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神の知恵ものみの塔 1962 | 10月1日
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よ,あなたこそ,これをなさる方ではありませんか。われわれはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてのことをなさるからです」。―エレミヤ 14:22,新世。
雨と雲にはしばしばいなずまが伴います。いなずまに命を与えて,その望みを遂げさせることのできる人間がいるでしょうか。人間は電力を使用することができます。しかしいなずまは,だれが送り,だれが制御しますか。ヨブに向かって言われた神の御言葉の中で,いなずまは,彼らの仕事を成し遂げたことを「われわれはここにいます」。と神に報告しているかのごとくに描写されています。ヨブは自分のためにそれをいなずまにさせることができましたか。いなずまに任命された一つの仕事は,電気的に土地を肥やすことです。1956年6月号の「サイエンス・ダイジェスト」はこのように言っています。「世界で最大量の窒素化合物を造り出す者はいなずまである。これらの化合物は,いろいろに薄められた形で雨と一緒に地上に落ちて来る。いなずまがないと,地球上のすべての植物が実際にしなびるか枯れてしまうとさえ考えられている」。いなずまの中にはなんという知恵があるのでしょう!「地球の驚嘆すべき大気」という本は次のように報告しています,「いなずまの科学的研究は,二百年以上も続けられている。いなずまが,巨大な電気の閃光であることはずっと以前から認められているが,その原因やこまかい作用は,現在に至るまで神秘として残っている」。
動物の中の神の知恵
エホバはいま,ご自分の知恵を示すものとして動物を例に取り,その種々の習性や能力を説明されます。エホバは質問されます,「あなたはししのために食物を狩り,子じしの食欲を満たすことができるか。彼らがほら穴に伏し,林のなかに待ち伏せする時,あなたはこのことをなすことができるか。からすの子が神に向かって呼ばわり,食物がなくて,さまようとき,からすにえさを与える者はだれか」。―ヨブ 38:39-41,新口。
創造されたすべての動物は,比類なき神のみわざと,人間の理解を越えた愛あるご準備を示すものです。人間が創造されて,魚,鳥,獣,はうものに対する支配権が人間に与えられる以前でさえ,神は,これらの生物に,すなわちライオンからからすに至るまで,食物を与えておられました。神はヨブに,ライオンのために食物を準備してやることができるかどうかをお尋ねになります。そんなことはおよそヨブの力のおよぶことではありません。ライオンは自分でやって行くことができます。「若きししはほえてえさを求め,神に食物を求める」。―詩 104:21,新口。
神の世話は,堂々としたライオンで終わることなく,モーセの律法では清くないとされているからすにまでおよびます。(申命 14:11-14)からすは,ノアの箱舟から真先に出て,舟の外にとどまり,世界的大洪水によって清められた地で自分を養ってくださるように神に頼った生物でした。(創世 8:6,7)からすの家は,辺ぴなところにありますが,そればかりでなくその食物も少ないので,田舎を広くさがしまわらねばなりません。食物を求めて,落着のない様子で飛び回る習性が,そのことをよく表わしています。からすは食物を神から得ます。神ご自身のみ子も言われました,「からすのことを考えて見よ。まくことも,刈ることもせず,また,納屋もなく倉もない。それだのに,神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは鳥よりも,はるかにすぐれているのではないか」。(ルカ 12:24,新口)神が,清くないからすを養って下さる以上,神に頼る人々を忘れたり捨てたりはなさらないということを私たちは確信することができます。
神は,動物が助けを最も必要とする時に彼らの世話をみられます。彼らの本能は,神から直接に来たものです。そして,その本能の導きによりひとりで子を産みます。そこで神はヨブに質問されます,「あなたは岩間のやぎが子を産むときを知っているか。あなたは雌じかが子を産むのを見たことがあるか。これらの妊娠の月を数えることができるか。これらが産む時を知っているか。これらは身をかがめて子を産み,そのはらみ子を産みいだす。その子は強くなって,野に育ち,出て行って,その親のもとに帰らない」。―ヨブ 39:1-4,新口。
こうした出来事をすべて正確に記録しておいて,これらの動物,すなわち野生やぎや雌じかが子を産む期間に危険から守ってやるための準備をすることができますか。野生やぎと雌じかは長年月生存してきましたが,人間の世話があったからではありません。動物たちが子を産む時を仮りに人間が知っていたとしても,家畜と同じように彼らの世話をしてやることができますか。
彼らの自然のありさまを観察しようとしても,近よることさえ人間には容易ではありません。「高き山はやぎのすまい」と詩篇記者は書いています。(詩 104:8,新口)ある時サウルは,「やぎの岩の上で」ダビデを捜しました。(サムエル前 24:2,新世)エンゲデの野にある死海の上の淋しい岩地には,野生やぎが特に多くいたのに違いありません。しかし,どこに住んでいようと,人間は容易に彼らに近づくことはできません。それは,スイスの旅行者ジョハン・バークハートが「トラベルス・イン・シリア」の中に書いている通りです。
「山(シナイ山に隣接したセント・キャサリン)の頂上に近づくにつれ,岩の間で草を食べている野生やぎの小さな群れが遠方に見えてきた。アラブ人のひとりが私たちを離れ,ひどく遠回りをして,背後から射てるくらいのところまでやぎの群れに近づこうとした。彼は,やぎの見える所にい残っておどかさないようにすわっていてくれと私たちに言った。彼が岩のうしろのうってつけの場所にもうちょっとでたどりつくところで,やぎどもは突然一目散に逃げてしまった。彼らがそのアラブ人を見たはずはないのだが,風向きが変わったので,彼のにおいをかぎつけたのだ」。
野生やぎは人間の世話がなくともやっていきます。雌じかも同様です。神から与えられた本能によって,もうすぐ子が産まれるということを知ると,森の中にしりぞいて子どもをかくし,養います。子は間もなく「強くなり」「出て行って,その親のもとに帰らない」。そして,神の世話で自分自身の生活をします。
私たちはエホバがヨブにお尋ねになった質問に感動して,エホバを崇拝し,エホバに頼り,そして自然という本だけでなく,記録された御言葉,生命を与える知恵の本を研究しなければなりません。そうする時,エホバのご親切に対する私たちの感謝はいやますでしょう。「ヱホバに感謝してうたへ……ヱホバは雲をもて天をおほひ,地のために雨をそなえ,もろもろの山に草をはえしめ,食物を獣にあたへ,また鳴く小がらすにあたへ給ふ」。「ヱホバはよろづの者にめぐみあり,そのふかきあはれみはみわざの上にあまねし」。―詩 147:7,9; 145:9。
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無神論者も聖書を学ぶものみの塔 1962 | 10月1日
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無神論者も聖書を学ぶ
ここ東洋では友人や親類の者が大きな影響力を持っているため,家族そろって聖書を勉強すると,きわめて効果的です。台湾のある伝道者は家から家に伝道しているとき,ちょうど仕事に出かけようとしていた婦人に会いました。その婦人は忙しかったにもかかわらず,聖書を知りたいとの希望を述べたので,伝道者は次の日曜日の朝訪問することをとり決め,婦人とその夫の両方に話すことにしました。二人ともクリスチャンではないとの事でした。伝道者が再び訪問したとき,大学教授の夫に会いました。この人は神を信じていませんでした。多くの宗教の話を聞いたこともありましたが,そのどれからも自分の疑問の答えを得られなかったのです。それで聖書の勉強をすすめられると,「私にはかまわないで下さい。あなたの御希望にそうことはできませんから。家内とだけ勉強して下さい」と言いました。しかし,できる限り御質問にお答えしますから,とにかく一緒に座って聞いて下さいと,伝道者はすすめ,中国語の「楽園」の本を用いて研究が始められました。そして驚いたことに,第1章を学ぶうちに,創造と創造主について抱いていた最も困難な質問に教授は答えることができたのです。疑問は解け始め,「もし神が存在すれば」という言葉を使わなくなったのは,大きな変化でした。創造の記録に関して,聖書と真の科学が調和しているのに驚嘆したこの教授は,次のように語りました,「たしかにこのように広範囲な準備をして,人間に楽園の住み家を与えられた神は,人間に対する大きな愛を表わされています」。いまこの人は,従順な人類に楽園を回復するエホバの御目的を更に深く学び,よい進歩を見せています。―1962年度エホバの証者の年鑑(英文)より。
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