしい競走ではありません。一日で終わる競争ではないのです。そしてわき道にそれる危険,つまり命に通ずるより困難な道から,滅びに通ずる道とイエスが言われた広い,ゆったりとした道にそれる危険が常にあります。(マタイ 7:13)奮闘を必要とする,命を目指すこの競走において,もし内部から来る堕落した肉の弱さや,外部の世から来る圧力や魅惑を,乗り越えねばならない障害物と常にみなしていないなら,それらは人を競走からそらさせてしまう,人の気持ちを変えさせる障害物となるでしょう。クリスチャンをわき道へそらさせるおもなものの中から,まず最初に物質主義を取り上げてみましょう。

物質の財産に対する正しい見方

3 物質の財産に対する正しい見方はなぜ大切ですか。

3 地上に住み,そして地の恵みを楽しむよう神によって造られた人間は当然,創造者が備えてくださった良いものを得ることを望みます。そのこと自体は悪いことではありません。しかし,命とある程度の健康がなければ,どうして物質の財産を楽しむことができるでしょうか。(マタイ 16:26)神は命の与え主です。したがって,この命の賜物を保持するために満たさねばならない適当な条件を設ける権利をお持ちです。神は,忘恩者や快楽を求めるだけの者たちが地を永遠に相続することなどないことを,人間に極めて率直に告げておられます。彼らは切断されます。それに,物質面での利益や安楽だけを求めて,真の神の崇拝に深く根ざした,霊的,道徳的価値のあるものを養わないなら,生活は非常に空虚な,満たされないものとなるでしょう。

4 物質の富のあてにならない価値をイエスはどんな例えによって示されましたか。

4 イエスは次のように警告して,問題を明示されました。「油断なく見張っていて,あらゆる貪欲に警戒しなさい。満ちあふれるほどに豊かであっても,人の命はその所有している物からは生じないからです」。それからイエスは,富んだ人の例えを話して要点を説明されました。その富んだ人は自分の農産物が増える一方なので,もっと大きな倉を建てるために自分の倉を取りこわしました。これで自分の将来は非常に安全なものになったと考えた彼は自分に言いました。「魂よ,おまえにはたくさんの良い物が何年分もたくわえてある。楽にして,食べて,飲んで,楽しめ」。しかしながらイエスは,物質の財産に頼ったこの男についてさらにこう言われました。「しかし神は彼に言われました。『道理をわきまえない者よ,今夜,あなたの魂は求められる。そうしたら,あなたの蓄えた物はだれのものになるのか』」。要点を銘記させるためにイエスは結論の中で,「自分のために宝をたくわえても,神に対して富んでいない者はこうなるのです」と言われました。―ルカ 12:15-21。

5 物質の財産や肉体的慰安となるものを利己的に追い求めていると,どんな態度が徐々に表われてきますか。

5 この場合の危険は何ですか。それは肉の欲を満足させるために物を手に入れることに熱中する危険です。このようにして人は,神が地球とその上に住む人間とを創造されたこと,そしてそれゆえに人は,肉体を安全にするもの,あるいは肉体に慰安を与えるものとして自分の周りにかき集めうるものに頼ることによっては,本当に幸福になることも,生きる目的を達成することもできないということを忘れてしまいます。そのような人は必ず自己中心的になります。隣人の福祉など重要とは思いません。他の貪欲な人間から自分の財産を守ろうとしている間に暴力を振るって人を殺すという結果を引き起こすことも少なくありません。自信があると自分を頼むようになります。神は実際に重要な存在ではなくなり,真の授与者とは考えなくなることさえあります。そして永遠の命の約束は非現実的な夢にすぎないものになってしまいます。そのような人はよくこう考えます。肉体の慰安となるものを今持つことができるのに,幻影のようなものを追いかける理由がどこにあるだろうか,と。このように,物質主義的な処世哲学は,永遠の命を目ざす競走から人を容易にわき道にそらさせたり,その競走の開始を妨げたりすることがあります。

6 (イ)わたしたちクリスチャンは,命を目ざす競走の準備をすることとその競争に参加する点で,どのように走者に見倣うことができますか。(ロ)イエスは,わたしたちが見倣うべきどんな完全な模範を残されましたか。

6 それとは対照的に,優勝する走者は,自分の欲望をほしいままにせず,運動や食事に関する厳重な規定を守ります。そして競争においては,本当に必要なもの以外はすべて脱ぎ捨てます。またつまずいたり,失格したりしないように,非常な注意を払います。(コリント第一 9:24-27。テモテ第二 2:5)パウロは,古代の走者たちの経験を引き合いに出して,クリスチャンたちに次のように助言しました。「わたしたちも,あらゆる重荷と容易に絡みつく罪[信仰の欠如]とを捨て,自分たちの前に置かれた競走を忍耐して走ろうではありませんか。わたしたちの信仰の主要な代理者また完成者であるイエスをいっしんに見つめながら」。そうです,イエスは自らこの道を走り通して,どうすれば首尾よく走り抜くことができるか,その模範を示されました。イエスにとって,競走の終わりの勝利は刑柱上の死およびそれに伴う恥辱につながりましたが,後ほど神は,天における,そして神の右における栄光ある不滅の命の賞をイエスにお与えになりました。パウロは,そのようなすばらしい結果を念頭に置いて次のように勧めました。「そうです,罪人たちの,自らの益に反するそうした逆らいのことばを耐え忍んだかたのことを深く考えなさい。それは,あなたがたが疲れて,あなたがたの魂が弱り果ててしまうことのないためです」― ヘブライ 12:1-3; 3:12,13。

7 (イ)イエスは,忠誠を二分することが不可能なことを示すどんな原則を述べられましたか。(ロ)生活必需品についてエホバのどんな約束があるので,わたしたちは何を第一にすることができますか。

7 イエスは山上の垂訓の中で原則を述べられました。「だれもふたりの主人に奴隷として仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛し,あるいは一方に堅くついて他方を見下げるようになるからです。あなたがたは神と富とに奴隷として仕えることはできません」。次いでイエスは,動物や植物の必要をエホバが満たされること,また人間がいかに「彼らより価値のあるもの」であるかを述べ,そのあとこう言われました。「それで,思い煩って,『わたしたちは何を食べるのか』,『何を飲むのか』,『何を身に着けるのか』などと言ってはなりません。これらはみな,諸国民がしきりに追い求めているものです。あなたがたの天の父は,あなたがたがこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです。それでは,王国と神の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これらほかのものはみなあなたがたに加えられるのです」― マタイ 6:24-33。

8 パウロは二つのどんな対照的な宝について書きましたか。このうちのどちらかを追い求めると,どんな結果になりますか。

8 使徒パウロは次のように警告しました。「金銭に対する愛はあらゆる有害な事がらの根であるからです。ある人たちはこの愛を追い求めて信仰から迷い出,多くの苦痛で自分の全身を刺したのです」。「人を滅びと破滅に」投げ込むこの道にそらされることがないように,「不確かな富にではなく,わたしたちの楽しみのためにすべてのものを豊かに与えてくださる神に希望を置くように。そして,善を行ない,りっぱな業に富み,惜しみなく施し,すすんで分け合い,自分のため,将来に対するりっぱな土台を安全に蓄え,こうして真の命をしっかりとらえるように」と,パウロはクリスチャンたちを励ましました。―テモテ第一 6:9,10,17-19。

9 (イ)生活必需品を求めることについて,クリスチャンには,そして特に家の頭には,どんな責任がありますか。(ロ)悪魔は物質の財産によってどのように人をわき道にそらすことができますか。

9 もちろんわたしたちは日常生活でいろいろな物を必要とします。ですからわたしたちは,自分の前に置かれた競走に参加しながら正直に正しく働いてそれらの物を求めなければなりません。確かに,自分の家族に生活必需品を与えない人は,競争に参加する資格を失うでしょう。そのようにして彼は『信仰を否認したのであって,信仰のない人より悪い』からです。(テモテ第一 5:8)しかしわたしたちは,自分が行なう仕事やその仕事から得る賃金の魅力を,生活の中の重要事とすることによって競争に勝つことはできません。住居を持つことは必要です。しかし自分の資力以上の家を買って,その家に家具を整えることやその家を維持することにすべての時間を費やすなら,わたしたちは命を得るための競走から容易に落伍してしまうでしょう。車やボート,新しい流行の衣服に対する過度の欲望,費用のたくさんかかる遊びのための旅行,あるいはむやみに趣味に夢中になることなどについても同じことが言えます。油断している者の心をとらえ,命を得るための競走から迷い出させるために物質の財産をどのように用いるかを悪魔は多年の経験からよく知っていますから,そのことを忘れないようにしましょう。

10 ある物質の財産を入手することの是非を決定する際に,どんな質問をしてみるのはよいことですか。

10 前途の競走に注意を向けるに当たっては,物について次のような質問をするようにしてください。わたしが生き続け,エホバに奉仕し続けるのにこれは必要なものだろうか。これはわたしがエホバのより良いしもべになる助けになるだろうか,それともかえって邪魔になるだろうか。これはわたしにどんな義務もしくは重荷を課すだろうか。家族を養うのにこれは本当に必要だろうか。それを得るには借金をしなければならないだろうか。それは,聖書研究やクリスチャンの集会,王国の音信を宣べ伝えることなどに用いる時間に食い込んでくるだろうか。これはわたしをなんらかの面でわたしの人生の目的からわき道へそらさせるだろうか。

11 この事物の体制の中で出世することを人生の豊要害とするのはなぜむなしいことですか。

11 親のみなさん,物質主義的な傾向を避けるために,王国の希望に常に焦点を合わせているよう,お子さんを訓練してください。今日の若い人々は,この物質主義的な世界の中で独力で世に出ることを励まされます。しかしそうすることは,多年の学校教育を終えた若者が,職を探しに行き,ドアに掲げられている,「廃業。建物は取り壊され,政府の新しい建築計画が実施される予定」と書かれたサインを無視して,発展しつつある進歩的な会社と思える会社に就職を申し込むのに似ています。この古い体制も,たとえ物質主義的な活動で活気があっても,まもなく廃業するでしょう。真の将来を持つためには,すべての活動を,王イエス・キリストを通して行なわれる,この地に対するエホバの新しい統治に関連させて計画すべきです。

12 神の王国とその関心事を第一にするに当たって,個人的な調整を行なうと何をすることが可能になるかもしれませんか。

12 わたしたちは,自分の持っている資力や能力が命を目指す競走の妨げとなるのを許すのではなく,むしろそれらを王国の関心事の促進に用いるべきです。例えば,もし余分の家を持っているなら,両方の家を維持するために骨おって働く代わりに,それを売って,開拓奉仕をするのにそのお金を使うことはできないでしょうか。もし世俗の仕事をやめているなら,あるいは近く退職するなら,あなたの心は,その増えた自由を王国の伝道に一層十分に参加することに用いるよう,あなたを動かすでしょうか。たとえ資産は少なくとも,どうすればエホバへの奉仕にそれを最も有効に使うことができるでしょうか。

13 本当に命を愛するなら,わたしたちは物質の財産をどのように見ますか。

13 目的は,物を必要に応じて自分に仕えさせることであるべきで,自分が物の奴隷になるべきではありません。もしわたしたちが,霊的価値のあるものを本当に認識して,エホバとの関係を最重要視するなら,エホバは,わたしたちが忍耐して走りつづけ,賞を得るよう助けてくださるでしょう。世はその肉の欲望,目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこととともに「過ぎ去りつつあり(ます)。……しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」― ヨハネ第一 2:15-17。

国家主義に捕えられないようにする

14 命を目指す競争に参加するとき,クリスチャンは,国家主義を含むどんな障害物に直面しますか。

14 命を得るための競走からクリスチャンをわき道にそらさせるために作られた別の障害は,国家主義と関係があります。すべての国でこの障害物は,終わりの時が深まるにつれ,ますます高くされていきます。人がこの障害物に遭遇すると,その人にとって賢明かつ実際的な道は,ただ競走をあきらめてやめることだ,と思えるように仕向けられるのが常です。そうすれば,人々の批判や,非聖書的な法律または態度に強制的に服従させようとする当局者や暴徒がしばしば用いる暴力行為を避けることができるように思えるでしょう。一方,国家主義の宣伝は,国家的または人種的誇りをかき立てるように仕組まれています。それは人が熱中すべき魅力ある目的である,と思えるようにつくられています。事実,多くの国で国家主義は一つの宗教となっています。その結果,各国民集団は,自国と自国の生活様式を最善のものと考え,他に対して狭量になります。

15 国家主義はどんな態度を助長しますか。

15 作家のイボ・デュカチェックは,自著「諸国家間の紛争と協力」の中で次のように述べています。「国家主義は人類を互いに対して不寛容な集団に分けてしまう。その結果,人々はまず第一にアメリカ人,ロシア人,中国人,エジプト人あるいはペルー人として考え,人間として考えるのは二の次である ― それも仮に考えるとすればである」。元国連事務総長ウ・タント氏はこう言いました。「われわれが今日直面する問題の非常に多くは,間違った態度に起因するもの,あるいは間違った態度を取った結果である。なかにはほとんど無意識に示されるものもある。そのうちの一つは,『間違っていようがいまいが自分の国は自分の国』という偏狭な国家主義の概念である」。

16 シャデラクとメシャクとアベデネゴは,バビロンで,国家主義の問題にどのように勇敢に立ち向かいましたか。

16 国家主義は今に始まったものではありません。バビロンにおいて,自らエホバに反対して王となった最初の者ニムロデとともに始まりました。幾世紀か後,この悪名高い都市に捕虜となっていたヘブライ人は,国家主義の残酷で不当な要求の影響を強く受けました。シャデラク,メシャク,アベデネゴは,ネブカデネザルによってドラの平野に集められ,国の像の前にひれ伏して崇拝するよう言い渡されていた臣下の中にいました。しかしながら,真の神エホバの崇拝者であったそれらのヘブライ人は,火の燃える炉に生きたまま投げ込む,というおどしにもかかわらず,ひれ伏すことを拒絶しました。彼らには,激怒した王に次のように告げる勇気がありました。『ネブカデネザルよこの事においては我ら汝に答うるに及ばず もしよからんには王よ 我らのつかうる我らの神我らを救うの能あり 彼その火の燃ゆる炉の中と汝の手の中より我らを救いいださん たといしからざるも王よ知りたまえ我らは汝の神々に事えずまた汝の立てたる金像を拝せじ』― ダニエル 3:16-18。

17-19 (イ)今日わたしたちは,クリスチャンの中立に関する,同様のどんな質問に直面していますか。(ロ)イエスはピラトの調べを受けたとき,どのように模範を示されましたか。(ハ)イエスを退け,国家主義に関係したユダヤ人には,どんな結果が臨みましたか。

17 わたしたちは今日,過去のこれら忠実なしもべたちと同じように感じるでしょうか。国の法律や地域社会の圧力が,国家の象徴の前で頭を下げることや,崇拝行為としてそれに敬礼すること,政治指導者に投票すること,あるいは国家の計画を支持することを避けられないものにしているように思えるとき,わたしたちは妥協して失格者となり,命を目ざす競走からわき道にそれるでしょうか。それともイエスや初期のクリスチャンたちと同じように行動するでしょうか。

18 イエスは裁判を受けるためローマ人の知事ピラトの前に立たれたとき,完全な模範を示されました。ユダヤ人は,イエスが自ら地上の王となった,と偽って主張しました。もしそれが事実であれば,それは反逆となったことでしょう。しかしイエスはピラトの質問に対して次のようにお答えになりました。「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう。しかし実際のところ,わたしの王国はそのようなところからのものではありません」。ピラトはこの正直な答えに基づいてイエスを釈放するつもりでいましたが,彼を訴えたユダヤ人たちは,「この男を釈放するなら,あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな,カエサルに反対を唱えているのです」と答えました。ピラトは,「わたしがあなたがたの王を杭につけるのか」と彼らに抗議しました。祭司長たちは答えました。「わたしたちにはカエサルのほかに王はいません」― ヨハネ 18:33-38; 19:12-16。

19 歴史は,彼らがメシアとしてのイエスよりも「カエサル」のほうを選んだ無残な結果を記録しています。37年後にエルサレムが破壊されたとき多数の人命が失われ,残った住民は諸国民の間で奴隷とされました。この事件で,神の王国にゆるぎない忠誠を保ちながらこの世の事柄に関して中立を維持したのはだれでしたか。それはイエス・キリストです。

20 初期のクリスチャンたちは,国家主義により,わき道にそれるようどのように誘惑されましたか。

20 初期のクリスチャンたちはどうしましたか。ダニエル・P・マンニックスは自著「死に臨んでいる人々」の中で次のように述べています。「クリスチャンは……皇帝の霊に犠牲をささげることを拒否した。今日でいえば,それは国旗敬礼や宣誓の繰り返しを拒否することにほぼ等しい。……クリスチャンの便宜のために,たいてい火の燃える祭壇が競技場内に設けられていたが,信仰を取り消したクリスチャンはほとんどいなかった。囚人がしなければならなかったのは,ひとつまみの香を炎の上にばらまくだけのことで,それをすれば犠牲をささげた証明書が与えられ,自由の身にされた。またそれをしても皇帝を崇拝していることにはならず,ただローマの国の首長としての皇帝の神性を認めるにすぎないのだ,とクリスチャンは注意深く言い聞かされていた。しかしなお,その機会を利用して逃れたクリスチャンは皆無に近かった」。

21 クリスチャンが,国家主義に巻き込まれないために迫害を予期するのはなぜですか。

21 第一世紀から今日に至るまで,国家主義はクリスチャンに激しい迫害を加えてきました。しかし,神を愛し,競走の終わりに与えられる賞を常に見つめていた人々は妥協しませんでした。そうした障害物があってそれと戦わねばならないことは,彼らには不思議なことではありません。そのことは預言されていたからです。イエスは弟子たちに言われました。「人びとに警戒していなさい。人びとはあなたがたを地方法廷に渡し,また自分たちの会堂でむち打つからです。いえ,あなたがたはわたしのために知事や王たちの前に引き出されるでしょう。彼らと諸国民への証しのためにです」。神はご自分の民を試みるために,また彼らに証言を行なわせるために,このことを許されるのですが,イエスはさらにこう言われました。「そして,体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。むしろ,魂も体もともにゲヘナで滅ぼすことのできるかたを恐れなさい」― マタイ 10:16-18,28。

22 「終わりの時」が深まっている現在,国家主義に捕えられないようにすることがますます困難になっているのはなぜですか。

22 「終わりの時」の間に,悪魔の政治組織は,その野獣的な体制を崇拝させようとする圧力に屈しない人々が売り買いできないように,つまり野獣の「印……を持つ者以外にはだれも売り買いできない」ように,神を恐れる人々を経済面で閉め出すであろうことを,聖書は特に警告しています。(啓示 13:17)もし万一あなたの国で,就職するにも,他の恩典を得るにも,ある政党と提携しなければならないということになったなら,あなたはどうしますか。もちろん,家族を養うには職が必要です。窮迫した状態の下であなたはどうしますか。生活必需品をだれに頼りますか。動転してしまって,「きょうこの日のためのパンをわたしたちにお与えください」と神に祈ったことを忘れますか。(マタイ 6:11)エホバは,わたしたちに衣服と食物と住居が必要であることをご存じです。しかし忘れてならない重要なことは,敵である悪魔サタンは,忠誠の問題を生活のあらゆる面に持ち込んでくる,ということです。ヨブの場合のように,悪魔はわたしたちすべてに関し,もし物質の必要物をいくらか奪われれば神に背くだろう,といって非難するでしょう。しかし,この野獣的な体制を崇拝する者たちの名前は一つとして命の巻き物に書かれていない,と警告されています。(啓示 13:8)試みの下でエホバに忠節を保つことにより,わたしたちはエホバが道を開いて助け出してくださる,という確信を持つことができます。

23 (イ)どんな状態があると,クリスチャンは中立でない事柄に巻き込まれやすくなる恐れがありますか。(ロ)わたしたちに対して社会的不正行為が行なわれても,自分でその問題を処置しなければならないと考える必要はありませんが,それはなぜですか。

23 時には社会的,人種的,宗教的障壁と偏見が多くの人を苦しめ,圧迫することがあります。多くの場合それらは,命を得るためのクリスチャンの競走をずっと困難にします。抗議し,反撃を加え,自分で物事を牛耳り,公平を要求するのが一般の傾向です。例えば,ある少数者のグループは,より多くの権利を要求してストライキを行なうかもしれません。政府に圧力をかけるためのデモ行進が組織されるかもしれません。商人たちに圧力をかけるためのボイコットが取り決められることもあるでしょう。グループの中の指導者たちは人々の誇りに訴えかけ,またことばにより,あるいは威圧によってクリスチャンの支持を求めるかもしれません。そのような,またはそれに似た状況に直面したなら,あなたはどうしますか。ここでも,中立を保ってこの世の問題に巻き込まれないようにする必要があります。どんな悪が行なわれていても,エホバはそれを清算されますから,安心していてください。「だれに対しても,悪に悪を返してはなりません。すべての人の前によいものを備えておきなさい。できるなら,あなたがたに関するかぎり,すべての人に対して平和を求めなさい。わたしの愛する者たち,自分で復しゅうをしてはなりません。むしろ神の憤りに道を譲りなさい。こう書いてあるからです。『復しゅうはわたしのもの,わたしが返報する,とエホバは言われる」」― ローマ 12:17-19。

24 クリスチャンと称するある人々は,どんな道を歩んでいますか。しかし彼らはこのことについて何を認めていませんか。

24 ですから,クリスチャンの中立に関してあなたを妥協させるための宣伝や圧力により,命を目ざす競走からわき道へそらされてはなりません。わき道にそれないあなたは批判されるでしょう。なぜなら,キリスト教世界では今日,教区民も牧師も,社会福祉に熱中する傾向にあるからです。神の王国は,人間の社会問題が必要としている真の解決策をもたらすのですが,彼らはそれを待つことをやめました。そしてどちらかの側を支持しています。しかし彼らは次のことを認めていません。つまりこの世では,どちらの側を支持したところで,もしこの事物の体制の打ち出す国家主義的計画や政策のいずれかを活発に支持するなら,やはり悪魔の側にいるのであるということです。

25 物質主義や国家主義に関する問題に将来直面するとき,なぜわたしたちはエホバに全き信頼を置くことができますか。

25 ですから,物質主義にも国家主義にも,あなたが歩んでいるクリスチャンとしての道からそらされないようにしてください。神と,また神のみ子キリスト・イエスによる神の王国に全き信頼を置いてください。「あなたがたの生活態度は金銭に対する愛のないものとしなさい。そして,今あるもので満足しなさい。『わたしは決してあなたを離れず,決してあなたを見捨てない』と言っておられるからです。こうして,わたしたちは大いに勇気を持って,『エホバはわたしの助け主,わたしは恐れない。人はわたしに何をできようか』と言います」。(ヘブライ 13:5,6)しかし,永遠の命を目ざす競走からクリスチャンを取り去る障害物はほかにもあります。次の研究ではそれらについて検討しましょう。

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