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アラスカにおける最も望ましい宝の探査ものみの塔 1982 | 9月1日
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の町々村々を幾度か回って伝道を行ないました。彼は眼鏡の行商によって旅費を賄いました。片足が義足であったにもかかわらずデーは事実上アラスカ全土を回り,聖書の真理の種をまき,聖書文書を配布しました。ケチカンからノームまでの2,044㌔の地域にある町々村々を訪問したのです。
1930年代の後半には,カール・リボーがアラスカ最大の都市アンカレッジと海港都市シューワードの間の地域に住んでいた人々に王国の音信をもたらしました。アンカレッジは,1915年に,アラスカ湾の沿岸にあるシューワードから785㌔北の内陸の都市フェアバンクスに至るアラスカ鉄道を敷設するための基地として建設されました。リボーは線路に沿って42㌔ごとにある“保線区の家”に住む人々に神の言葉を語りながら,アンカレッジからシューワードまでの290㌔を歩いて往復しました。
そうした兄弟たちの精力的な働きによって,後ほどやって来たギレアデ宣教者学校の卒業生たちのために良い基礎が置かれたのです。1944年に,独身の兄弟6人と一組の夫婦からなる合計8人の宣教者がアラスカに到着し,アンカレッジ,ジューノーそしてケチカンで奉仕を始めました。
時がたつにつれて彼らは人の住む奥地,海岸沿いの地域,そして海岸に近い多くの島々にまで足を伸ばしました。彼らは非常に不自由な生活に耐えました。汽車で旅行することも時にはありましたが,多くの場合,船荷を積み降ろす人足として働いて旅費をかせぎながら,沿岸を航行する船を利用しました。また借りた小舟や買った小舟で海を旅し,しばしば危険に遭いました。
雨露をしのぐ場所が見付かればどこにでも寝袋を置いて寝ました。町や村が広範囲に散在するこの地域を回るのに必要な旅費を賄うために,あらゆる種類のパートタイムの仕事をしました。彼らは人々から本当に尊敬されていました。人々は骨の折れる肉体労働をする牧師たちを見たことがなかったからです。これらの全時間伝道者たちは,アラスカ全体に「良いたより」の伝道を拡大するために多くのことを行ない,同州に多くの会衆が設立されるのを助けました。
厳しい天候にもめげずに宣べ伝える
アラスカでの奉仕の業に困難が伴うのはその地勢のためばかりではありません。気象条件も非常に厳しくなることがあります。1948年からアラスカ南東部に住んでいるある主婦は,ジューノーで最初の冬を迎えた時のことを次のように話してくれました。「その冬は雪が多くてとても寒いと思いました。“タク”と言われる風がほとんどいつも吹いているのです。この風は一時にあらゆる方向から吹いて来るような感じです。窓が吹き破られたり,道を歩いていた年配の婦人が吹き倒されたりするのを見たことがあります。ある時など,かん詰め工場の建物が基礎だけ残してガスティヌ運河に吹き飛ばされてしまいました。小型の飛行機まで風に捕らえられて,わたしたちの家の前の運河にたたき込まれました」。
内陸の都市フェアバンクスでは,気温の開きが非常に大きくて,夏は摂氏38度まで上がり,氷に閉ざされる冬には零下57度まで下がります。こうした環境の中に,アメリカの南部から5組の夫婦が,宣べ伝える業を助けるために移って来ました。当時,すなわち1959年には,アラスカには王国会館が二つしかありませんでした。一つはアンカレッジに,もう一つは,軍の使われていない小さな建物で,フェアバンクスにありました。新しく来た証人たちの一人で当時主宰監督をしていた人はたまたま家を建てるのが上手な人でした。その証人は,200人を収容できる新しい王国会館をフェアバンクスに建てるために,率先してその組織に当たりました。その建物の献堂式は,建築が始まってからわずか9週間後の,1961年9月に行なわれました。この会館は今日まで二つの会衆の必要にこたえています。
この監督は,アラスカの至る所で少なくとも11の王国会館の建築または改装および他の神権的な建築計画に携わりました。今日では,アラスカ地方には14の近代的な王国会館があります。また,一部の全時間奉仕者のための宿舎が一つと,アラスカにおける会衆と伝道活動を監督するための支部事務所があります。
孤立の問題を克服する
エホバの民の会衆から14年間孤立していたとしたら,あなたはどうしますか。妻であり母親であったあるクリスチャンの場合がそうでした。その人は1954年に,ご主人と一緒に,周囲から孤立している,水上の木材伐採搬出場に行きました。それはアドミラルティー島の南端の内海航路にありました。この忠実な証人とその人の3人の若い娘は,その間ずっと,会衆で普通に行なわれるクリスチャンのすべての集会を行なってきたのです。その人たちは,手紙を出したり,時折自分たちの“水に浮かぶ”家を訪ねて来る人々に証言を行なったりして,“探査”を続けました。アラスカ全土の辺ぴな町々に住む大勢の人々が,これらの献身した神の僕たちから手紙を受け取りました。そして幾人かが,神の言葉の宝を自分のものにするためにそれらの手紙に反応を示しました。
現在母親はアラスカ最南端の町ケチカンに住んでおり,過去12年間,全時間の伝道奉仕を楽しんできました。3人の娘は,母親に倣って忠実の道を歩んでいます。一人はアンカレッジに住む長老と結婚していますし,末娘はドイツのベテル家族の一員として奉仕しています。
人里離れた北部での伝道
区域内の辺ぴな所にあるすべての村で宣べ伝える業を行なうことを決意した,フェアバンクスと北極地域の三つの会衆は,エホバの証人が所有する飛行機4機を利用することにしました。それらの会衆は2年間に,それらの飛行機がアラスカ山脈の北側の広大な地域を飛び回るのに必要な費用を賄うため,1万4,000㌦(約322万円)を超える寄付を行ないました。区域内の各村に行くのにその都度14人もの人が参加し,伝道した地域はおよそ84万4,340平方㌔に及びました。短い夏ですが,二夏の間に200以上の村と町が伝道されました。
西海岸では,ほとんどのエスキモーがエホバの証人を歓迎し,王国の音信を熱心に聞きました。シャクトゥーリックという村では,エスキモーの老夫婦が,「新しい体制」についての聖書の約束を聞いて,目に涙をためながら,「その新しい体制に私たちも入れてくださるよう,どうぞエホバにお祈りしてください」と懇願するように言いました。
探査の結果
アラスカの広大な地域をしらみつぶしに踏査した金探鉱者の数,あるいはシャベルで掘り返された土の量,砂金を採るために使われた水の量などが分かるでしょうか。それは分かりません。物質の富を得るために注ぎ込まれた努力は想像するほかはありません。しかもそれを発見した人は驚くほどわずかなのです。同様に,「良いたより」の
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70年にわたる忠実な奉仕ものみの塔 1982 | 9月1日
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70年にわたる忠実な奉仕
特にアフリカで,何千人ものエホバの証人に知られていたジョージ・R・フィリップスは,最近,地上におけるクリスチャンの奉仕を終えました。フィリップスは1898年にスコットランドで生まれ,1912年にバプテスマを受け,それから2年後に全時間奉仕を始めました。第一次世界大戦の時には,クリスチャンとして中立の立場を保ったために投獄されました。フィリップス兄弟がアフリカに派遣されたのは1924年のことで,喜望峰からケニアまでが同地におけるフィリップス兄弟の奉仕地域となりました。同兄弟は長年にわたり,ものみの塔協会南アフリカ支部の監督を勤めました。70年余にわたって神への奉仕を行なったフィリップス兄弟は,1982年3月24日に84歳で亡くなりました。
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