-
魂をこめて神聖な奉仕をささげるものみの塔 1977 | 11月1日
-
-
です。わたしたちが何をしているか,どんな人間であるかを知っておられるのです。
17 聖書に関する知識はどのように役立ちますか。
17 ペテロは言葉をつづけます。「あなたがたの……徳に知識を,知識に自制を,自制に忍耐を……加えなさい」。聖書に関する優れた正確な知識が,人々にその重要性をよく納得させ良い結果をもたらすのにどれほど役立つかは,容易に理解できます。この知識は,良いたよりを単に擁護するのではなく効果的に擁護する用意を常に整えて置く助けになります。そればかりでなく,わたしたちがエホバの恵みを得るようエホバがわたしたちに何を要求しておられるかを知る助けにもなります。この知識を取り入れてゆくとき,わたしたちはすべての事柄を全き心と思いをもってエホバの方法で行なうことの価値を,いよいよはっきり悟ることができるようになります。
18 (イ)わたしたちが自制できる点をいくつかあげなさい。(ロ)パウロがガラテア人に書き送ったところによると,独身の彼が自制を重要なことと考えたことを何が示していますか。
18 このことは自制という問題につながります。もしわたしたちがエホバの言葉に従わず,自分の肉体やその情欲 ― または自分の手で行なうこと,自分の足が向かうところ,自分の口が言うことを抑制しないなら,その生活はどうして魂をこめた献身の生活でありうるでしょうか。勉強する時間になってもテレビを切るだけの自制力がないなら,どうして霊的に進歩できるでしょうか。わたしたちはどちらに最も多くの時間を費やしていますか。テレビを見ることや他のレクリエーションにですか,それとも霊的な事柄にですか。これは考えなければならないことです。わたしたちはどのように時間を費やすことを望んでいるでしょうか。一週に一度や二度ではなく「昼も夜も」「神聖な奉仕」に関係のある事柄に用いることができる,神が備えてくださったもの,というふうに自分の時間を評価しますか。魂をこめてエホバに仕えるには,己を制することが求められます。それは自分の精力や考えを,自分に向けたり,主として気ままな生活に向けたりするのではなく,エホバに向けていなければならないことを意味します。―ガラテア 5:16,17,22-24。
19 クリスチャンにはなぜ忍耐と敬神の専念が必要ですか。
19 しかし,もしわたしたちが,一度見いだした真理に堅くつき従わず,忍耐と敬神の専念を示さないなら,知識や自制といえども価値のないものになってしまいます。ルカが書いているとおりです。(21:19)「あなたがたは自らの忍耐によって自分の魂を獲得するのです」。そうです,命を得る見込みは忍耐にかかっているのです。ある人々は,マラウィのエホバの証人のように,身体的虐待に耐えねばなりません。良いたよりを伝える努力に対する無関心,友達や家族から来る圧力や嘲笑,また中には暴力による反対にさえ悩まされる人々もあるでしょう。しかしパウロはテモテに言いました。「敬神の専念はすべての事に益があるからです。それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです」。(テモテ第一 4:8)ですから,神への神聖な奉仕において無活動になったり,実を結ばなくなったりしないで,忠実に奉仕をつづけるには,忍耐と敬神の専念の両方が必要です。
20 兄弟の愛情と愛は,奉仕において実を結ばなくなるのを避けるのに,どのように役立ちますか。
20 最後にペテロは,敬神の専念に兄弟の愛情を,兄弟の愛情に愛を加えなさい,とわたしたちに告げます。(ペテロ第二 1:7)この愛は実の家族だけでなくすべての人に及びます。(ガラテア 6:10)他の人々に純粋の関心を払う人,そしてアガペーすなわち原則に基づく愛を示す人は,真理を伝える努力にしばしば良い反応を得ます。エホバがわたしたちに愛を示してくださるように,わたしたちもすべての人に愛と兄弟の愛情を示したいものです。霊的に助けたいという誠実な願いを含め,わたしたちは個人としての人々に関心を示すべきです。こうした事柄すべてを行なうことによってわたしたちは,「わたしたちの主イエス・キリストについての正確な知識に関し無活動になったり,実を結ばなくなったりするのを」避けることができます。―ペテロ第二 1:8。
祝福をもたらす奉仕
21,22 (イ)ペテロのどんな助言は,霊と真理とをもって神に奉仕するひとりびとりに当てはまりますか。(ロ)わたしたちはルカ 13章24,25節のイエスの言葉をどのように適用できますか。
21 ペテロは励ましの言葉をつづけます。「このようなわけで,兄弟たち,自分の召しと選びを自ら確実にするため,いよいよ力をつくして励みなさい。これらのことを行なってゆくなら,あなたがたは決して失敗することはないからです。事実,そうすることによって,わたしたちの救い主イエス・キリストの永遠の王国に入る機会が豊かに与えられるのです」。(ペテロ第二 1:10,11)キリストの共同相続者の油そそがれた残りの者であっても,「大群衆」の者であっても,「力をつくして励みなさい」というこのペテロの励ましは,王国の祝福を享受したいと思う人ひとりびとりに当てはまります。
22 今はわたしたちの神聖な奉仕を減らすようなときではありません。むしろペテロはわたしたちにこう訴えます。「あなたがたは聖なる行状と敬神の専念のうちに,エホバの日の臨在を待ち,それをしっかりと思いに留める者となるべきではありませんか」。(ペテロ第二 3:11,12)イエスは,み使いたちが「羊」と「やぎ」を分けるために肉体を備えて現われることを期待して彼らに弟子を作る仕事を割り当てるようなことはされませんでした。その代わりに,奉仕と,魂をこめた献身とによってイエスの真の追随者であることを示す人々にその仕事を割り当てられました。(啓示 12:17)今こそ,定期的な王国活動によってわたしたちの天の王を喜ばせる時であって,びっこの犠牲,つまり時たまの,あるいは不定期的な奉仕による身の入らない賛美の犠牲をささげる時ではありません。―マラキ 1:6-8。ルカ 13:24,25。
23 今魂をこめて神聖な奉仕を神にささげている人々の前にはどんなすばらしい見込みがありますか。
23 魂をこめて行なう神聖な奉仕で生活を満たすとき,わたしたちは幸福なハルマゲドン生存者の群れの中にいるという確信を持つことができます。彼らは大患難後も,神のみ座の前でその奉仕を昼も夜も引き続き喜んで行ないます。そして啓示 7章17節にあるように,「み座の中央におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれ」ます。心をこめて神聖な奉仕をエホバにささげつづけるなら,わたしたちの前にはなんとすばらしい見込みがあるのでしょう。
-
-
賢人はどんな意味で述べたかものみの塔 1977 | 11月1日
-
-
賢人はどんな意味で述べたか
両極端を避けるのは賢明
不完全な人間はすぐに平衡を失って極端な見方をしがちです。そこでソロモン王は次のように諭しました。「あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして,自分の時のこないのに,死んでよかろうか。あなたがこれを執るのはよい,また彼から手を引いてはならない。神をかしこむ者は,このすべてからのがれ出るのである」― 伝道 7:16-18,口。
義に過ぎる人は,ささいな問題を心配しすぎます。例えば,聖書中に述べられていない事柄で,完全に人間が考え出した手段または方法によって行なわれる事柄について大騒ぎをします。だれかが親切な行ないをしているところや,あわれみ深い行ないをしているところを見ても,特定の「慣習」が無視されたことを理由に異議を唱えます。そういう人はパリサイ人によく似ています。パリサイ人は,イエス・キリストが安息日に苦悩している人々にすばらしい解放をもたらしたことを喜ぶどころか憤怒しました。そして神の子が安息日にいやしを行なって律法を犯したという結論を下しました。(マルコ 3:1-6。ルカ 14:1-6)義に過ぎる人は,何をすることがあわれみ深い,愛のある,あるいは助けになる事なのか考えない場合
-