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カナダからの報告ものみの塔 1954 | 8月15日
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夫は,こう言いました『こんどは人を間違えましたね。私はこれらの証者たちを知るようになり,それらの証者は非常に立派な人たちですよ。』そして,もしその人が証者たちと交わらなければ,その地方の聖心会の会長にしようと,牧師は申しでました。その人は牧師に,聖書研究を止めさせてしまうような制度,そしてまたその制度内に人々を縛りつけるために賄賂を申し出るような制度とは関係を持ちたくないと言いました。その時から,その夫婦は定期的な研究をして,いまでは御国の定期的な伝道者です。証者たちを追い出す代りに,その牧師の教会区の中に,証者が住んでしまう始末になりました。
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読者よりの質問ものみの塔 1954 | 8月15日
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読者よりの質問
★ もし両親がヱホバの忠実な僕であるならば,流産の赤児,または生れて間もなくして死ぬ赤児によみがえりがあたえられますか? ― アメリカの一読者より
ヱホバがよみがえりをあたえる,または創造した体の中に入られるものは,その人が死ぬ前につくりあげた生命の型,すなわち個性です。生まれて数時間か,数日あるいは1年たつて死ぬ子供は,生命の型,または理智の記憶をつくりあげなくても,その子供は両親から精神的なものや性格をうけついでいます。それで,もし時間があつて,それらのものが発展して行つたならば,その家族との親族関係を示すような明白な個性が結果として生じたことでしよう。エール大学の中央児童研究所のジェー・イー・セン博士は,小児科医学と精神病学の教授という資格を持つていますが,同博士は1949年の3月に,このように言いました。『心理学とまた生理学からみて,各人の構造組織の始まりは,妊娠とともに初まるように見える。……子供が生まれて世にくる時には,肉体上と精神的な型は,かなりに良く整えられているのである。そして,その成長する期間のあいだ,子供の振舞いは,それらの型によつて影響をうけるのである。』
ヱホバ神とキリスト,イエスは,赤児にあるこれらのすべてのかくれていて表われない傾向をよく知ることができ,そしてふたたびつくりだすことができます。それで,よみがえりの時に,それらをふたたびつくりだすでしよう。よみがえりをうける子供は,その母親にとつて,間違のないほんとうの子供です。そして御国の支配の下にあり,新しい地にあつて子供が生長する時,そのような性質や傾向はあきらかに示されてきます。母親にとつて,この事実はますます明瞭に表わされてきます。基礎的な肉体上の類似ではなく,これらの理由でもつて,その子供はほんとうに自分の子だと母親は知るようになります。流産の子供の場合ですが,両親からうけつぐ肉体上と精神上の型は,妊娠のときから,そして胎の中で生長していたあいだにあつたものですが,しかしその子供は個人としては全然生存しませんでした。よみがえりは,生存した者たちだけにあたえられるものです。
親が信者であることにより,子供たちが潔められているならば,たとえ赤児で死んだとしても,そのような『聖い』子供たちが,よみがえりをうけるということに疑いを持つ理由はありません。
★ 日本の習慣にしたがつて,家族の名前を守るためとか,または別の他の理由で自殺をした人々は,よみがえりを受けて生き返えりますか? また人殺しに復活はありますか? ― 日本の一読者より
ユダヤの国民は,ヱホバ神と契約を結んでいましたが,その律法は次のように言つていました『当然に死に値いする人殺しの魂にたいして,贖いをしてはならない,なぜならばその人殺しは,間ちがいなく殺されるべきものだからである。』クリスチャンは人殺しをするならば,生きることはできません。『兄弟を憎む者は誰でも人殺であつて,人殺しは永遠の生命を持つていないということは,あなたの方の知つているところである。』自殺ということは,自分を殺すことなのですから,自殺も人殺しであると考えられましよう。それで,ヱホバ神に生命を献身した人が,慎重に考えてから,自殺したり,または故意に他人を殺すならば,ヱホバがそのような人を憶えていてよみがえりを与えるということは,どうもありそうもないようです。―民数記略 35:31。ヨハネ第一の書 3:15。
しかし,ヱホバの律法を知らなかつた人で,神の献身した僕でない場合には,事柄は前の場合と違うでしよう。その人が自殺して死ぬにしても,また人殺しをして死ぬにしても,その人は,ひどい罪を犯して有罪として死ぬのです。しかし,他にも多くのひどい罪があり,それらの罪に対して悔い改めをすることができます。ある時に,パウロはクリスチャンたちに手紙を書き,彼らは以前は非常に不道徳で,堕落していたが,彼らがその罪を悔い改めて,その罪の行いを止め,そしてキリストを通してのヱホバの要求をうけ入れたので,洗い清められたと言いました。聖書の別のところに,人殺しが悔い改めをしないということが記されています。そのことから,或る条件の下にあつて,人殺しは悔い改めをすることができたことが分ります。(コリント前 6:9-11。黙示 9:21)自殺と人殺しの罪は,必らずしも聖霊に対する罪ではありません。それで,そのような罪は許されることもあり得ましよう。どんな種類のものであれ,罪は罪です。それで真理に入つていない自殺者または人殺がよみがえりをうけるかどうかということは,その人の特定の罪或いは前に行つた罪よりもむしろどれ程深くその人が異教の宗教,または悪鬼の宗教にしみこんでいたかどうか,そしてまた悔い改めて異教主義から直され回復されるその人の能力に依存するようです。そして人が悔い改めて,直され回復されるこの能力を判断し,そしてある人を復活させるか,復活させないかを決定する方はヱホバ神とキリスト・イエスです。私たちはその力ある,正しい,そして恵み深い御手の中に,この事柄を安心してお任かせすることができます。
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