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  • 神のあわれみはあなたのすべての罪を覆いますか
    ものみの塔 1974 | 11月15日
    • の冷淡な態度で行なったのではなく,その人々を「哀れに思」って行ないました。―マタイ 20:33,34。

      15 ヨハネは神の愛とわたしたちの愛をどのように比べていますか。

      15 これは,イエスの異父兄弟ヤコブのことばにいっそうの意味を添えないでしょうか。ヤコブは次の警告を述べました。「あわれみを実践しない者は,あわれみを施されることなく自分の裁きを受ける」。(ヤコブ 2:13)わたしたちに対する神のあわれみは非常に大きく,そのゆえにわたしたちは,たとえ比較的にはわずかであるとはいえ,共なる人々に対してあわれみを働かさざるをえません。ヨハネはこう述べました。「愛する者たちよ,これからも互いに愛し合ってゆきましょう。愛は神からのものだからです。そして,すべて愛する者は神から生まれており,神について知るのです。愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです。わたしたちの場合,これによって神の愛が明らかにされました。すなわち,神はご自分の独り子を世に遣わし,彼によってわたしたちが命を得られるようにしてくださったからです。愛はこの点,わたしたちが神を愛してきたというよりは,神がわたしたちを愛し,ご自分のみ子をわたしたちの罪のためのなだめの犠牲として遣わしてくださった,ということです。愛する者たちよ,神がわたしたちをこのように愛してくださったのであれば,わたしたち自身互いに愛し合う務めがあります」― ヨハネ第一 4:7-11。

      神のあわれみはどこまで及ぶか

      16 わたしたちに対する神のあわれみは,わたしたちが働かせるあわれみとどのように比較できますか。イエスはそのことをマタイ 18章23-35節でどのように例示しましたか。

      16 このことがときに難しく見え,仲間のクリスチャン兄弟のとがや欠点と思えるものが非常に大きく,愛を示しあわれみを差し伸べることに関するこの要求を無視してしまいたいと感じる場合があるかもしれません。そして,自分の心の中で,こうした“極端な”過ちを見過ごしてよいとイエスは言わなかったはずだと理由づけをするかもしれません。しかしパウロは,神の愛がわたしたちの示すいかなるものより大いなるものであることを示して,こう述べました。「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられ(ます)」。(ローマ 5:8)自分が神にゆるしていただいた罪に比べれば,クリスチャン兄弟に対してゆるすことを求められる罪はずっと小さいではありませんか。そして,贖いを備える点でわたしたちは神のあわれみを全く必要としており,これはわたしたちが兄弟たちのために満たすことのできる必要とは比較になりません。したがって,あわれみに欠ける人に神のあわれみが差し伸べられないことに何か不思議があるでしょうか。―コロサイ 3:13。マタイ 18:23-35と比較。

      17 献身していても裁きを受ける場合のあることを述べなさい。しかし,ヤコブはどんな再保証を与えていますか。

      17 それで,わたしたちにきわめて関心のある点として,次の問いがあります。つまり,神のあわれみはわたしたちのすべての罪を覆うでしょうか。エホバ神に献身し,水のバプテスマでそれを表わし,正しい良心を神に願い求めていても,それでも,他の人に愛やあわれみを働かせなかったことに対して神の裁きを受けることがあるでしょうか。(コリント第一 13:1-3)すでに引用したとおりですが,ヤコブはこう警告しました。「あわれみを実践しない者は,あわれみを施されることなく自分の裁きを受けるのです」。しかしヤコブは,慰めとなる次の再保証のことばをもその後に続けています。「あわれみは裁きに対して勝ちを得て歓喜します」。(ヤコブ 2:13)どのようにですか。そして,裁きの日が来る前の今でも,わたしたちはどのような点であわれみを欠き,裁きを受けることがあるでしょうか。

      18 あわれみのどんな手本を取り上げることができますか。それはあわれみのどんな模範に倣うものでしたか。どんな面で?

      18 あわれみを,そのことばに含まれる意味のとおりに存分に働かせた顕著な例として,ヤコブが特に好いた息子ヨセフの場合があります。しかしヨセフは,そのあわれみの示し方において,エホバ神ご自身がその時示しておられた手本に倣っていました。自分と自分の父の家族に示された神のあわれみをヨセフが当初十分に悟っていたかどうかは聖書に記述されていません。しかし,ヨセフはエホバの救出に全くより頼んでいました。そして,エホバの導きに従い,父ヤコブから学んだエホバの義の要求を堅く守るという決意からそれることはありませんでした。また,ヨセフが最大の窮状にあった時,彼のために表わされたエホバのあわれみが常に彼を助け,やがてそれが彼をして当時の世界で二番めに高い地位に就かせました。それは非常な権力を伴う地位であり,望むなら,自分を虐待したすべての者にうらみをはらしてもとがめを受けないで済む地位でした。あるいは逆に,その地位を生かしてそれらの人々に大きな祝福をもたらすこともできました。ヨセフは,悪行の責めを負う人々だけでなく,優しい同情と感情移入とによって,窮状にある人々に対してもどのようにあわれみを働かせたでしょうか。また,『あわれみが裁きに対し勝ちを得て歓喜する』ということを,この真実な生涯の物語がどのように示しているでしょうか。そうした点は次の記事から学びます。それを取り上げるに先だって創世記 37章から47章までを注意深く読んでおくなら,そこから得られる興味と教訓は非常に大きくなるでしょう。

  • あなたはどれほどあわれみ深い人ですか
    ものみの塔 1974 | 11月15日
    • あなたはどれほどあわれみ深い人ですか

      1 広い範囲にわたってあわれみの欠けた今の世代はその事についてなぜ言い訳ができませんか。

      不寛容で私利本位なこの時代にあって,あわれみ深く行動する人は,他の人にさわやかなものを与える祝福です。真の神についてこう述べられています。『エホバは恵みふかく なさけにみち また怒りたまふことおそく あはれみおほいなり エホバはよろづの者にめぐみあり そのふかきあはれみはみわざの上にあまねし』。(詩 145:8,9)またイエスは,「あなたがたの父があわれみ深いように,あなたがたも常にあわれみ深くなりなさい」と訓戒しました。(ルカ 6:36)それで,いろいろな民や国民の間のさまざまな疑り,対抗,敵意などによる今日のきわめて不寛容な状態は,今の世代に対する厳しい告発となるではありませんか。

      2 神のあわれみはどのような人にのみ及びますか。なぜ?

      2 箴言 28章27節はこう述べます。『貧しき者にほどこすものは乏しからず その目をおほふ者はのろひを受くること多し』。このことばから明らかなように,神のあわれみは,『その目をおおう者』には及びません。神は感傷的なかたではありません。神があわれみを働かせる場合,それは常に,正義や神聖さなど,神の他の資質や義の規準と調和を保っています。(ホセア 2:19)何を行なおうといつまでも神のあわれみを受けられると考えて神のあわれみに付け込む人は,必ず苦い失望に至ります。行動や生活態度によって神の義の道に対する故意の不敬を示す人は神の不興を受けます。神が『怒りをもてそのあはれみをとぢたまふ』のも当然です。―詩 77:9。ローマ 2:4-11。

      3 わたしたち自身のあわれみの質を判断する上でどんな問いが役だちますか。

      3 イエスの異父兄弟ヤコブは健全な警告を与え,同時に再保証のことばをも書きました。「あわれみを実践しない者は,あわれみを施されることなく自分の裁きを受けるのです。あわれみは裁きに対し勝ちを得て歓喜します」。(ヤコブ 2:13)あなたはどれほどあわれみ深い人ですか。あなたは,自分の感情を害する事が何かなされてもそれ

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