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アルコール中毒 ― それに関する事実とゆがんだ社会通念目ざめよ! 1982 | 10月8日
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いつもいつも,自分が意図した以上飲んでしまいます。
ほかの人があなたの飲酒について心配することが多くなっていますか。自分に対して正直になりましょう。『いつでも好きな時にやめられる』と言われるかもしれません。そして,その通りかもしれません。しかし,“禁酒すること”は試金石にはなりません。最も症状の進んだアルコール中毒患者さえ,ある期間禁酒することが時にはできるからです。それに,禁酒期間中どんな気持ちがしますか。平静にして,くつろいでいられますか。それとも,神経質になって,緊張しているでしょうか。抑えることができるかどうかがかぎになっていることを忘れてはなりません。ですから,「アルコール中毒者自主治療協会」という本は,「飲んでいる時に,飲む量をほとんど制御できないようなら,あなたはきっとアルコール中毒患者であろう」と述べています。
● アルコール中毒患者はどうして自分の身に起きている事柄を認められないのか。
自分の状態が悪化するにつれて,アルコール中毒患者の自分に対する価値感は低下し,その代わりに不安や罪悪感,恥ずかしさ,自責の念などが頭をもたげます。自分の状況に耐えて生きてゆくために,その人は無意識のうちに幾つかの防衛機構を用いています。
正当化: 飲酒とその影響について様々な言い訳をするようになります。「気が立っているんだ」,「気がふさいでいる」,「すき腹に飲んだものだから」といった言い訳です。
投射: 自分のつらい感情を他の人に帰します。そうなると,他の人々を「憎しみに満ちている」,「悪意に満ちている」,「意地が悪い」,「自分に敵対している」などと見ます。
抑圧: 飲酒による不快な出来事について知らぬ顔をし,そうしたことは決して起こらなかったと自分に実際に言い聞かせてしまいます。ですから,妻が前の晩のどんちゃん騒ぎのことで心を乱していても,当人は寄り添ってきて,『今朝は何か心配事でもあるのかい』と尋ねます。そして,奥さんの方は自分の耳を疑うのです。
多幸症的回想: 飲酒による出来事の記憶が多幸症的な場合,つまり幸福感にあふれる場合もあります。ですからその人はこう言うかもしれません。『ええ,昨晩一杯やりましたよ。でも,実にいい酒でした』。ところが実際には,『いい酒』などではなかったのです。アルコールがその人の知覚力をゆがめてしまったのです。
こうした防衛機構は,アルコール中毒患者が自分の身に起きている事柄を認めるのを妨げる否認の壁を築き上げます。この人は助けを必要としています。b
● どんな種類の助けが必要とされているか。
『酒をやめるための助けを必要としているだけだ』とお考えになるかもしれません。ところが,アルコール中毒患者にはさらに多くの事柄が必要とされているのです。
身体面: その人が無事アルコールをやめられるようにしなければなりません(“解毒”)。これには入院が必要とされることがあります。そうすれば,アルコールに関連した健康問題に対処することもできるでしょう。しかし,身体的に回復するだけでは十分ではありません。さもなければ,一度気分がよくなってしまうと,『もう飲んでも大丈夫』と考えるようになるでしょう。
精神面: 中毒患者はアルコール中毒に関する諸事実を学び,自分が禁酒をする筋の通った理由を知り,それを受け入れなければなりません。この知識は,いつもしらふでいるための一生涯にわたる闘いにおいて当人の助けになるでしょう。
社会面: 自分自身および他の人と気持ちよく付き合ってゆく仕方を学ばなければなりません。
感情面: 自分の内にある不安やその他の消極的な感情に対処する方法を学ばなければなりません。アルコールがなくても幸福でいられる方法を学ばなければならないのです。
霊的な面: 絶望感と恐れに打ちひしがれやすいので,希望と確信と信頼を与えるような助けを必要としています。
● どこからそのような助けを得られるか。
様々な形の治療法がありますが,どうしても必要なものとして際立った事柄が一つあります。それは,偏見のない,同情心に富む人,それも同じような状態に陥って立ち直った人を相談相手に持つことです。これは希望を与えるものとなり得ます。アルコール中毒患者が自分も立ち直れることを悟れるからです。
アルコール中毒社会復帰センターに助けられたアルコール中毒患者も少なくありません。そのようなセンターには,内科医・精神科医・心理学者・訓練を受けた社会事業家など様々な分野出身の職員がいます。ここで患者は,十分に行き届いた教育課程を経て,自分の受け入れられるような仕方でアルコール中毒について学ぶのが普通です。
さらにまた,訓練を受けたカウンセラーの指導による集団治療の時間も,問題を抱えた患者に実際的な支援を差し伸べるものとなることがあります。当人が心を開いて,自分が無意識のうちに使っている防衛機構に気付くよう助けられるからです。自分が実態をつかんでいないものを変えることはできないので,そのような洞察は本人が立ち直る一助となります。しかし,どんな治療法を使うにしても,根本的な目標は患者がアルコールに頼らずに感情面で問題に取り組んでゆくことを学ぶよう助けることです。
ところが,そのような治療から一度離れてしまうと,立ち直りつつあるアルコール中毒患者は,かつて自分を飲酒へと向かわせた現実に取り囲まれているのに気付くでしょう。自分に関する消極的な感情や家庭問題,不安定な雇用状況などが依然として尾を引いているかもしれません。そうした人が問題と取り組んでゆくために引き続き助けを必要としているのは明らかです。中には,立ち直りつつあるアルコール中毒患者で,献身的に助け合っている人々から成る地元の有志のグループにそのような助けを求める人もいます。c
さて,もう一つ別の源から得られる助けもあります。それは,人生に取り組み,いつもしらふでいるための日ごとの闘いにおいて,立ち直りつつあるアルコール中毒患者に「普通を超えた」力を与えることができます。それは何でしょうか。―コリント第二 4:7,8。
立ち直りつつある一人のアルコール中毒患者はこう述べています。「私が首尾よく抜け出せたのは,エホバに対する自分の信仰と祈りの力,クリスチャンの兄弟たちから与えられた助けなどのおかげです。それがなかったら,今ごろはアルコールのためにどん底の生活に陥っているか,死んでいたでしょう」。エホバの証人と聖書を研究し,クリスチャンの集会に出席して,この男の人は神への真の信仰を見付け,愛あるクリスチャンの仲間を得たのです。では,こうしたものはどのような仕方で助けになるのでしょうか。
神の言葉を研究することにより,立ち直りつつあるアルコール中毒患者は自分の考え方を変えるよう助けられます。(ローマ 12:1,2)エホバがあわれみ深く,許しを与えられる神であることを知るようになるにつれて,罪悪感や自責の念は和らぎます。(出エジプト記 34:6,7)また,聖書の原則は,家族生活を向上させる方法,どんな雇用者でも喜ぶような働き人になる方法,不必要な思い煩いや心配を生み出す考えや行動を避ける方法などを教えてくれます。―エフェソス 5:22-33。箴言 10:4; 13:4。マタイ 6:25-34。
エホバ神との間に信頼関係を築くにつれ,その人は自分の心配事や重荷を祈りによって確信をもってエホバにゆだねることを学びます。愛あるクリスチャンの友人たちの助けにより,その人は自分の感情や必要をはっきりと伝える方法を学び,恐れることなく他の人に近付けることを悟ります。このような関係は,立ち直りつつあるアルコール中毒患者が大いに必要としている安心感や自分に価値があるという意識を吹き込むことになります。―詩編 55:22; 65:2。箴言 17:17; 18:24。
さて,ご自分で自分の飲酒のことが心配になってきましたか。あるいはほかの人が心配するようになりましたか。飲酒はあなたの生活の一つかそれ以上の分野で問題を引き起こしていますか。それでは,何らかの対策を講じるようにするのです。それほど多くの不快な事柄や問題を引き起こしかねないものにどうしてしがみ付いているのですか。(ゆがんだ社会通念ではなく)事実を学び,それと調和した行動を取ることにより,アルコール中毒から立ち直り,幸福で産出的な生活を送ることは確かに可能なのです。
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アルコール中毒から立ち直って目ざめよ! 1982 | 10月8日
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アルコール中毒から立ち直って
一男性の体験談
必死になって自宅の電話番号を回そうとする私の目に,ダイヤルの番号が溶けて一緒になっているように見えました。少し前に飲んだ5錠の鎮静剤の効き目がその時頂点に達していました。倒れないよう公衆電話につかまる私の耳に,「もしもし,どなたですか」という母の声が聞こえてきました。
ありったけの集中力を振り絞り,私は不鮮明な言葉でこう言いました。「僕です。今晩は帰りません。友達の所に泊ります」。一言一言が思うように言えませんでした。自分の舌が20㌔もあると思えたほどです。
「だめじゃないの! また鎮静剤を飲んだんでしょう! 体がしびれているのね!」と,母は息を切らせて言いました。
私は受話器を置き,千鳥足で自分の車に向かいました。友人の所に泊るつもりはありませんでした。そうではなくて,車で浜辺へ行こうとしていたのです。運転しながら,自分が反対車線を走っているのに気が付きました。それも幹線道路上でです。私は分離帯を越えて浜辺へ行く道に入り,対向車には辛うじてぶつからずに済みました。そして,車を止めて,翌日まで眠り込みました。
これは,アルコール中毒のために私が危うく命を失いかけたことを示す一つのエピソードに過ぎません。『でも,鎮静剤を飲むこととアルコール中毒とどういう関係があるのか』とお尋ねになるでしょう。当時,私もそのつながりを理解していませんでした。しかし,そのつながりを身をもって,それも痛い思いをして知ることになりました。
まず,少し背景を説明することにしましょう。私は十代の時に鎮静剤を飲むようになりました。最初は精神安定剤をくすねることから始めました。母はいつもそうした薬を沢山置いていました。2年ほど後に,職場の友人から,非常に強い鎮静剤であるセコバルビタールを初めて飲まされました。その結果,鎮静剤の量を減らして,同じ効果を得られるようになりました。確かに父と母はヘロインや大麻については警告していました。しかし,私の飲んでいた鎮静剤はそれほど危険ではありませんでした。というよりは,そう思い込んでいました。
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