神の目的とエホバの証者(その29)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
戸別的な伝道に録音された音信を用いる
ロイス: ラジオ放送に対する圧迫や弾圧にもかかわらず,わざが減少しなかったのには,おどろきますね。
トム: ロイス,忘れたはずはないと思うがね。いつかのジョンさんの話によると,協会はすでに録音した講演を公開の集会や個人の集会で使用していて,ローマ・カトリックの教職制度の不法な反対に対抗していたのです。
ジョン: おぼえていて戴いてうれしく思います。協会が録音した講演を使用したのは,ラジオ放送よりもずっと効果的なものでした。実際のところ,1933年中の結果はたいへん良かったので,協会は翌年には別のわざの奉仕を始めました。それは持ち運びできる蓄音機と録音された短い聖書講演でした。その講演は1分間78回転のレコード盤で,時間の長さが4分半の話でした。a
最初,この仕事はほとんど興味を持つ人を再訪問することだけでした。しかし,結局それはたいへん効果があったので,家から家の伝道にもひろく使用されるようになりました。蓄音機を使用することによって,音信は個人的に,効果的に提供することができ,証者たちは人々の質問に答えることができました。また,レコードは本部で作られたので,全世界で同じ音信が伝道されました。
それから1937年,ラジオ通信の使用について歴史的な決定がくだされました。エホバの証者は,ラジオの使用を自発的に断念しました。
と言っても,協会はラジオ電波の戦いで負けたわけではありません。その年にも,また後の時でも,協会の会長はラジオ放送網を使用して幾度も大切な公開講演をしたからです。実際,その年オハイオ州コロンブス市で行なわれたエホバの証者の大会で,9月18日の午後ルサフォード兄弟は2万5千人の聴衆に話をしましたが,それはアメリカ合衆国,北アメリカのほとんど全部,英国,欧州大陸とオーストラリアで放送されました。翌日,「安全」と題する公開講演は,135のラジオ放送局の施設を用いて,アメリカ合衆国中に放送されました。
それから,9月26日,すなわち大会の最後の日の次の日曜日,協会の会長は125局の全国的なラジオ放送網を用いて,「神を崇拝する」と題する講演を放送しました。この話の中で,ルサフォード兄弟は協会が自発的にラジオ放送を止める理由を述べました。その年の活動についての彼の正式な報告は,これらの理由をくわしく述べています。そして,ローマ・カトリックの教職者や他の牧師の行なってきた10年にわたるボイコットや脅迫の例を述べ,かつ次の事実に注意をひきました。
そのように悪い手段が採用されたので,幾百万人というアメリカの市民は,議会や連邦ラジオ委員会に請願状を提出し,ものみの塔のプログラムへの干渉を禁止する手段が取られるようにと要求した。そのような圧迫と干渉を中止させるための手段はなにひとつとられず,かえってアメリカ政府の役人や,ラジオ放送局の所有者,および他の者たちは,御国の音信の放送を妨害してさまたげるのに共謀して働いたのである。この理由の故に,ラジオは今日にいたるまで所有者やオペレーター,合衆国の政府役人,そして特に牧師たちをためすテストになったのである。彼ら全部は,キリストの支配下にある神の御国に敵対した。この試験により,それらの反対者たちはみな神とその御国の敵なることを示した。したがって,ラジオは諸国民に警告を与えて人々を分けてしまい,かつ敵対者たちをして,神の御国に反対する者,そして悪魔の制度の一員なることを証明させるのに役立った。b
1937年10月31日以後,協会は商業的なラジオ放送局との契約をすこしも結ばないようにしました。WBBRは放送をつづけました。そして,ラジオ放送局が自発的に無料の放送時間を提供するなら,それは善意の表われとして受けいれられ,御国の音信をひろめるために用いられました。このようにして,ラジオ放送についての戦いは終わりました。
トム: その後,エホバの証者は録音した講演の集会と蓄音機の使用に努力を集中しましたか。
ジョン: そうです。ラジオ放送に対して抱いていた同じ熱心をもって,彼らはこの新しいわざに時間,金銭,および努力を注ぎました。その結果,蓄音機の仕事は栄えて,伝道のわざに強い力を持つものとなりした。1937年,この録音された講演を,公にも個人的にも,聞いた人の数は1036万8,569名と報告されましたが,1938年にはこの数は1307万426名に増加しました。また,1938年までには,英語の他に16の言葉で録音された講議が43万枚もありました。そして,1万9,676台の蓄音機が使用されていたのです。c 証者たちは,戦いのこの新しい局面で十分の武装を身につけて,真の崇拝を守りました。
トム: 敵共は,この新しい活動を見すごさなかったと思います。
ジョン: 全くその通りです。多くの人々が,ラジオ放送局で放送された神の御国の音信に答え応じたので,敵共はたいへん困っていました。ところが,今度はこの同じ音信が蓄音機によって人々の家庭に伝えられ,人々は話を聞いてから,質問することができ,聖書から正しい答えが与えられるようになりました。エホバの証者が,ラジオ放送から手を引いたことは,退却でなく,かえって側面攻撃であることは明白になりました。証者に反対する宗教人は大いに困り,彼らは敗北を喫するでしょう。1933年にしずかに始められたこの蓄音機による音信の伝道は,非常にすばらしい成果を収めました。憎しみの念に満ちる宗教反対者たちは,ラジオ検閲による弾圧が失敗に帰したと悟りました。
1938年4月26日,コネチカット州で怒りに満ちた抗議の声があがりました。ひとりのエホバの証者は,人々の家庭で「敵」と題する録音レコードをかけていました。それで,彼はカトリック信徒の住む場所の平和をみだしたという理由で,ふたりの息子と共に逮捕されました。ふたりのローマ・カトリック信徒の訴えで,この件はコネチカット法廷に提出され,同兄弟は有罪であるという判決を言い渡されました。このことから,コネチカット州だけでなく,アメリカ国内において,次のような質問が生じました,すなわちエホバの証者はこの効果的な手段により公共教育のわざをつづけることができますか。この問題は,次の2年間解決しませんでした。d この新しい世の社会の機構にいくつかの重大な出来事がおきて後に,はじめて解決されたのです。
拡大された奉仕が始まる
一方,伝道の任務の別の部門は進展していました。エホバの油注がれた者を集めるわざが行なわれた1874年から1914年までの奉仕については,その詳細についてすでにお話ししました。1914年から1918年まで,「荒布を着た」証言の期間中,結果が減少しながらも,このわざはつづけられて行きました。それから,真の崇拝が1919年に回復し,新しい世の社会が存在したとき,その召はキリストの共同相続者として御国の群れをつくりあげる者たちにひきつづき与えられました。エホバは1918年に宮に来られ,油注がれたこの級の者たちをさばき始めました。しかし,他の者を入れることは必要でした。なぜなら,ある者たちはふさわしくない者と判明し,別の者が彼らのかわりにならなければならないからです。証拠の示すところによると,このわざは特に1931年までつづきました。1931年,主イエス・キリストの「他の羊」と認められる者を集めるわざが始まりました。
パストー・ラッセルが宣教を始めた時から,次のことは知られており,教えられていました。すなわちキリストの共同相続者として天的な生命をうけつぐ者の他に,一般人類は地上で完全な生命に回復されるということです。しかし,かなり長い期間,「ものみの塔」は次のような見解を発表していました。つまり,別の群れはいつかは神の恵みをうけて天における霊者の生命という祝福をうけるでしょう。しかし,彼らはキリストの共同相続者のうける祝福にくらべて,二次的な祝福をうけるというのです。また,これらの者たちは黙示録 7章9節で述べられている「大いなる群衆」を形成すると考えられました。しかし,1935年にワシントン・D・C・で開かれた大会には,ものみの塔の発表を通して,「ヨナダブ級」が特に招待されました。そして,黙示録 7章9節の大いなる群衆は,ヨナダブ級つまりマタイ伝 25章31-46節に出ている羊級と全く同じであると聖書的な証明が提出されました。はるか昔の1923年には,この羊は世の「終りの時」に現われる地的な群れであると認められていました。また,1932年には,この羊級はエヒウとヨナダブの預言劇によって予表されたともわかりました。この劇の中でエヒウ王はキリスト・イエスと彼の霊的な兄弟の残れる者を表わしました。一方,ヨナダブは背教した宗教を滅ぼすキリストと交わる者たち,ハルマゲドン後の地上に生活する善意者の級を表わしました。次のことがはっきり分かってきました。つまり黙示録 7章9節の大いなる群衆は二次的な霊的の級ではなく,むしろこの終りの時における「他の羊」であるということです。e 言うまでもありませんが,この解明は出席していた幾千人という人を大いによろこばし,聖書の教理と教えを明確なものにしました。
1900年のあいだ,クリスチャン会衆はその天的な希望に専念してきました。たしかに,講演会や,創造の写真 ― 劇は,地上の人間に平和な状態を再びもたらすという神の目的に多くの人の興味をひきました。また,1918年から1921年までの「現存する万民は決して死することあらじ」の運動は,将来の地上に,みちるこの級の人々に音信を伝えることでした。しかし,彼らを集めることは,強調されていなかったのです。その理由の故に,「ものみの塔」は,特に残れる者のために霊的な食物を供給しつづけました。しかし,1935年以後は,変化が生じました。神の民のための霊的な食物は,御霊で産み出される者に向けられるだけでなく,聖書的な希望で地的な者たちを強めるために適当な滋養物を供給しなければなりません。残れる者が野外に出かけるとき,エホバの油注がれた者の散らされた羊を探すだけではすまなくなりました。これらの奉仕者は,「他の羊」を探しはじめねばなりません。彼らはキリストの群れの中に多数の「他の羊」を集める準備をしなければならないのです。それらの者たちも,神の御こころを熱心に求め,彼らに命ぜられた仕事をよろこんでします。
油注がれた残れる者と称したある者たちにとって,これは真実の試練となりました。彼らは神の目的の実現よりも,自分自身および自分の救いに多くの興味を持っていたので,彼らに課せられたこの新しい責任に反抗し,ある「選出された長老」たちのごとく,脱落して行きました。しかし,残れる者の中の大多数の者は,エホバ神と地的な「隣人」に対する愛を表わすこの機会を熱心にうけいれました。そして,幾世紀ものあいだ神の僕たちに見られる熱心をいだいて,この拡大された伝道の任務を果たしました。この啓示には,ほんとうにびっくりさせられました。しかし,この新しい運動が良く進歩するまで約10年かかりました。
[脚注]
a (ワ)1935年の「年鑑」(英文)39頁。
b (カ)1938年「年鑑」(英文)48頁。
c (ヨ)1939年「年鑑」(英文)59,63,64,68頁。
d (タ)キャントウェル対コネチカット州(1940年)310 U・R・296。
e (レ)1935年の「ものみの塔」(英文)227-236頁; 243-252頁,「ビンヂケーション」(英文)第3巻(1932年)77-80頁。1942年の「ものみの塔」(英文)374頁。