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  • 動物は自然の環境にあってこそすばらしいもの
    目ざめよ! 1972 | 9月22日
    • 動物は自然の環境にあってこそすばらしいもの

      歴史を通じて人間は動物から益を受けてきました。酪産物や衣料のために毛を供給するほか,ラクダ,ロバ,馬,象,水牛といった動物たちは長年,輸送力や労働力となってきました。しかし,動物に対する人間の関心はその利用価値だけに限られたきたわけではありません。

      紀元前第2,000年期当時,族長ヤコブは,ライオンの子や骨格のがっちりしたロバから,まむしや姿の優美な雌じかに至るまで,いろいろな動物を使って,12人のむす子たちに見られる特徴を描写しました。(創世 49:9,14,17,21,27)また,ソロモン王は,その広範にわたる知恵をもって,香柏から苔に至る草木についてばかりか,「獣と鳥と匐行物と魚」のことをも論じました。(列王上 4:32,33)このように,人間は昔から,動物には物質的な益以上の益があることを知っていました。動物は興味をそそる研究の対象となり,楽しみの真の源となることを知っていたのです。

      確かに,動物のおかげで地球の生活はいっそう興味深いものとなっています。森の涼しい木陰を歩くことはそれ自体楽しいものです。しかし,リスとかシマリスを見かけたり,その声を聞いたり,ツグミのさえずりに耳を傾けたり,キツツキが木の幹に穴をあけて自分のエサを掘り出すのをながめたりすれば,森の散歩はひときは楽しいものになります。

      第1に,そうした生物から創造者に関する事柄を学べます。地球の陸地や海に生息する生物には想像を絶するほど多くの種類があります。そのさまざまな形や色また習性や能力を知れば,創造者の知恵,信じられないほどの芸術性や創意に驚嘆せざるをえません。

      動物は友だちにできる

      人はまた動物がある程度自分の友となりうることを知っています。特に農場などでは,少年と犬が互いに離れられない友のようにしていることがあります。夜になるとひとりぼっちの羊飼いは,羊の番犬がいてくれるので慰められます。同様の関係は,牛飼いとその馬や,アラブのベドウィン人とラクダの間にも見られます。しかし,これらの場合動物は,単なる友ということ以外に,もっと基本的な目的を果たしています。つまり動物との関係にはもう一つの面が考えられます。それはペットとしての関係です。

      世界には,犬やネコを飼っている家だけでなく,ワニの子どもとかボア,ヒョウ,カワウソ,サルなど,およそ動物園にいる動物ならなんでも飼っている家があります。弟子ヤコブの次のことばは,19世紀前と同様,今日でも真実です。「獣・鳥・匍ふもの・海にあるもの等,さまざまの種類みな制せらる,既に人に制せられたり」― ヤコブ 3:7。

      しかし,ライフ誌(1971年4月9日号)の一記事が指摘したとおり,「専門家たちの一致した意見は,野性の動物を家庭の良いペットにするのはむずかしく,しかも,家庭の大半は動物園としてはあまりにも不適当であるということです。「珍しい」動物を扱っている一業者は,「輸入した動物全体の75%は最初の1年以内に死ぬ」と語っています。臭いうえ,そうぞうしかったり,家の中のものをひんぱんにこわしたりするので,野性動物をペットに飼った人もしばしば幻滅を感じさせられるのです。結局「ペット」は裏庭の小屋とか近くの小動物園に入れられるか,殺されたりしてしまうことが少なくありません。大きな動物園はふつうそうした動物をほしがりません。それらの動物は,あまやかされていて,動物園の他の動物と仲良くやっていけないからです。

      大きな問題となるのは,いわゆる「珍しい」ペットを飼うと,飼い主の自由がしばしば非常に制限されることです。ヒョウとかライオンなどのような,いわば大きなネコを飼っている人は,上等の家具や敷物を持てないばかりか,留守中それら野性動物の世話をしてもらうのはたいへんです。そのために休暇で家をあけることをためらう人さえいます。ライフ誌は,南米のジャングル産のネコを飼っているある婦人のことばを載せています。「ペットのために飼い主は全く自由がきかず,また動物たちは飼われているために全く自由がきかないのですから,いっそのこと毛皮のコートにしてしまったほうがよいと思うほどです」。

      少なくとも,ある動物はペットとして家の中で飼うには全く「不自然」な場合が多いことは明らかでしょう。ある動物は,その大きさや性質を見れば,放大な野外を歩き回ったり,深い森林地帯をこそこそ歩いたりするようにできていることが明らかです。ワニとかカワウソのような動物は,水の豊富な場所にいるのが自然です。木に(居間のシャンデリアやカーテンではなく)よじ登る必要のある動物もいます。さらに,飼い主の住んでいる土地では全く得られない食物を必要とするものもいます。そうした動物が人間の家の中に連れてこられると,何かを犠牲にしなければなりません。動物を庭で飼う場合,その問題は比較的小さくてすみます。犠牲を払わなければならないのはおもに飼い主の側で,動物の世話をするために生活様式を変えなければならないかもしれません。

      飼い主はときとして,動物の世話をするために驚くほど極端に走ることがあります。カワウソをペットにしているある家族は,家に二つの寝室を持っていましたが,人間のほうはみんな一つの部屋を使って,もう一つの部屋をカワウソの個室に当てました。ライフ誌の記事が伝えているとおり,「ペットが主人になることを事前に察知できる飼い主は少ない」のです。

  • ペットについて平衡の取れた見方をする
    目ざめよ! 1972 | 9月22日
    • ペットについて平衡の取れた見方をする

      あなたは家の中や裏庭に,ヒョウとかカワウソとかボアを飼ってはいないにしても,もっとふつうの小さな飼いならされたタイプの動物,たとえば犬とかネコを飼っておられるかもしれません。そのような場合でも,動物が身体面やその他の面で「不自然」な存在となっていないかどうかという問題は依然存在します。ペットに対するあなたの態度や扱い方は,そうしたあやまった関係の原因ともなりかねません。あやまっているかどうかはどうして判断できるでしょうか。動物と人間の創造主が動物を作られた目的,および創造主が動物に定められた人間との関係を考慮することによってです。

      聖書の記録によれば,地上のあらゆる生物のうち,人間だけが神に象って神の像のように作られました。人間は地上の他の全生物に対する支配権を与えられました。(創世 1:26-28)アダムは動物に興味を持ち,その多くに名前をつけましたが,動物の中に,「適ふ助者(が)見え」ませんでした。(創世 2:19,20)それらは,イエスの弟子のペテロとユダがいみじくも「弁別なき生物」と述べたとおり,すべてが人間よりも下等でした。―ペテロ後 2:12。ユダ 10。確かに,動物はじゃれますし,喜び,悲しみ,愛情,恐れ,怒り,心配などの感情を表わします。個々の動物は互いに異なっており,種族間で,また同一種族内においても他と区別できる特徴を持っています。しかし,ハンス・バウアーが,多くの証拠と研究に基づき,自著「動物に見られる大きな多様性」(ジェームズ・クリューによるドイツ語からの英語訳)の中で次のように指摘したことは確かです。「[動物の]行動の多くが,その表われ方においてどれほど人間のそれに似ていても…動物の生涯,あるいは生涯の一部となるその個々の行動の基礎となっているのは,決して抽象的な考えではない。…動物がしたり,しなかったりする事柄で,一連の考えとか慎重な考慮,あるいは信念の結果によるものは一つもない」。むしろ,彼の結論によれば,「それは動物が対処しなければならない環境上の諸条件の結果で(す)」。―34ページ。詩篇 32篇9節を比較してください。

      ダム(ビーバー)や,はちの巣(ミツバチ)や,複雑なくもの巣(クモ)を作ったり,同様な事柄をするというような能力に見られる動物の「知恵」は,本能的であることが再三再四証明されています。生物は,仲間の他の者から離して飼育されても,そうした芸当をやってのけます。その知恵は,創造者によって遺伝的な構造の中に植え込まれているのです。

      むろん,遺伝的な能力以外の新しい事柄を行なえるよう訓練できる動物も少なくありません。しかし,そのことは常に,訓練される特定の動物の種族が本来持っている特質に制約されており,それに依存しています。たとえばサルは訓練して自転車に乗ったり,アイススケートをさせたりできますが,羊の群れの番をしたり,羊の群れをおりから出し入れする,番犬の仕事をするように訓練することは絶対にできません。また,訓練を受ければどんな品種の犬でも羊の番が同じようにできるとは限りません。

      それとは対照的に,人間は概念を作り出すことができます。演繹的また帰納的な推論を使って結論に達し,特珠な場合やでき事から一般的な法則を作り上げます。あるいは原因から結果へ,結果から原因へと推論することができます。ですから人間は,過去の経験から得た知識と理解を用いて,新しく生じた問題を解決することができます。こうして,意識的に,また自分の意志で知識と理解を深めていくことができます。さらに,正邪,善悪,正不正の規準をさとり,信じ,かつ守ることもできます。動物はこうした事柄のどれ一つとしてすることができません。

      警戒を要する事柄

      生活の中で神を喜ばせることを気にかけているなら,自分のペットについて警戒する必要があります。最初の女が神への反逆行為に陥ったとき,動物に対するあやまった態度が関係していたことに注目しましょう。彼女は,本能的に「狡猾し」く,それでもやはり「弁別なき生物」にすぎない蛇の口から出ているかに見えたことばに動かされてしまいました。―創世 3:1-6。

      以来幾世紀にもわたって,偽りの崇拝にはしばしば,動物に対するあやまった見方が関係してきました。ワニとかヒヒ,雄牛は神殿に住み,からだを洗って香水をつけてもらい,最も上等の食物を与えられました。一方,その土地の人々は,空腹をかかえて惨めな生活をしていました。強大な国家は,動物や鳥を自国の政府と人民の誇らしい象徴とし,それら動物による象徴を後生大事にたてまつりました。

      動物を神聖視しないまでも,ペットの動物を人間と全く同等であるかのように扱うのはどうでしょう。他の人間に対するよりも動物に深い関心を示し,動物のために人間の益を転視するとしたらどうでしょう。動物に少しでも快適な思いをさせるためにはどんな労も出費も惜しまないのに,『自分たちの如く,隣を愛』さず,神のみ子が地上におられたときに行なわれたような同情のこもった仕方で他の人々を援助しないならどうですか。(マルコ 6:34)それはいずれも,動物をその身分に不相応な立ち場に置いているのではないでしょうか。

      まれな例でしょうが,ペットをいっしょに食卓にすわらせ,家族と同じ皿から食べさせる人のことが伝えられています。中には,何千ドルにも及ぶ遺産をペットの世話に当てると遺言に書く人もいます。また,家に置いておけば家人の健康をそこなうという危険を犯してまで,年を取った病気の動物を生かしておくという極端な人もいます。

      霊感を受けた記者ユダによれば,「おのが位を保たずして己が居所を離れ」,その霊者としての本性と,神により与えられた立ち場に「不自然な」行為をした天使たちを神が非とされ裁かれているということを思い出しましょう。(ユダ 6,7,新)人間が動物を人間の立ち場に高めようとするなら,実際には,人間は自らを卑しめているのであり,神がもともと人間に与えられた威厳のある,よりまさった立ち場を保たないことになります。同時に,神の目的からはずれた動物を,人間との関係において「不自然」な立ち場に置いているのです。

      ところで,サムエル後書 12章1-6節の記録からすれば,ペットの扱い方に関して先にあげた行為のいくつかは正しいといえるのではありませんか。その記録によると,ナタンはダビデ王に,ひとりの貧しい男が小さな雌の子羊を買い,それを自分とむす子のもとにおいて育てたという話をしました。そして,「牝羔…かれの食物を食ひかれの椀に飲みまた彼の懐に寝て彼には女子のごとくなりき」と記録されています。その後,多くの羊を持つある金持ちが男からその子羊を取り上げて客の食物に使いました。ダビデはその話をこじつけではなく,ありうることだと思いました。なぜなら,話の結末のところでダビデは激怒して,次のように言ったからです。「エホバは生く誠に此をなしたる人は死ぬべきなりかつ彼此事をなしたるに因りまた憐憫まざりしによりてその牝羔を四倍になして償ふべし」。これについては何と言えますか。

      まず,「牝羔…かれの食物を食ひかれの椀に飲み」という表現は,子羊が家族といっしょに食卓にすわって,人間と同じ椀から物を食べたとは述べていません。男が子羊のために自分の食物と飲み物のいくらかをひかえたと述べているにすぎません。聖書の中で「椀」ということばは,しばしば,容器そのものではなく,容器にはいっている物,つまり『一人分』をさします。したがって,男が自分の飲み物の一部を注いで子羊になめさせたことは明らかです。(マタイ 26:39,42。ヨハネ 18:11。マルコ 10:38-40を比較してください。)男はまた,夜その羊を自分の横に寝かせてあたためました。なぜでしょうか。明らかにそれは。母親から離された子羊が死なないようにするためでした。

      怒ったダビデは金持ちは死ぬべきだと言いましたが,それは子羊を殺したためですか。「憐憫まざりしによりて」,そのような男は死ぬべきだという個人的な感情をダビデが表わしたことが記録に載っています。何をあわれまなかったのでしょうか。子羊をですか。そうではありません。なぜなら,貧しい男の子羊が食事のために使われなかったとすれば,金持ちの子羊が使われたはずだからです。ダビデが激怒したのは,むしろ,金持ちが貧乏な男,人とその家族をあわれまなかったからです。貧しい男は乏しい家計の中からその雌羊を買いました。その羊はやがて家族に毛やミルクを供給してくれたでしょうし,その羊から他の羊をふやして群れを作ることもできたでしょう。今や,貧乏な男の行なった世話や犠牲はすべてむだになってしまいました。ダビデは,実際,出エジプト記 22章1節にある律法に従い,金持ちはその子羊を4倍にして弁償すべきだと言いました。(ご存じのとおり,ここで預言者ナタンは,実は,ダビデ自身がどん欲さのためにウリアという男に対してあわれみを欠いたことを示すためにその話をしたことを明らかにしました。)

      このことは,神が動物そのものを気にかけておられないということを意味するものではありません。それどころか,神がイスラエル人にお与えになった律法契約の中には,自分の動物や,仲間のイスラエル人の動物に,しんせつで思いやりのある注意を払うことを求める律法がいくつかありました。動物には休息の期間を与えねばなりませんでしたし,困っているときには助け出してやらねばなりませんでした。またふつり合いなくびきをかけたり,脱穀のときに口輪をつけたりしてはなりませんでした。(出エジプト 20:10; 23:4,5,12。申命 22:10; 25:4)詩篇 23篇には,イスラエルの羊飼いがふだん羊をしんせつに世話していた様子が美しく描かれています。動物を顧みない残酷な態度は,正しい人々のあいだでは見られず,邪悪な人々のあいだで見られました。―箴言 12:10。

      しかし,動物は人間の利益のため以外の何ものでもありません。神は最初の人間夫婦に衣をまとわせるため,ためらうことなく動物の皮を使われました。(創世 3:21)神はアベルがささげた羊の犠牲を喜ばれました。(創世 4:4)使徒パウロは実際,分別のない動物のことを「捕へられ屠らるるために生まれ」と述べています。(ペテロ後 2:12)これは,神は動物を,単に殺させる目的で創造されたと言っているのではありません。また,単なるスポーツとして猟をする場合のように,むやみに動物を殺すことを正当化しているのでもありません。しかし,少なくとも全世界的な洪水以来,神は「凡そ生る動物」を青草の場合と同様に食物として用いる権利を人間にお与えになりました。(創世 9:3)動物を食べることは,コロサイ書 2章21,22節(新),で描写されている意味において動物を『滅ぼす』ことといえます。

      そればかりか,神の律法は,人間に危害を与えるようになった動物を殺すことも規定しています。(創世 9:5,6。出エジプト 21:28,29)ぶどう園を荒らすキツネにはわなが仕かけられましたし,人の羊の群れを襲う動物を殺すことも許されていました。(雅歌 2:15。サムエル前 17:34,35)人間の正当な利益と福祉が常に優先されました。それら人間の権利をはなはだしく犯す動物を殺すのは当然のことであり,創造者である神の前に罪を犯すことにはなりませんでした。

      ペットの死

      犬であれ,馬であれ,あるいはその他のどんな動物であれ,いく年かの間友の役をしてくれた動物が死ねば,飼い主が寂しく思うのは当然です。しかし,ここでもやはり,平衡の取れた見方を持つことは必要です。

      世界のあちらこちらには,「ペット」の墓地があって,いろいろな動物の埋葬場所には墓石や墓碑が立っています。これで思い出すのは,古代のエジプト人が聖牛のために凝った葬式や埋葬をしたこと,さらには,文字どおり何十万匹ものネコ,ヒヒ,ワニ,ジャッカルのミイラを特別の墓に納めたことです。

      そうした慣行は,聖書の教えとは全く無縁のものです。聖書は,人間だけが永遠に生きる見込みを与えられたことを教えています。アダムは,不従順になったときに限り死ぬことになっていました。(創世 2:16,17)アダムの子孫であるわたしたちは,彼から受け継いだ罪のために死ぬべき状態にあります。「罪の払う価は死なり,されど神の賜物は我らの主キリスト・イエスにありて受く永遠の生命」だからです。(ロマ 6:23; 5:12)「弁別なき生物」である他の生物は,神に対して意識的に,あるいは故意に罪を犯すことがありません。したがって,その死は自然のなりゆき,頭初から遺伝的な構造に定められていた,だいたいの寿命のためにほかなりません。たとえば,サイは半世紀あまり生きるかもしれませんが,毛の短いトガリネズミで二,三年の寿命を持つものはほとんどいません。昆虫の中にはわずか二,三時間しか生きられないものもあります。このことは,神が約束された,み子の正義の王国による新秩序においても依然として変わらないでしょう。その時,人間がアダムから受け継いだ死は「なく」なります。―黙示 21:4。

      キリストのあがないの犠牲によって罪深い人類に備えられた復活は,明らかに,動物には適用されません。動物はそうした神の備えを理解して,それに信仰を置く能力を持ってはいないのです。イスラエルで動物は死ぬと墓に葬られず,町の外に引いて行かれて捨てられました。(エレミヤ記 22章18,19節; 36章30節を比較してください。)死んだ動物は,そこから復活することのありえるシェオール(全人類の共通の墓)に行くという見方は全くなされませんでした。

      確かに,動物はすばらしいものです。ただし,それは自然の環境においてのことです。動物は人間の真の身代わりには決してなれません。平衡を欠いた見方をしたり,感情的な態度を取ったりしないために,神がご自分のひとり子を与えるほど愛されたのは人類の世であったことをよく理解すべきです。(ヨハネ 3:16)実際,今日の人間の大半は神の属性を反映しておらず,また,神に『象った,その像』のように行動していません。そのために人間は,悲しみ,ざせつ,焦燥,心痛を伴う多くの事柄を引き起こしています。しかし,すべての人がそうだというわけではありません。すばらしい仲間になれる人々,りっぱで愛すべき人々,神の愛を受けるに価することを証明している人々を見いだせるのです。そうした人々を捜そうとすすんで努力すれば,決して孤独になることはありませんし,人間のみが与えうるものを動物から得ようとするあやまちを犯すこともありません。

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