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  • ルーツを尋ねて ― 切なる思いでそれを捜し求めた養子
    目ざめよ! 1979 | 2月22日
    • ルーツを尋ねて ― 切なる思いでそれを捜し求めた養子

      秘密厳守の法律の壁

      一昨年,私たち夫婦は,「ルーツ」という題の,一週間にわたるテレビの特別番組を一部見ました。自分の血統について詳しく知りたいと思う人が少なくない理由を,私は多くの視聴者よりも深く理解できたのではないかと思います。自分がどこから来て,自分の両親や親族はどんな人なのかを知りたいと思うのは,ごく自然です。興味深いことに,自分の先祖<ルーツ>を尋ねる人が最近は非常に増えています。

      ニューズウィーク誌のある特集記事は,「自分の血統を知るための探索は驚異的なものになっている」と伝えています。ある系図図書館のスポークスマンは,こうした探索の増加について,「人々の挙げる理由はほぼ一定していると言ってよく,『わたしは自分がだれであるかを知りたいだけだ』というものである」と述べています。

      しかし,そうした人々の中には,自分の血統に特別な関心を抱いている人々がいます。それは養子にされた私のような人たちです。しかしそのほとんどは,生みの親の身元を知ろうとする度に,必ずと言ってよいほど失望させられてきました。

      このように秘密を厳守する原因が何にあるか,あなたはご存じですか。そうするだけの理由が十分にあるのでしょうか。

      秘密厳守の法津の壁

      米国の法律では出生の秘密は厳守しなければならないことになっています。子供を養子にすると,新しい出産証明書が発行されます。これは事実上,その子供が“新たに誕生”したという考え方です。養子にされた子供の元の出産記録は封印され,養子になった子供がそれを見ようとしてどのように請願しようとも,絶対と言ってよいほど封印は解かれません。法の規定に反して封印を破る者には,罰金刑や懲役刑が課される場合もあります。

      米国ではほとんどすべての州で,養子の人は成年に達しても自分の出産記録の閲覧を禁じられています。他の国々の法律はそうではありません。例えば,イスラエルやフィンランド,スコットランドなどでは,養子の人は成年に達すれば,自分の元の出産証明書を入手できます。

      養子縁組に関する米国の法律は,300万ないし500万と言われる私たち養子や実父母や養父母を含む,文字通り幾百幾千万の人々に影響を及ぼします。米国における養子縁組の数は,世界の他の国々における養子縁組の総合計をもしのぐと言われています。米国では1970年に,17万5,000組という養子縁組の最高数に達しましたが,それ以後その数は減少しつつあります。

      養子縁組関連法の発達

      数年前,私は養子縁組の問題について詳しく調べることに関心を抱くようになりました。養子縁組の歴史が古いものであることは,聖書を読んでみてはっきりわかりました。例えば,イスラエル人であった赤子のモーセはナイル川に捨てられていたのを拾われて,ファラオの娘の養子とされ,『その子となりました』。(出エジプト 2:5-10,口)また,古代バビロニアのハンムラビ法典をはじめ,ヒンズー教のマヌ法典,そしてアッシリア,エジプト,ギリシャ,ローマなどの法律にも養子縁組の規定が含まれていたことを後ほど読みました。

      こうした養子縁組に関する法律が特に目的としていたところは,家系の断絶を防ぎ,法定相続人を造り出すことにありました。これで思い起こすのはイスラエル民族の父アブラハムです。興味深いことにアブラハムは,明らかに自分の奴隷エリエゼルを養子に似た立場にある者とみなしていました。というのは,アブラハムは,「わたしには子がなく,わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルである」と言ったからです。―創世 15:2-4,口。

      近代について言えば,米国法の基礎になった英国のコモン・ロー法系の中には,養子縁組に関する規定はありませんでした。ですから,1800年代の半ばごろに各州が養子縁組を認める法律を成立させるようになるまで,米国には法的な養子縁組は存在しませんでした。英国で,養子法により養子縁組が可能になったのは1926年になってからのことでした。子供が養子になると,その子は法的に実父母と関係がなくなり,養父母とのみ関係を持つようになります。

      思いやりのある規定

      私は個人として,現代のこうした養子縁組に関する規定が有益なものであることを証言できます。過去においては,親が望まなかったり,扶養できなかったりする子供は,普通,施設で育てられたものです。一般的にそうした子供たちはうまく育たず,死亡率はかなり高いものがありました。本当に子供を欲しがっている夫婦がそのような子供たちを養子にして,子供が必要としている愛のこもった世話をしてやれるなら,そのほうがどれほど良いかわかりません。

      私の養父母はそのように愛をこめて世話をしてくれましたから,その恩は決して忘れません。養父母は私を実の子のように育ててくれました。しかし,それと同時に,私のまだ幼い時に,私が養子であることを教えてくれました。養父母が養子にそのことを教えるのは賢明だと思います。それを他の人から聞かされると ― その可能性は大きい ― 子供は普通衝撃を受けるだけでなく,養子縁組を秘密にしておこうとしていた養父母はわたしをだましていたのだと感じます。しかし,養子であることを知らせる一番よい時は,少し物心のついた,六歳から八歳くらいのころかもしれません。

      近年になって,環境が子供の幼いころの成長に非常に重要であることを学び,養父母に対する私の感謝の念は一層深まりました。例えば,米国で,特に黒人の子供は,白人の子供と同じほどには教育や文化の恩恵に浴してきませんでした。それで,教育を受けるのにより有利な白人の家庭で育てられる黒人の子供は,他の黒人の子供たちよりも高い知能指数を得るのが普通です。

      養子にできる子供の出所

      1960年代の後半から1970年代の前半にかけて,黒人の子供を養子にする白人の親は少なくありませんでした。実際のところ,一時は,黒人の養子全体の三分の一が白人の親の養子にされたこともありました。しかしその後,黒人の指導者たちが激しく抗議し始めました。結局,そうした子供たちは成長して実社会に出るときにもっと大きな問題を抱え込むことになる,と彼らは言いました。皮膚の色が違うために白人から退けられ,価値基準や行動が大きく異なるために黒人からも退けられることになる,と批判者たちは主張しました。

      それにしても,黒人や混血の赤ちゃんを養子にしたがる白人が少なくないのはなぜなのか首をかしげる向きもあるでしょう。それは,養子になる白人の赤ちゃんがたいへん少なくなっているからです。周旋機関では何年も順番を待たねばならず,新規申し込みを受け付けない機関もあります。しかし,どうして養子にできる子がそのように少ないのでしょうか。養子にできる子供はこれまで主に私生児でしたが,私生児の出生が急増しているのに養子にできる子が少なくなっているのはどうしてでしょうか。

      それは特に,急激に変化する今日の社会が,未婚の母親にもはやまゆをひそめなくなったからです。有名なロック音楽のスターや映画スターたちが自分の産んだ私生児を育てており,その上,「わたしの赤ちゃん」などというヒットソングはそうした傾向を美化しました。それで,幾年か前までは米国の未婚の母親の八割は自分の子供を養子に出していたのが,最近になって,子供を手放す未婚の母はわずか二割ほどになっています。このようなわけで,養子にできる子は減少しているのです。

      自分の子供を手放した母親たちはその子のことを考えることがあるのでしょうか。養子に出された子供たちは,どうして生みの親を捜したがるのでしょうか。

      知りたいという願い

      養父母との間に良い関係があったにもかかわらず,私は幼いころから,本当のお父さんとお母さんはどんな人なんだろう,とよく考えました。その後私は,養子にされた他の人々も大方,同様に感じ,あたかも「自分の一部分が欠けている」かのように思っているのを知りました。この問題を広く研究した,アーサー・D・ソロスキー博士が次のように述べるとおりです。

      「養子の好奇心は,養父母と良い関係にあるかどうかによるものではないことを我々は発見した。それは自分のルーツを知ろうとする,単純で一般的な欲求である。家系についての情報を得たい,自分の実の父母に会いたいという願いは,養子でない人には理解できない欲求である。これはまた,情緒障害のある人にだけ見られる現象として退けることのできないものでもある」。

      また,その後私は,生みの親も大抵の場合に自分の手放した子供のことを知りたがっているということを知りました。私は,とても敏感で分別のある養母が,私の誕生日に,『あなたのお母さんはどこにいるか分からないけど,今日はきっとあなたのことを考えておられるわ』と言っていたのを思い出します。養父母がいずれも理解のある人であったことに私は感謝しています。私がついに実の親を捜すことに心を決めると,養父母は私を助けてくれました。

      ある調査によると,養子で生みの親を捜しだした人の大半は,自分がそれをしたことに満足を覚えています。たとえ自分の見いだした事柄が愉快なものではなくでも,知らないということはもっと不快な事柄に思えるのです。それは私が請け合います。

      しかし,自分の肉親のルーツを見いだすことが,真の幸福を見いだすうえで最重要なものでないことは私は認めていました。結局のところ,全人類のルーツをずっとたどってゆけば,世界的な大洪水を生き延びた族長ノアに行き着くからです。ですから,本当に肝要なのは,自分の肉身のルーツではなく,私たちの霊的な父親である神との良い関係を見いだすことです。エホバ神とのこの関係を最も大切なものとして高く評価しながらも,私は自分の実の父母を見いだしたいと思いました。それでは,ルーツを尋ねる私の捜索の結果をお話しすることにしましょう。

  • 粘り強い捜索は報われる
    目ざめよ! 1979 | 2月22日
    • 粘り強い捜索は報われる

      私自身と私の家族に関する私が知る限りの情報はすべて,一組の法律書類に収められていました。養父母は,私が七歳か八歳のころそれを初めて見せてくれました。養父母は,幼児であった私を法的に養子にした際にそれを受け取ったのです。後日,私が成人してから,養父母は私にその書類をくれました。私の家族の名残と言えば,一枚の紙に記された二つの名前,つまり私の母と私の名前でした。

      幼いころから,自分の出生についてもっと知りたいと思いながらも,30代になるまではそのことで何かをする気持ちになりませんでした。その間に,聖書を研究した結果,私の人生行路は全く新たな方向へむかいました。

      そして1967年までには,仕事を調整し,自分の学んだ事柄を他の人々により十分に伝えることができるようになりました。結局,私はトラック,コスラエ,ポナペなどの太平洋諸島で,ほぼ四年間宣教者として奉仕しました。そして,1973年,ニューヨーク市ブルックリンにあるエホバの証人の本部職員として奉仕するよう招かれました。

      これは私にとって過去を振り返る時期となり,自分の背景に関する疑問が私を悩ますようになりました。私の父や母は一体どんな人なのだろう。私には兄弟や姉妹がいるのだろうか。私はスペイン系なのか,フランス系なのか,あるいはそのほかの血を受け継いでいるのだろうか。私にはまた,自分の血縁を捜すもっと重要な理由がありました。それは,『王国の良いたより』を彼らに伝えることでした。―マタイ 24:14。

      しかし,一体どこから始めたらよいのでしょうか。

      捜索を始める

      与えられていた書類から,私の母の姓名,誕生時に私に付けられた名前,養子縁組周旋機関の名称,私の誕生日,私が生まれた病院の名などはわかっていました。それでまず,自分の出生地であるカリフォルニア州の養子縁組周旋機関に手紙を書くことから始めました。

      それは,秘密厳守の壁との,がっかりするような最初の出会いでした。法の規制があるので,同機関は,私の母親がだれか名前を挙げて確認することも,否定することもできませんでした。しかし,私が尋ねていた女性の出身地は教えてくれました。それはオレゴン州でした。このほかにも,その女性に関する事実をわずかですが教えてくれました。それによると,彼女はドイツ系フランス人の血を受け継ぎ,学校での成績は普通程度で,高校の管弦楽団で楽器を演奏していた,ということでした。

      次に私は,オレゴン州ポートランド市にある人口動態統計局に手紙を書きました。その中に,幾らかの手数料と母親について自分の知っている限りのわずかの情報を同封しました。数日後,返事がありました。それと同じ名前の人物が,私の誕生の24年前に,確かに同州で生まれていました。しかし,私がその出産証明書の写しを入手することは不可能だと告げられました。それを与えることは違法になるというのです。

      数日間頭をひねり,調べた末,私はもう一度手紙を書いて,彼女の出産証明書の入手を禁ずる法律の写しを送ってもらうことにしました。やがてその写しが送られてきました。その法律によると,出産証明書は,当人の血族,本人,あるいは弁護士にのみ与えられます。幸いに,送られてきた写しは,その法律の載せられているページ全体の写しでした。それでそのページを見渡して別の法律を発見しました。それは,交付を拒否されたどんな人口動態記録でも郡裁判所に対しては,請願できる,というものでした。

      この条項をとらえ,私は自分の養子縁組証書の写しを作成し,公証人の証明を得,出産証明書の申請書を添えて郡裁判所へ送りました。その結果はどうだったでしょうか。数週間後,私は希望通り出産証明書を受け取りました。これに名前を記載されている人,グレース・ファウルマンは,私の養子縁組証書に私の実母として挙げられている人と同一人物だったのです。その出産証明書には,母の両親の名前も記載されていました。

      私には,グレース・ファウルマンを自分の母親と信じる十分の理由がありました。というのは,同姓同名の別の人物が,私と同じ名の子供を,1939年5月23日という同じ日に出産することはまずあり得ないからです。でも,どうしたらそれを確証できるでしょうか。そして,まだ生きているものと仮定して,どうしたらブルース・ファウルマンかその両親の居所を突き止めることができるでしょうか。その出産証明書が出されてからもう60年になろうとしています。でもとにかく,私はその捜索を続けることにしました。

      私はグレースの出生地であるオレゴン州アストリアの学校の校長に手紙を書きました。また,同地の郵便局長に,ファウルマン一家に関する情報を求めました。しかし,こうした仕方で母の跡をたどる努力はいずれも実を結びませんでした。どうやら,その家族はグレースの誕生後間もなくその地を去ったようです。それで,母の跡をたどるために別の方法が必要になりました。

      突破口が開ける

      アメリカの開拓が,西部への進出で成ったのは意味深い点です。第一回の国勢調査が実施された1790年以降,数多くの家族が,単独で,あるいはグループで,西へ向かって移住して行きました。ですから,グレース・ファウルマンは西の果てのオレゴン州で生まれたものの,その出産証明書によれば,彼女の父親と母親はミシガン州の生まれでした。

      私はグレース・ファウルマンの父親の出産証明書を入手しようとしましたが,成功しませんでした。どうやらそれはないもののようでした。しかし,その母親の出産証明書を手に入れることには成功しました。その結果,グレースの祖父母の名前が分かりました。娘の出産証明書には当然両親の名前が記載されているからです。

      次に,私はもう一度手数料を送り,グレースの祖父母の結婚証明書を請求しました。私は,グレースの母親の出産証明書からその二人の名を取って,それを送ったのです。やがて,1894年2月3日付の結婚証明書が送られてきました。こうして,1880年の国勢調査の特色を活用できるようになりました。その1880年の国勢調査には索引が付されており,1880年当時,10歳以下の子供のいた家長すべての名前が,彼らに関する他の情報と一緒に索引付きで載せられていました。

      私は,そのような国勢調査の写しが保管されている,ワシントンD.C.の国立記録保管所に申請書を提出しました。グレースの祖父ヘンリー・モンロー(この人は1871年生まれだったので,1880年には10歳になっていなかった)の名を示し,索引で捜してくれるよう求めました。ほどなくして,その人とその人の家族の列挙された,国勢調査のページの写しが手に入り私は報われました。重要な点は,そのページに,当時ヘンリーの住んでいた町,ミシガン州イースト・ジョーダンの名も挙げられていたことでした。

      後日,この一枚の文書と一つの親切な行為が私の過去を明らかにする鍵となりました。しかし,当時,私はこの情報が自分にとってどのように役立つか理解していませんでした。それで,私は自分の家族と信じていたものの他の流れの跡をたどり始め,そのために数十通の手紙を書きました。

      ロングアイランド歴史協会に程近い,ブルックリンに住んでいたので,私は毎週土曜日の午後の幾らかの時間を費やして,古い国勢調査の記録や他の歴史文書を調べました。やがて,ヘンリー・モンローの親族の跡をたどってゆくうちに,私は自分の曾祖母の一人と思われる女性に関する記録を見いだしました。彼女は,ニューヨーク州北部地方の小さな町,コーブルスキルに住んでいました。彼女の家族のうちのだれかがまだその地に住んでいるかどうか知りたかったので,私は小さな週刊新聞に手紙を書いてみました。驚いたことに,私は一週間後に一通の手紙を受け取りました。その差出人は,私の曾祖母と思われるその人のめいだったのです。

      この婦人は,私がコーブルスキルに行くことを喜んでくれました。その町で私は,その家族とその付近での彼らの過去200年にわたる歴史を教えられながら,とても楽しい週末を過ごしました。私が正しく跡をたどっていることを示す別の証拠もありました。その家族の婦人たちは,異口同音に,私が同家独特の鼻を受け継いでいるというのです。もう一つの心温まる事実は,その婦人の孫三人が私と信仰を同じくしていたことでした。

      残念なことに,ニューヨーク州北部のその家族は,グレース・ファウルマンの側の家族とは50年来音信不通になっており,彼らが今どこにいるのか全く分かりませんでした。それで,幾らか前進はしたものの,自分の母親を捜し当てる見込みは依然として余り明るくありませんでした。しかし,その時,私に一つの考えが浮かびました。

      私の過去を明らかにする手がかり

      私は,引き出しの中にファイルしてしまっておいた,1880年の国勢調査に基づく情報のことを思い出しました。それは,グレース・ファウルマンの祖父,ヘンリー・モンローに関するものです。それで私は,『ニューヨーク州のコーブルスキルの家族のことで新聞に手紙を書いてある程度の結果を得られたのだから,ヘンリーとその家族が住んでいたミシガン州の小さな町イースト・ジョーダンの郵便局長にも手紙を書いてみたらどうだろう』と考えました。

      私はそれを実行しました。遠い親せきを捜していることを郵便局長に告げ,その町にモンローという名字の人がいるのをもし知っているなら,その人に私の手紙を手渡してもらえないかと頼みました。その手紙を出してから,私はすぐにそのことを全く忘れてしまいました。

      二週間ほど後のある日の正午,郵便物を調べていたとき,私は自分が宛て名を書いた封筒がその中にあるのを見いだしました。(私は問い合わせの手紙を出すときには,自分の宛て名を書いて返信用の切手をはった封筒を必ず同封するようにしていました。)開封してみると,驚いたことに,手紙の主はなんとグレースの母親のいとこではありませんか。その郵便局長は,親切にも私の手紙を彼女のところへ転送してくれたのです。その日はなかなか仕事に気持ちを集中することができませんでした。気分がとても浮き浮きしていたのです。

      ほぼ間違いなく自分の親族であると思えたこの女性と手紙で親交を深めながら,私は注意深く徐々にグレースの母親のことを尋ねてみました。すると,彼女はまだ生きていて,しかもアラスカに住む孫がいるとのことでした。それはまさにニュースと言えました。私には兄弟がいたのです。しかし,この文通を通して,私はグレースが死去したことを知りました。では,どうしたらよいのでしょうか。

      私は思慮深く振る舞う必要を感じました。私は自分の出生にまつわる状況を知らなかったからです。そして遂に,私の祖母のいとこにすべてを打ち合けることに意を決しました。私は自分の養子縁組証書の写しを同封し,彼女に仲介の労を取ってくれるよう願いました。『彼女は私の素性を祖母に明かすだろうか』と私は考えました。

      再結合

      私は一日千秋の思いでした。そして,ようやく祖母からの手紙が届きました。祖母は大喜びでした。確かに,彼女には“ゆくえの知れぬ孫”が一人いました。しかし,その子は死んだと思っていました。幼い時に死んだと娘から聞かされていたからです。そうです,彼女の娘こそ,あの法廷文書に載せられていた人でした。すぐにアラスカの弟に電話をしなさい,と祖母は勧めていました。電話番号も書いてくれていました。『ではいつ,一体いつ私に会いにカリフォルニアに来てくれるの』と祖母は書いていました。

      弟に電話を掛けました。私の第一声は,「弟だね!」弟の第一声は,「信じられない!」でした。

      弟も私は幼いころに死んだと母から聞かされていました。しかし,15年ほど前,父親から私が養子に出されたことを教えられていました。弟は私を捜しましたが,その努力はいずれも秘密厳守の法の壁に阻まれました。

      カリフォルニアへの旅と家族との出会いは,私の人生の中で最も心の満ち足りた出来事の一つでした。確かに,父(ジョン・ラポザービエラという名だと教えられた)と母がすでに数年前に亡くなったということを知ってがっかりしました。しかし,祖母と弟と私は,私の努力を初めから支えてくれた養父母と一緒に,共に長い時を過ごしました。実際,養父母は,自分たちにできる限りのことを調べるために長い時間を費やしてくれたのです。興味深いことに,私は実父の家族に会うこともでき,アゾレス諸島からハワイへ,そしてカリフォルニアへと移ってきたことも知りました。父はポルトガル人だったのです。

      遂にやりました。粘り強い捜索は報われました。『そして,その努力にはどれほどの費用がかかったか』尋ねる方があるかもしれません。私の送った手紙だけに対する400通を越える返事と郵送料や各種の料金,それに図書館で費やした土曜日の午後の時間です。

      将来の希望

      私は,この家族の成員に,将来に対して聖書の提供する慰めとなる希望を伝えることができて,特にうれしく思いました。私は彼らに,グレースとジョンがエホバの好意で復活して地上での命を受けると信じる十分な理由のあることを話しました。(ヨハネ 5:28,29。使徒 24:15)その時に,二人を知るのはどんなにすばらしいことでしょう。二人はひどい過ちを犯し,不道徳な生活をさえ送っていたことは分かります。しかし,復活する人々には,神のご要求を学び,その時に支配権を執る義の王国の管理に従う機会が与えられます。

      私にとって,自分の肉親の先祖<ルーツ>を知ることには,それだけの努力を払う価値がありました。興味深いことに,聖書の中には,様々な人の家系に関する,広範にわたる情報が載せられています。人間が自分の血統に関心を抱くのは自然なことのようです。しかし,それが最重要なことではなく,そのような物事に重きを置きすぎるのは危険であることは分かっています。―テモテ第一 1:3,4。テトス 3:9。

      イエス・キリストは,肉親よりも大切な関係を力強い仕方で示されました。ご自分の親族のことを言われたとき,イエスはこうおっしゃったことがありました。「『わたしの母とはだれですか。またわたしの兄弟たちとはだれのことですか』。それから,自分の弟子たちのほうに手を差し伸べてこう言われた。『ご覧なさい,わたしの母とわたしの兄弟たちです! 天におられるわたしの父のご意志を行なう者がだれでも,その人がわたしの兄弟,また姉妹,また母なのです』」― マタイ 12:48-50。

      私はこの言葉が本当に真実であることを見いだしました。神に対する同じ信仰を持ち,神の約束に同じ希望を抱くことにより,人は血のつながりよりも強い愛の絆で結ばれます。私と妻は,ものみの塔ギレアデ聖書学校の第65回のクラスを修了したところです。私たちの前途には今,別の国へ行って,その地の人々にクリスチャンの信仰を分かつ壮大な特権があります。そのクリスチャンの信仰は,彼らが仲間の人間と極めて優れた関係を享受できるようにし,そして特にエホバ神との良い関係を享受できるようにするのです。―寄稿。

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